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わたしのこと〜幼少編〜

2017.07.08 08:33

こんばんは、松本佳奈です。

先週のこと…岩手の島越から、獲れたてウニが届きました。大大大好物のウニ。愛するウニ。嬉しすぎて言葉にならない…早速近所のお店に持ち込んでウニ丼にしてもらいました(贅沢すぎる)

ありがとう!ありがとう!

海の恵み!!!

獲って下さった方!!


はい。突然ですが、今日は自分の小さい頃のことを書きます。

前回のブログで載せたこの写真。「何よりも佳奈ちゃんの髪型が気になりました」とのご意見いただきました。


わたしは天パーです


この時、多分幼稚園。それまで伸ばしていた髪を初めて切ったら突然アフロになってしまいました。そこで気付いたのです、自分が天パーであることに。(長い時は普通にストレートでした)

ある一定の短さを越えると癖が出るようです。不思議。今はだいぶ髪質が変わりましたが、前髪はくるくるなので軽いストレートパーマをかけています。



いちばん古い記憶は3歳頃。車に乗っていました。赤い車、シートは白黒のチェック。「ポーくん」と呼んでいた男の子の人形を持って、車庫に停まった車で遊んでいた。祖母と祖父と母、そして私。4人暮らしでした。


祖父(以下、じっちゃん)は寝たきりで、祖母が世話をしていました。川釣りが好きで、「元気になったら佳奈ちゃんを釣りに連れて行く」と言っていました。


じっちゃんが寝たきりになったきっかけは癌でした。恐らく原因となったであろう酒とタバコを、母と祖母は毛嫌いしていました。


じっちゃんが亡くなったのはいつだったか…幼稚園に上がる頃だった気がします。さすがに骨は拾わせてもらえなかったのか、記憶にない。川か海か、水辺に散骨した記憶は、うっすらある。(川辺が好きなのはじっちゃん譲りなのかな)


母は自宅の一室で音楽教室を営んでいて、わたしも3歳頃から習っていました。母の専門は声楽で、レッスンが終わり生徒が帰ると、母の練習タイムが始まります。常にオペラが聴こえている家でした。

「おもちゃはすべて手作り」で、粘土で作った人形やおままごとセット、すごろく、飛び出す絵本、牛乳パックでできた立体パズル。幼稚園児が二人入れるくらいの大きな家まで作ってくれました(ダンボール)


祖母(以下、おばあちゃん)の思い出は、パーマ液の匂い。あまり笑わない、緊張のある人でしたが、散歩に連れて行ってくれたり、わたしとはよく遊んでくれました。この頃、編み物をよくしていて、近所の手芸屋さんで毛糸を買ってはぬいぐるみを編んでくれました。


父の記憶は、残念ながらありません。どうやら、1歳頃までは一緒に暮らしていたらしいのですが。本当に最近になって父をよく知る方に出会い、「お父さんは、佳奈ちゃんをお風呂に入れるために会社を抜け出してたよ」「ホームセンターで、親子三人で歩いているところを見たことがあるよ」などなど、わたしが全く覚えていないことを教えてもらう機会があり…そうだったのかーと。


ちょっと泣きました。なぜ泣いたのかわからないけど。嬉しかったのかな。


インコを飼っていました。おばあちゃんが鳥好きだったのか、うちには鳥が絶えることがありませんでした。木更津駅近くの小鳥屋さんでヒナから飼ってきてさし餌で育てます。割り箸を削ってスプーン状にして、稗や粟をお湯でやわらかくしたものを口元に持っていくと、驚くほどガツガツと勢いよく食べます。みんなよく懐いて手乗りになりました。


うっそうと茂る庭。大きな木蓮の木。山椒には毎年アゲハチョウが産卵にやってくる。水槽には何十匹ものでっぷり太った金魚が悠々と泳ぐ。


私の幼少期は常に生き物と共にありました。ピアノもあったし、ご飯は美味しかったし、とても恵まれていたと思う。でも小さいながらに、家族間に漂う暗い歪みを感じていたのは確かでした。こんなに恵まれているのに誰も幸せそうじゃないのはなぜだろう、と不思議でした。信頼し合っている大人同士が、いなかったのでした。


この頃から「私は何歳で死ぬだろうか」と考えていました。事故や事件、人が亡くなるニュースを見るたびに、自分も同じように死ぬことを想像していました。それは決してネガティヴな感情ではなく、ごくごく自然に、当たり前に考えていました。


なぜ「死」について考えるようになったんだろう。死んだ金魚を網ですくって、庭に埋めていたからか。インコも死んだ。アゲハチョウが、サナギのうちに寄生バエに刺されて、蝶にならずたくさんのハエが生まれるのを見た。生まれながらにして片羽がシワシワで飛べない蝶を、死ぬまで世話した。

だからだろうか?


それとも


毎日のようにおばあちゃんが「生きていても楽しくない。早く死にたい。私はすぐ死ぬから。もうだめだから」と言っていたからだろうか。


「いつか、おばあちゃんが起きてこなくなる時が来る」と、毎日朝が来るのが少し怖かった。テレビの音がしない、足音がしないと、死んだかな?と心配になった。自分が第一発見者になることをシュミレーションしていた。


それは3〜4歳頃から、結局17歳までずっと続いたのでした(「もう死ぬ」と言っていても人はなかなか死なないのだということをこの時知った)


そんな幼少期。しかしこんな重暗い家族の中でも、死について毎日考えていても、私は天真爛漫でした(笑)歌が好きで、絵が好きで、空想が好きで、いつも何かしら描いたり、物語を作っていました。


この、のびのび天真爛漫が、幼稚園に入り友達と関わるようになり、勉強や運動で成績を付けられるようになることで、少しずつ変化していくのです。


その話は、また今度。


松本佳奈