「#1 高橋憲一 引退」
携帯に電話がかかってきた。
大阪エヴェッサのマイメン穂坂ACの結婚式で再会したばかりのケンイチからの電話はきっと毎シーズン連絡くれるように
「今年も契約が決まりました、頑張ります」という報告だと思い、
「ケンイチは毎年、律儀でなんかわるいなー」と思いながら電話を取った。
「ちょっと話したいことがあるんですけど・・・」と
ケンイチはいつもの穏やかなトーンで、今シーズンでプロのコートから
離れる決意をした事を話してくれた・・・
背番号1番 高橋憲一との出会いは、
忘れもしないJR仙台駅メトロポリタンホテルのロビー。
当時、ケンイチの事は仙台でHCを務めていた学泉時代の恩師であり仙台を「東北の雄」に作り上げた浜口HC(現京都ハンナリ―ズHC)を通じちょっと知っていたくらいで、ちゃんと話すのは初めてだった。
FA宣言したケンイチに岩手に来て欲しいとお願いのために仙台に行ったけれど、正直情熱以外で岩手の良さを伝えられる自信はなかった。
たしか桶さん(現大阪エヴェッサHC)が岩手に来てくれる決断をしてくれる、直前だったと思うので、前シーズン19勝33敗、勝率3割のチームに正直魅力は無かったと思う。
FA宣言した選手のサラリーは各球団に開示される。
なので自分はケンイチが仙台でどんな報酬をもらっていたかを知っていた。
だけど岩手が出せるサラリーはそれよりもかなり下がった条件でした。
それでもビッグブルズを震災から「復興の旗印」にするために、一緒に仕事して欲しいと伝え、ケンイチを皮切りに岩手に熱いスタッフ、熱い選手を迎え入れるから一緒に頑張ろうと話した。
たしかケンイチは家族に相談した2日後に連絡をくれ「仙台に会いに来てくれてありがとうございます、一緒に岩手からリーグをビックリさせましょう」と言ってくれた。
後日、家探しのために家族で盛岡へ来たケンイチファミリー。
奥様と初めて話すチャンスがあったときに、きっとケンイチは知らないけど
「岩手に呼んでいただいてありがとうございます」と挨拶して下さった。
「こちらこそ大きな決断をしてくださりありがとうございます」と話すと
奥様はまだあのころ小さかった長男のジョー君を抱き、涙を流しながら「本人は仙台に身も心捧げるつもりでしたので、正直引退を考えていたと思います」と話してくれ、
自分も「ケンイチが来て岩手の人も喜ぶし、
引退なんて口にさせないで、これから東北のために働いてもらおう」と
北上川が見えるところで二人で涙したのを今も覚えています。
その後本当にケンイチは仙台ー岩手のあと、青森ー秋田と4つの東北球団でプレイし東北バスケットボールに貢献してくれました。
たしか奥様のふるさとである青森と、
キャリアの最期を地元秋田で終えれたのは、
バスケの神様のケンイチへプレゼントだったと思うし、東北学院や日立電線のチームメイトにとってケンイチの活躍は励みだったはずだし、秋田工業高のバスケ部みんなにとっては誇りだったと思います。
コート外でも人手の足りないチーム事情を察し「外国人選手の送迎はオレがします」とかって出てくれ、シーズン中、アルコールを飲まないケンイチはランチで外国人選手と
コミュニケーションを深め、当時通訳なしで外国人選手とコミュニケーションが
取れない若手選手の模範になってくれました。
ケンイチがコーナーやウィングで外国人選手からたくさんのオープンルックでアシストをもらっていたのは、彼のシューティングスキルだけでなく、彼の行動から生まれた信頼関係も大きな影響があったと思います。
その人柄から、たくさんの方にも支えられていました。
「選手・スタッフ全員のために決起会を開いてくださる有志の方がいるのですが、
チームに迷惑で無ければどうでしょうか」と声かけしてくれた事もありました。
ゲームのある週末に社外の方との食事をNGとするチームもあります。
チーム状況やヘッドコーチの意向もあるので気を使いましたが、桶谷HCも快くOKを下さり、選手・スタッフ全員で決起会をお世話になったこともありました。
恥ずかしいですが当時は選手達を一堂に決起会でご馳走する余裕が会社に無く、チームビルディングのためには助かった部分も多く、
「ケンイチとチームがより仕事しやすい環境を」と気を使ってくれた有志の方の心意気に甘え、助けられたこともあり、今でも感謝しています。
岩手に来てくれるとき、ケンイチが長く着けていた背番号1は岩手では澤口誠が着けていて空いていなかった。
マコトには申し訳ないけれど、まだ若いしまた1番が着けれる時は必ず来ると思いマコトにお願いをしてなんとか1番を空けてもらおうと思っていたら、ケンイチは
「やめてください。マコトもプライド持って1番付けてると
思います。心機一転、背番号は変えてチャレンジします」と男気で来てくれ、サラリーも下げたうえに、背番号も準備できなかった自分は恥ずかしくなりました。
そんなケンイチが岩手で開幕し最初の2012年10月の月間MVPに選ばれたのはケンイチファミリーの力でもぎ取ったMVPだったと思うし、そのMVPの賞金もすべて遠征先でチームメイトの為に使い切ったのはホントにケンイチらしかった。
電話で引退を聞いた時は、真っ向から反対してしまいました。それはきっと自分以外の彼を応援してきたブースターの声でもあったと思うし、まだまだ東北のために必要とされる選手だと思う。
今でもシューティングさせたらケンイチよりシュートの入る選手を探してくる方が難しいと思います。
でも家族とも長く話し合った結果の結論と聞き、彼と彼を応援する人たちが目に浮かび目頭が熱くなりました・・・
当時自分は岩手ブースターにボロクソに言われていた時期でしたが、岩手のホームに来てくれた、みずしらずの数名の仙台ブースターから突然「ケンちゃんにプレイのチャンスを与えてくれてありがとうございます」と
感謝され当時は正直グッと来たけれど、あのとき声かけてくれたみんなも今回のケンイチの引退知らせにふれ、きっと涙しただろうと思います。
キャリアでチャンピオンリングは取れなかったけれど、有明を黄色く染めた仙台ブースターの敗戦後も鳴りやまない
「ゴーゴーナイナーズ」コール。
クレイジーピンクと共に満員に膨れ上がった有明コロシアムで鳴り響いた県民歌。
必要とされたどのチームでも記憶に残るシーンをブースターと共に作ってくれました。
今シーズンは引退セレモニーが企画されているようです。
秋田で永久欠番は難しいかもしれないけれど、東北ブースターのハートの中で永久欠番選手だったと思います。
今後あのレベルで仙台ー岩手ー青森ー秋田と東北バスケットボールに貢献出来る選手がこの後出てくるか分からないと思いますが
ひょっとするとケンイチがそういう選手を育ててくる日が来るかもしれません。
これまでの高橋憲一選手のキャリアに敬意を表し、感謝すると共にこれからもバスケット界の発展のために貢献してくれると元チームメイトやブースター達と共に信じています。
また一緒に仕事するチャンスが来ることを願い誰にも頼まれていない自己満足の
「高橋憲一」オフコートストーリーを閉じたいと思います。
Respect 「高橋 憲一」