凸と凹「登録先の志」No.12:藤田美保さん(認定NPO法人コクレオの森 理事)
自分で学校をつくる道を選んだらいいじゃないか
女性であっても自立していた祖母や母親の影響で、「子ども扱いしないで、ちゃんと私の意見も平等に聞いてほしい」と、小学生ぐらいから考えているような子どもでした。「子どものくせに」とか「大人が決めたことだから」と言われるのが嫌で、子どもでも一人前の人として見てほしいと思っていました。
そんな時に黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』を読んで、大きな衝撃を受けました。「私もトモエ学園みたいな学校に行きたい!」と両親に懇願しましたが、「田舎だし、そんな学校はない」と言われて終わり。自分が虐げられていたわけではないけれど、大人に決められる学びではなく、自分で決められる自由な教育を受けたいと思っていたのに、どうすることもできないことに悶々としていました。
大学生になる前にどう生きたいかを考えた時、人が人として生きる過程にかかわりたいと考えるようになりました。小学校の頃から日本の戦後処理が気になっていたことから、どこかのアジアの国に貢献したいと考えるようになり、ストリートチルドレンを支援するためにバングラデシュへ行きました。当時はバングラデシュに骨を埋めるぐらいのつもりでした。現地の言葉も覚えて、ストリートチルドレンやスラムの子たちとも不自由なく話せるようなりましたが、彼らの問いかけや会話がすごく胸に刺さり、背負いきれなくなってしまいました。将来どうしたらいいのかわからないまま、とりあえず社会人になろうと思い、教育学科だったので、周囲の友人たちと同じように教員採用試験を受けて、公立学校の教師になりました。
公立学校の現場は教師が決めた教科書通りの内容を教えていくという場所で、周りの教師と同じように、自分も一生懸命に教科書を教えていきました。そんな中で、子どもを一人の人として尊重したいはずなのに何をやっているんだろう…、教育は好きだけど、私が考える教育は日本の公立学校の形じゃないと思い、自分で学校をつくる道を選んだらいいじゃないかと考えるようになりました。
教員を辞めるきっかけになったのは、脳性麻痺で一人暮らしをする女性との出会いでした。1年半ほど、教員をしながらボランティアで彼女の生活をサポートしていました。彼女は一人では生きていけませんが、コンサートに行ったり、料理の味つけを自分で指示してボランティアの人にご飯をつくってもらったり、自分の住みたい家をボランティアの人たちで建てたりして、思い通りに暮らしていました。その姿を間近で見て、これ以上はできないという枠があるのではなく、どういう状態であっても自分らしく生きていくことができるんだということを学びました。
教員をしている間に大阪在住の人と遠距離婚をしていましたが、教員を辞めて大阪に行くことを決め、大学院を受験し、進学することになりました。大学院に行きながら子どもを2人出産。子育てと勉学に忙しく毎日をこなすような生活で、学校をつくるなんて夢のまた夢だとあきらめていきました。そんな頃、大阪に新しい学校を創ろうとしている人たちが講演会を開催するという記事を新聞で見て、すぐに電話して行きました。その講演会で「学校を創るには仲間が必要だったんだ。一人ではできないけど、この人たちと一緒なら学校を創っていけるかもしれない」と思いました。
開校前にプレスクールを実施することになり、当時大学院生で比較的時間があったことから、取りまとめを任されることになり、どんどん中心メンバーとなっていきました。いざ開校となった時に、誰か1人、専任スタッフが必要となりました。こうした市民が創る学校が広がっていくためには、能力はなくてもやりたい気持ちがある人がやることが大事だと思い、専任スタッフに手を挙げました。
どんな未来をつくっていきたいかを主体的に考え、行動できる子どもを育む
自分たちの暮らしの裏側で何が起きているのか、この洋服はどこから来てどんなふうにつくられた洋服なのかを気にかける等、地球市民になるための教育を、コクレオの森が運営する箕面こどもの森学園では行っています。箕面こどもの森学園を巣立っていった人の中には、若者と社会課題を共有するためのツアーに取り組む人や、途上国へインターンに行っている人がいたりします。枠にとらわれず、自分の人生を自分で切り開いていっている感じの人が多い印象です。
立ち上げ時はとにかくすべてが大変でした。どうしていいかわからず、子どもたちに「対話を大切にしよう」と言っても私自身が対話の経験もない状態。それから今の場所に移動して校舎が広くなり、地域に認知されて学校外の活動も増加して、生徒数やスタッフ数も増えていきました。そんな中、いろんな要望や意見が出て、そこに耳を傾けているうちに、何を大事にするのかがわからなくなってしまったのが、開校から10年目を迎えようとしていた頃でした。
悶々とする中、このタイミグで自分たちが考えていることを書籍『こんな学校あったらいいな ~小さな学校の大きな挑戦~』にまとめ、出版することになりました。自分たちが何をしたいのか、何をめざしているのかをはっきりさせることで、保護者の方の要望や声などにも適切に対応できるようになっていきました。私たちが取り組みたいのは、民主的に生きる市民を育むこと、つまり、自分がどのように社会とかかわっていて、どんな未来をつくっていきたいかを主体的に考えて行動できる子どもたちを育むことだったのです。
活動している中で、お子さんがいらっしゃらない方や高齢者の方に「私には子どもがいないから、子育てが終わったから関係ない」とたまに言われることがあります。子どもたちはいずれ社会人になります。その子たちがどう育ったかは、自分たちの暮らしにもつながると考えています。与えられたことを受け身でこなすだけの自分のことを自分で決められない教育では、豊かな社会はつくれません。
自分たちが生きる暮らしを自分たちの手に取り戻したい
一昔前はどんなものでも自分の手の中にありました。食べ物も自分や身近な人がつくった野菜やとった魚を食べたり、服もまちの中にいる着物や洋服を縫う人につくってもらったりして、自分がかかわれる範囲でまかなっていました。教育も寺子屋など、自分たちの手が届く手触り感のあるものでした。
その後、いろんなものが私たちの手から離れ、いろんなものを関係性ではなく、お金で買う時代となりました。大量生産、大量消費の経済が生まれ、自然が破壊され、人と人の関係性は、無機質で無関心なものになっていき、経済格差が生まれ、生きづらい人が増えてしまっています。
だれもが自分らしく豊かに生きているためには、お金を使って、いろんなものを“消費者”として消費する、サービスを受容するのではなく、人と人との関係性を大切にして、“参加者”としてかかわりながら、何かを一緒につくっていくような暮らしがしたい。そう考えます。
今、里山地域で2校目の学校設立をめざしていますが、私たちは教育の分野を担当して、エネルギーや食、医療・福祉等、他の分野の人もいて、そういう人たちと一緒に手触り感のある、顔の見える関係の中で安心できる暮らしを実現できたらと思っています。ぜひそこにかかわっていただける方を探したいですし、それを応援してくれる方と出会えたらうれしいです。
取材者の感想
学校をつくる夢をあきらめていた頃に、講演会開催の記事を新聞で見てすぐに電話して行ったという藤田さんの行動力があってこそ、今があるんだと感じました。
箕面こどもの森学園を一度訪問した時に感じたのは、「本当に“対話”を大切にしているんだ」ということでした。大人(スタッフ)と子どもが対等に話していて、学校の先生と児童・生徒といった上下関係はありませんでした。子どもの頃にこんな学校に通っていたら、どんな大人になっていたんだろうと思わず考えてしまいました。
先の見えない時代だからこそ、「枠にとらわれず、自分の人生を自分で切り開いていっていける人」がますます必要なんだと感じます。箕面こどもの森学園のような学校が2校目、3校目と広がっていくことを応援していきたいです。(長谷川)
藤田美保さん:プロフィール
認定NPO法人コクレオの森 理事
小学生の時、『窓ぎわのトットちゃん』を読み、自由な学校に憧れる。その後、小学校教諭を経て大学院に進学し、市民による学校づくりをめざす。2004 年に「わくわく子ども学校」(現:箕面こどもの森学園)常勤スタッフとなり、09年から箕面こどもの森学園校長。現在は、ESDの学校を中心とするSDGsのまちづくりをめざす。共著に『こんな学校あったらいいな ~小さな学校の大きな挑戦~』築地書館、13年。『みんなで創るミライの学校~21世紀の教育のカタチ~』築地書館、19年。
認定NPO法人コクレオの森は、凸と凹「マンスリーサポートプログラム」の登録先です。