「慶喜を軸にみる激動の幕末日本」22 15代将軍徳川慶喜②大政奉還
慶喜が大政奉還を決意するに至るのは、倒幕の動きを現実的な問題と捉えるようになったからだが、慶応3年(1867年)8月上旬頃までは、まだ危機感をそれほど強くは抱いていなかったようだ。それが、8月下旬頃には、事態の深刻さを相当程度認識するようになる。何が変化の原因だったのか?
8月14日、慶喜のブレーンだった原市之進が暗殺される。犯人は薩摩藩ではない。同じ幕臣。原は、兵庫開港を慶喜に働きかけたとの誤解を受けて、幕臣の中の攘夷主義者によって殺されたのだ。そして、西郷が挙兵計画を長州側に告げるのもこの日のこと。しかし、薩摩藩の京都邸内も、西郷らの挙兵倒幕路線で一致していたわけではなく、藩内には深刻な対立があった。薩摩藩内の動向にたえず中止していた幕府側も当然この動きを察知。慶喜の危機感は、9月21日に、居所をそれまでの「若州屋敷」から二条城に移したことからもうかがえる。二条城でなければ、薩摩藩などによる武力蜂起に対応しえなかったからだ。
そうしたなか、9月20日に永井尚志(なおゆき。慶喜側近で大目付)から後藤象二郎にできるだけ早く建白書を提出するようにとの依頼がなされる。このときには慶喜の腹は完全に固まっていたと思われる。そして10月2日、事態がさらに動く。薩摩側から土佐側に対し、土佐藩が建白書を提出することを了承する旨の返答がなされたのだ。こうして、薩摩側の同意を取り付けたうえで、10月3日、土佐藩から大政奉還を求める建白書が幕府に提出される。幕府側から後藤に建白書を採用する旨の返答がなされるのは10月9日。10月11日には在京諸藩重役に宛てて13日に二条城へ来会せよとの通達が発せられる。
13日に先立って12日には在京の幕府諸役人が二条城に呼ばれて、大政奉還の決意が告げられた。ただしこれは内輪の会議。13日は内輪ではない。在京諸藩の重臣50人ほどが集まる。老中板倉が大政奉還上表の案文と思われるものを回覧させ、また白紙を回して希望者が名前を記せば慶喜が面会して意見を聴くと告げた。6人が記名。薩摩1人、土佐2人、安芸1人、宇和島人、備前岡山1人である。このうち薩土芸の4人は一緒にと願って認められた。小松帯刀(薩摩)、後藤象二郎・福岡藤次[孝弟](土佐)、辻将曹(安芸)。4人が並び、松平定敬(京都所司代)、板倉、永井が陪席するところへ奥から慶喜が出て来る。小松は、大政奉還の上表を直ぐに提出せよと主張した。慶喜や板倉・永井らは、なお幕府内で検討してという心積もりだったらしいのだが、武力倒幕計画の進行を知る小松の強い主張が通る。翌14日に上奏。同じ日、小松・後藤ら4名は摂政の二条斉敬(なりゆき)に面会して、慶喜の上表を速やかに裁可せよと求める。これも効果をあらわして、翌15日、慶喜が参内すると勅許の御沙汰書が下された。大政奉還は成ったのである。
しかし、それで政権が動いたわけではない。江戸の徳川家は、旗本の知行地を含めれば日本全国の3分の1の土地を所有する大領主であり、その巨大な領地を基盤として、「幕府=日本政府」を維持している。その根本の領有関係は少しも動いていない。一片の上表文で政権を帰すと言っても、権力というものはそんなに簡単には移動しないのである。それは上表を捧げた側も、受け取った側もわかっていた。諸侯会議で今後の基本方針を決めるまで、とりあえず幕府が維持されることになる。10月24日に提出された征夷大将軍の辞表は却下。諸侯会議で次の政治体制を決めるまで、慶喜の将軍位は続くことになったのである。諸侯会議で慶喜が主導権をとれば、新しい国家体制が慶喜を中心に形成されるという可能性が大きかった。
討幕派はそれを許さないと決めていた。軍隊で決着をつけるのである。薩摩と長州は、京都へ向けて軍事動員を急いだ。薩摩の軍隊が京都に着き、長州の軍隊が合図次第で入京できる態勢を調えたところで12月9日、薩摩の西郷隆盛・大久保利通、公卿の岩倉具視の3人が中心となって王政復古のクーデターを敢行した。諸侯会議で今後のことを決めるという流れを横から断ち切り、天皇親政を宣言したのである。天皇の許(もと)に特に名指しした公卿と、特に名指しした大名やその家臣との合同政権が組織され、慶喜は排除された。征夷大将軍はこのとき廃止された。摂政・関白など公卿の旧来の体制も廃止された。
「二条城・二の丸御殿」 ここで幕府が諸藩重臣に大政奉還の意図を伝えた
邨田丹陵「大政奉還図」聖徳記念絵画館
慶応3年10月12日二条城二の丸黒書院で、慶喜が在京幕府役人に政権返上の決意を述べた瞬間が描かれている
『明治天皇御紀附図稿本』「大政奉還」
慶応3年10月13日 慶喜に意見するため居残った4人の諸藩重臣 左から福岡、後藤、辻、小松 右端は老中板倉