星の街仙台~伊達政宗が隠した無形の文化遺産 ④
https://slib.net/2343 【星の街仙台~伊達政宗が隠した無形の文化遺産】より
●大久保長安の隠し金
信憑性の点でベスト10に入る国内の埋蔵金伝説の中に、『大久保長安の埋蔵金』が入っている。お家取り潰しや敗走などの不慮の事態があった場合、そのまま退蔵された可能性は高い。忠輝が仙台城にいて、キリシタンとともに幕府転覆を虎視眈々と狙っていたとすれば、その軍用金は使われずにいたということになる。大久保さんがからんでいたことで、仙台藩の軍資金とは別に特殊な存在だったと思われる。大久保長安事件で遺族は全員処刑され、姻戚関係も改易処分された。大久保家の財産が見つかっていないということは、その行方を知るのは忠輝ただひとりの可能性高く、それを守るためにも仙台に永住しようと決心したとも考えられる。(政宗公の指示・・?)
日本には、とんでもない数の埋蔵金伝説があるらしいのですが、実際に工事現場などから偶然に見つかる埋蔵金のほとんどは、言い伝えも古文書もなかった(個人所有の)ものだそうです。小学生の男子がなにげに蹴っ飛ばした壷が割れて、金貨がザクザク出てきちゃったな事件もあったわけで。まるでおとぎばなしのような出来事だが、現実に起きているのです。
大久保長安の埋蔵金が 見つかっていない。
●松尾芭蕉
松尾 芭蕉(まつお ばしょう)は江戸時代前期の俳諧師(はいかいし)。寛永21年(1644年)生まれということは、政宗公没7年後の誕生です。現在の三重県伊賀市出身であることから、忍者説などがささやかれてます。最近の研究では、芭蕉と曾良の旅は’偵察の旅’で『奥の細道』は紀行本ではなく仙台藩の内部を記した報告書だなどどいわれているようです。仙台藩に入って、出発のときに詠んだ句が「松島の月まづ心にかかりて」と絶賛しているにもかかわらず、松島では1句も詠まずに1泊して通過しているという異様な行程は有名な話です。
「松島や あぁ松島や 松島や」という誰もが知る句も、芭蕉が詠んだものではないことが解明されてます。
このふたりにとって、松島の風景なんかどーでもよかったみたいな。。。そのかわり、仙台藩の軍事要塞といわれる「瑞巌寺」や藩の商業港「石巻港」を執拗に見物したことが『曾良旅日記』に記されています。『奥の細道』は、芸術活動ナンタラではなかったと。このふたりの旅の目的はズバリ、’仙台藩の財宝探し’じゃないでしょうか。それもキリシタン関係じゃないでしょうか。ツネさんが持ち帰っていろはが隠したすんぎょいもの。和訳の取り説ついたやつ。
1613年(慶長18)9月15日、仙台藩領雄勝湾船戸神明から一隻の黒船が外洋へと出帆した。
「これで布石は打った。あとは大艦隊を待つだけだのう。」
「しかし殿、常長は無事にローマまでたどり着けるであろうや。。。」
「カタコよ、そのような心配は無用じゃ。ソテロもいることだし、船出できるのも運がおれたちに味方している証拠よ。」
「そうじゃ殿の言うとおり。小十郎は心配性で困る。どおってことないさね。」
「シゲのようにまったく心配しないのもどうかと思うがな。」
「これはこれは(笑)」
馬上の男たちは、天下を手中に収める夢が現実味を帯びてきたことに、こみ上げるものがあった。
「どれ、城までは道中長いゆえ ひとつ用を足すとするか。」
成実(しげざね))が馬から下りて道端に立った。
そこは、今船出した湾が一望できる山道の崖ふちである。
「それではおれもシゲに習うとするか。」
政宗公も馬から下りとなりに並んだ。
「殿、思い出しますなぁ、こうしてふたり並んで寺の塀に小便してたとき後ろから・・・」
「あぁ、、和尚がいきなりゲンコツくれたっけなぁ」
「あれは痛かったなぁ・・・(笑)」
子供時代、ふたりは虎哉(こさい)和尚に教育された。政宗の父輝宗公は米沢城の北に資福寺を建て、僧として誉れ高い虎哉和尚を政宗の教育者として招いた。輝宗公の叔父に当たる伊達実元の息子成実は、政宗のひとつ年下であったことから側小姓となった。
成実はたいそうな暴れん坊で父も手を焼くほどだったが、逆に政宗は引っ込み思案で内向的な少年だった。それは5歳でわずらった疱瘡による右目失明と、醜く腫れたその目のコンプレックスからくるものだったろう。後の政宗公の「剛胆」な性格は虎哉和尚の教育と、共に育った成実の影響によるものといっても過言ではない。
「そういえばシゲ、おれは小田原の山の上で関白様と連れションしたことあるぞ。」
小田原の北条氏攻めの時、伊達家は北条家と協定を結んでいた。
そこに秀吉が参戦を促してきたのだ。
北条氏に味方し秀吉軍と戦うことを考えていた政宗だったが、政局に詳しい片倉小十郎が豊臣方に就くよう進言した。
意見がまとまらないまま時が過ぎ、小田原の総攻撃が開始されようとしていた。
まわりから促されとりあえず一旦出陣したものの、「後顧の憂いを絶つため」という口実で政宗の実弟である小次郎(こじろう)を殺しに 米沢へ戻った。
「殿、小次郎君を切り殺したと芝居を打ったときは城中が大騒ぎでしたなぁ。」
「あぁ、間者に聞こえるようにせんとウソがばれるからな。」
弟小次郎と母君を無事山形に逃したあと、政宗は再度小田原に向かったが、遅参の制裁として底蔵に幽閉されながらも懐柔策で命だけは助けられた。
そして初めて会った秀吉の’ひととなり’に魅了されたのである。
破天荒で頭脳明晰、ユニークかつ冷静沈着な戦術は政宗公を惹きつけた。
「小田原で一夜城の壁が白布でできていたのには驚いた。からくりで敵の目を欺き人を殺さず戦に勝つとは。あのようなやり方を見て諸行無常なれど、涅槃寂静の戦もできると教わったものよ。」
政宗公の一団は西日で黄金色に輝く稲穂を横に見ながら、トンボの群れのごとく仙台城をめざして馬を飛ばした。
第三章-探訪へつづく
第三章~探訪
●福沢御殿
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
この歌も江戸時代からあるといわれ、『七つのお祝い』は乳幼児の死亡率が高かった昔に、7歳まで無事に育った子を社会の一員として認め、神様へ感謝する儀式とされる。
黄河幽清も、7歳までは江戸の寺に預けられ、長旅に耐えられる歳に達して晴れて母の待つ仙台へ旅立ったのです。徳川家や幕府にも秘密にされた政宗公の孫は、現仙台市泉区根白石(ねのしろいし)のそばの福沢という地名の場所にあった’福沢御殿’で育てられたと思われます。現在この御殿跡の名残は神社の祠のみですが、根白石にはかつて白石城があり、政宗公の祖母栽松院(久保姫)が住み晩年を送りました。墓もあります。根白石は「美人の里」といわれ、仙台城に仕える女中たちのほとんどがこの出身であったということから、祖母を慕った政宗公が根白石を訪れるたび、女中をスカウトしてきたのでしょう。
福沢御殿についての資料も一切見つかりませんが、唯一「いろは姫 土生慶子氏著」の中に、五郎八姫と弟の忠宗(二代藩主)が福沢御殿に何度か通い泊まっているという記述があります。忠宗が五郎八に会いたければ西館で済むはず。ふたりが何の用でわざわざ存在自体が消された御殿に通いつめていたのか、異常な行動に思われます。
仙台藩の家臣が土着するこの地の館には、藩の最高機密の人材が集められていたのではないでしょうか。双子の兄と入れ代わった忠輝、帰国後の足取りがつかめず2年後に死んだことにされた支倉常長、そして幽清。福沢御殿からは、南へ約10km下る街道があり栗生西舘にたどり着く、城下を通らず極秘に容易に行き来できる道筋なのです。
記録に残してはならなかった伊達家のアジト福沢御殿は、現在の地図上では「館、館前、福沢館下」となっています。地名は、住む人たちの記憶と関係なく長く残るのです。
五郎八は息子に会いに通ったのでしょう。母親の思いとすれば、一緒に暮らすことのできない子供のところへ足繁く行くことは喜び以外のなにものでもなかったと思われます。僧侶に扮した忠輝と修行僧の幽清、親子三人の団欒を楽しんだに違いありません。若く美しく聡明な姫が、再婚することなく生涯独身を貫いた理由はここにあったのです。
●永安寺(えいあんじ)
「400年前のご先祖は修験者で、細川忠興に仕え、曾祖父は明治維新のときに海運業を手広くやっていて、妙心寺とも深く関わりがあったことから、一時期松島の瑞巌寺が経営難だった時に援助をした」という子孫のM氏に案内され、陰陽師親方と3人で根白石に向かった。
栗生西舘から北へ約10km、福沢御殿のあったと思われる場所は現在のリサイクルセンターの裏あたり。そのもう少し先の福岡地区の山中奥深く、車一台やっとこさのダートを1.4km進むと突き当たりに、忽然と現れた永安寺。こんな山奥にひっそりと・・・まるで俗世間から隔離された仙人の住む桃源郷。
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画像
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ここは、松島「瑞厳寺」の中興の祖、雲居禅師によって開山され、二代藩主忠宗公により建てられた伊達家ゆかりの寺。
-明暦3年(1657)、忠宗が古内主膳重広を伴って狩りをした時、福岡の山中に眺めの良い地を見つけた。「雲居の座禅の場にしたら喜ぶだろう」ともらし、古内主膳に命じて寺や座禅堂を建て雲居禅師を招いた-
寺の裏手には、禅師が毎日座禅を組んだという座禅堂跡があります。そしてこの寺は伊達家代々の『非常時の忍び所』として、一族の旅の支度が備えられていたといいます。嘉永5年に火災で寺は焼失しましたが、昭和31年に再建されました。
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雲居禅師直筆の書(本物)
禅師が座禅を組む姿(レプリカ、原画は大梅寺にある)
二代藩主忠宗公直筆の書(本物)
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なるほどこの寺が忍びの館だったわけは、400年経った現代でも、ここだよと説明できない場所にあることです。道に迷って入り込んじゃった、なんてエリアでもない。ここに藩のトップシークレットがいたといわれれば納得できる。そして福沢御殿には、永安寺に仕える者達がいたのです。
●大梅寺(たいばいじ)
伊達家の牌寺として創建された臨済宗妙心寺派の大梅寺は、愛子(あやし)の蕃山(ばんざん)にあります。雲居禅師(うんごぜんじ)は、全国に173ヶ寺を開山し、天皇にも禅を講じたほどの高僧です。政宗公が松島瑞厳寺を創建する際開山に懇請されたが断り、政宗公亡きあと忠宗が遺言を受けその誠意に心を打たれ、やっと瑞厳寺の開山に報いました。政宗公の27年間にも及ぶ雲居禅師へのラブコールはようやく叶ったのですが、
1648年、雲居(99世)瑞厳退寺し、洞水入寺(100世)
1650年、愛子の蕃山を終焉の地と定めて庵を置き大梅寺を建立
1657年、根白石の永安寺を開山。
1659年、雲居入滅78歳。蕃山の山頂に埋葬される。
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大梅寺参道。古い石段の両脇には、個性豊かな羅漢たちの石像が並ぶ。
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大梅寺の麓には栗生西舘があり、蕃山は西舘に五郎八が移り住んだとき、「この山も私にくださいな」ともらった山。雲居禅師はこの地(現・仙台市青葉区茂庭)に庵を結び「瑞雲山祥巌寺」と称し、この山をこよなく愛しました。その後元禄5年(1692)に、伊達綱村公が大亀禅師を迎えて堂を大改築し、名称を霊亀山大梅寺と改称しました。「観光客お断り」の札があり庭園から先の門は固く閉ざされていますが、裏山は遊歩道になっていてハイキングコースとして人気があります。庭園内には、伊達家の別荘「郷六御殿」が移築されていて、伊達家との関わりの深さを感じさせます。
●栗生西舘跡
西舘のまん前にお住まいのS氏はご先祖様が実際五郎八姫と関わりのあった子孫で、ご先祖は五郎八姫から着物を拝領されました。愛子には、他に3軒ほど姫の着物を保存しているお宅があるそうです。当時、一般庶民がお姫様から着物をもらうなどという絵空事のような出来事が、ここ愛子では行われていたのです。姫と住民の間にはかなり親密な交流があったという証拠でしょう。栗生西舘跡は仙山線落合駅から蕃山に向かってまっすぐ徒歩10分ほどの突き当りです。
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掲載許可要
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西舘跡は市の指定文化財だが、手付かずの森。うっすらと井戸の跡も見ることができる。以前地主がこの土地で畑を耕した際、大昔の道具らしき鋏などが出土したという証言がある。(残念なことにそれらは保存されていない)五郎八姫の時代のものであったかもしれませんね。
西舘跡から北側(栗生・落合の町並み)を臨む五郎八倶楽部(H22年発足)のメンバーたち。
1620年-五郎八姫は忠輝と離縁させられ仙台へ。同年支倉常長帰仙。
1621年-栗生西舘に茂庭綱元が住む。
1636年-政宗死去、綱元と入れ替わりに五郎八姫が西舘を貰い受ける。晩年をここで過ごす。
西舘跡と落合駅の中間あたりに、五郎八姫が住民のために建立したという薬師堂があり、この中に「ロウソク食い」と呼ばれている木像があります。
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高さ20cmくらい
下唇(下顎)に十字が彫られている。この十字架をローソクのろうを垂らして隠したのでこの像は「ローソク食い」と呼ばれました。どう見ても洋風な顔立ち(キリスト似)。
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ここからほんの数分離れた場所に、あの「鬼子母神」があります(第一章参照)。マリア様が昇天したという8/15に、隠れるようにお参りをするあの奇祭が行われるお堂です。中にはざくろと赤ん坊を抱いた、マリア様を思わせる像が祀ってあります。
五郎八姫がキリシタンとして、ここ栗生西舘に住んでいたこと、愛子・栗生・落合が隠れキリシタンの聖都であったことは間違いないと思います。仙台城から栗生西舘まで通じる「秘密の通路」を研究してる方の話では、表門を通らず、城の裏側から短時間で密かに西舘へ行く抜け道の名残が今でもあるそうです。隠棲地区であった愛子には、「黒はばき」も住んでいました。城の重要人物が、幕府の目付けに気づかれることなく移動できる、あるいは敵から逃げることのできる『しかけ』があったのです。
●天麟院
呪術の四神で説明した東の松島青龍山瑞厳円福禅寺(通称・瑞巌寺)の西隣に、五郎八姫の菩提寺天麟院があります。五月八日は五郎八姫の命日で、毎年例大祭が行われます。
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いろは観音
忠輝と五郎八
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1606年(慶長11)12月24日、クリスマスイブにふたりは結婚し、2年後に離縁、そして昭和59年(1984)忠輝300回忌の際、徳川本家より改易が解かれ、晴れてふたりは復縁しました。
新潟県上越市の高田城跡そばにある『カトリック高田教会』には、五郎八と忠輝が描かれたステンドグラスがあります。
天麟院の裏手の丘に五郎八姫は眠っています。
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黄河幽清の石碑
天麟院の裏手に、古い井戸の跡があります。
仮霊屋の裏山の藪をかきわけ少し登ると、突然平らに造成された四角い土地が出現します。
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コケに覆われた石の階段と、回りを囲むように石積みがあります。あきらかにここに屋敷があった跡と思われます。
キリシタンだった五郎八姫が、亡くなる3年前(1658)洞水和尚を戒師として落飾し、瑞雲全祥天麟院殿と号しました。天麟院を営創し、洞水を一世とします。洞水はこの前に松島四大観の富山大仰寺を開山しており、幽清はすでに洞水に師事し松島にいたと思われます。そうして母の最期の三年間をこの屋敷で一緒に暮らしたのではないでしょうか。五郎八が仏教に改宗したのは、たったひとりの肉親である幽清に見守られ、永遠の眠りにつきたかったからだと思います。
屋敷跡のまわりは現在木々で覆われていますが、当時は美しい四季の風景に彩られる松島湾が見下ろせたことでしょう。
●瑞厳寺(ずいがんじ)
支倉常長がローマから持ち帰った一対のガラスの燭台が、美術的骨董価値の高い国宝級として保管されています。キリシタン関係の品々は、ひとつひとつ藩の記録に残されるはずが、なぜかこれだけがいつごろどのようにしてここ瑞巌寺所有になったのか、未記載のため謎とされています。
松島の東隣には「お水主町」(おかこまち)という、水夫(船頭)の居住区がありました。地元や和歌山、静岡、愛媛などから雇用されてここに住みました。政宗公の大建築のひとつである瑞厳寺に使用する建築用材などを、紀州熊野から運んだ海上輸送のプロ集団「水主衆」(身分は武士)。水主の茅葺民家は、一軒だけ移築され瑞厳寺参道に茶屋として現存しています。
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町指定文化財
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キリシタン弾圧の渦中、フィリピンから長崎に着いた常長のその後の足取りが不明ですが、幕府の目を逃れて無事に仙台にたどり着くには、陸より海でしたでしょう。常長は松島に上陸したのでは(?)。そのときの「おみやげ」のひとつがこの燭台(?)。伝承によると創設当初16軒だった水主衆は、最盛期には48軒あり、出身者の中から僧侶になった者が、実に半数近くを占めています。それから、常長をルソンに迎えに行った横沢将監(よこざわしょうげん)の墓が、松島四大観のひとつ北の麗観「富山-とみやま」にあるのです。常長が帰国したのは1620年。翌年1621年に政宗公が瑞厳寺を訪れています。政宗公が美意識を注ぎ込んだ瑞厳寺が完成してから、ここを訪問したのはたったの2回。もう一回は1635年、亡くなる9ヶ月前。このとき孫の幽清は18歳になっています。
1636年に、政宗の遺言により二代藩主忠宗が雲居(うんご)禅師を瑞巌寺の中興第一世に招きました。愛子の大梅寺(たいばいじ)は、雲居の隠居所として造営されたもので、1659年78歳で没した雲居禅師は、大梅寺背後の蕃山(ばんざん)山頂に埋葬されます。栗生西舘にいろはが移り住んだとき、「この山も私にくださいな」ともらったあの山。
雲居禅師は愛姫を母のように姉のように慕い、五郎八、忠宗、幽清ともに伊達家と密接な関係を保った高僧です。
●玉山金山
大船渡市のU様、陸前高田市のN様より埋蔵金関連情報を入手しました。そのさわりの部分を抜粋します。
-玉山金山は「陸奥の金」として日本で初めて金が発見されたと伝える金山の一つである。
即ち、天平の時代には既に産金されていたと伝える金山であり、昭和の代まで掘り続けた金山でもある。
玉山金山の伝承を記録した文書が岩手県陸前高田市の我家にある。我家は「安土・桃山時代」の文禄二年(1593)から玉山金山(陸前高田市竹駒町字上壺)に居住して、明治二十年代まで主たる居所として仙台藩の鉱山を指導してきた-
-Nさんのご先祖様は「右筆として仙台藩に召抱えられた」そうです。Nさんのご自宅の裏側が金山で、そこから採掘した金を近くの港から仙台へ運んでいたのですが、Nさんのご先祖様は宛名書きをしていてとても達筆で目に留められ、右筆として仙台藩に仕えることになったそうです-
膨大な量の金が仙台藩へ献上されていたというご子孫の証言。政宗公の時代、資金が足りないと幕府から借金をする事が多々ありました。「***普請のために幕府から***借用した」「参勤の旅費にも事欠く年があった」などの記録が残されています。参勤交代制度の目的は、諸大名に出費を強いることで財政力を削ぎ落とし、謀反などを起こすことを抑止するためだったとされます。政宗公は幕府の思惑を察知して、倒幕の嫌疑がかけられないよう貧乏を装って借金したのだと思います。
玉山金山は途中から産出量が少なくなったとはいえ、かなりの量の金が採掘されていました。マルコポーロが東方見聞録で世界に紹介した【黄金の国ジパング】の元であり、さらに、政宗公が所有(開発)した金山鉱山はここだけではありません。政宗公には間違いなく、想像を超える量の隠し金があったということです。また、藩政時代仙台藩直轄の「御用山」として霊峰五葉山がありました。当時、巨大鉄砲藩として恐れられていた仙台藩の「火縄」がこの山から産出された檜を原料に造られていたのです。仙台藩に献上された火縄は、年間14000尋(21000m)にものぼり、それが百年間も続いたとされています。江戸時代、ここは国内最大の火縄の産地だったのです。どこよりも金と武器(鉄砲)を山ほど持っていた伊達政宗。全国のキリシタンをまとめて天下人になることは夢ではなくて、目の前に手を伸ばせばつかめる’現実 ’だったのです。
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2003年 大船渡まちづくり塾 発行 イラムトゥイパとはエミシの言葉で「ああ、たまげた」
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本誌より抜粋
-世界史的にみても、新大陸発見以前の金の生産世界一は日本だった。8?16世紀頃まで、宮城県北部?岩手県南部にかけては最も多くの金を産出した一帯だ。日本最大級の金塊もこの地方から出ている。-
黄色の部分が産金地帯。赤く囲んである地域が「気仙郡-ケセン郡」で大船渡市、陸前高田市、住田町、釜石市に編入された旧唐丹村(とうにむら)などが含まれる。
これを見るとこの地方がどんだけ金まみれだったかがわかります。金塊が石ころのようにゴロゴロそのへんに転がってるもんで、その価値を知らずに貧乏暮らしをしていた「炭焼藤太」の伝説もあるほどです。
陸前高田市博物館
玉山金山
-みちのくの黄金は全国的にも有名です。とくに平泉文化の象徴である中尊寺金色堂は当時の金山隆盛を物語っており、これらの金は、この地方から多量に産出されたと伝えられています。 玉山金山の発見は、天平年間(750年頃)ともいわれていますが明らかでありません。文禄元年(1592年)より豊臣秀吉直轄の金山となり、同4年(1595年)伊達政宗に移管されました。当時の玉山金山は「たませんけん玉千軒」と伝えれているほどの隆盛でした。-
住田町には民俗館があります。
産金
-平成20年10月24日、産金コーナーがオープンしました。川砂金採取や鉱山で使われた用具など、住田や気仙の金山史を伝える約百二十点を展示しています。下有住の火の土鉱山跡にあった採金時の鉱石粉砕に使われる搗鉱機(とうこうき)の修復展示をはじめ、世田米の清水沢金山などで使われた用具、昭和51年に気仙川の橋りょう改修工事の際に見つかった全国で3番目に大きい川砂金のレプリカなどを見ることができます。-
霊泉玉の湯
-特に、綱宗の奢りは幕府の嫌忌にふれ世に云う伊達騒動の原因となりました。この結果、玉山金山の没収がなされるのを恐れて、金山の抗口や諸施設等を破壊して廃坑のようにみせかけて幕府没収を免れたという秘録も残されています。-
塩釜市に属する「浦戸諸島」には宝島伝説があります。気仙から運ばれる金塊を仙台へ運ぶルート上にあります。
●松尾芭蕉
芭蕉がみちのくの旅に出たのは1689年春。同年5/9に松島を訪れていますが、松島で詩詠まず素通りし、宮城県北から岩手県南の産金地帯(伊達の四大金山)をめちゃめちゃ歩いてます。楽なルートがあるのにわざわざ獣道を選んで道に迷いしっちゃかめっちゃかな旅になったようです。
石巻の日和山から金華山が見える詩を詠んでますが、実はここから金華山は牡鹿半島にすっぽり隠れて見えないとか。同行者の曾良日記のほうで正しい記録が見て取れる。ふたりはひたすら 黄金文化で栄華を誇った平泉を目指した。芭蕉46歳。
1636-政宗没70歳
雲居来松、入寺
五郎八仙台城から愛子栗生西舘へ移住
1640-茂庭綱元没92歳
1648-雲居退山、洞水(虎哉の孫弟子)入寺
1653-愛姫没86歳
1658-洞水「天麟院」開創
二代藩主忠宗没60歳
綱宗19歳で三代目藩主に
五郎八天麟院へ
1659-雲居没78歳
1660-綱宗21歳で隠居、長男綱村2歳で四代藩主に--のちの伊達騒動
1661-五郎八没68歳、洞水退寺、鵬雲101世
1689-芭蕉松島を訪れる
1695-天麟院2世黄河幽世、山王社内の稲荷社を再営す
●富山(とみやま)・大仰寺(だいぎょうじ)
日本三景松島の四大観のひとつ、『富山』。観光客がそぞろ歩く松島メイン通りを抜けて県道23号線に入る。牧歌的風景を両脇に見ながら奥松島方面へ20分ほど走ると、途中右側に「富山駅」、通り越してすぐ左手に「富山観音」の看板あり、車1台がやっとのクネクネ山道を上る。一応舗装されて所々ガードレールもあるが、対向車が来ないことを祈るしかない。それでもこっちは表参道で、裏参道はもっと狭い砂利のダート。上り着いたところに車が数台停められるスペースがあり、そこから長い石の階段をひたすら登る。ウグイスの美声と原生林に囲まれ、四大観でありながら観光客を拒むかのような風情、そして眼前に見下ろす絶景に、息をのみました。鬱蒼とした森の向こうに幽かに白くもやでけむる松島湾。陽を浴びた海面がきらめいて あちらこちらに浮かぶ小さな島々が悠久の昔から変わらず自然の姿を見せている。別名「麗観」とも称されるほどの雄大な美観が広がっています。松島のあちこちを放浪しましたが、ここから眺める松島湾が一番美しいと私は思いました。ここはまるで、俗世と天上の中間にある’雲上の隠れ里’のようであります。
富山観音は、有名な五大堂(807年)や瑞巌寺(828年)よりも歴史が古く、松島の中では最古だそうです。政宗公の時代より800年も遡る頃の武官坂上田村麻呂が創建しました。政宗公の正室愛姫は、田村家出身で田村麻呂の子孫といわれています。
この富山観音は、石巻市の牧山観音・涌谷町の箟岳観音とともに奥州三観音といわれ多くの信仰を集めています。この三箇所を線で結ぶとナント!キレイな正三角形が描かれます。これは大仰寺前住職の奥様が三地点を車で巡り、正確な距離を測り、発見したというトライアングルです。そしてさらに親方によれば、富山観音(大仰寺)の裏鬼門に当たる地点に塩釜神社がみごとにぶち当たりました。仙台城下の六芒星に通じるものがありますが、800年というタイムラグ・・・1200年も昔にこのような正確な図形を配置できたのも、当時の陰陽師(天文博士)の力です。
大仰寺は富山観音のすぐ下にあり、世間にはあまり公表されていない五郎八姫の生々しいしい痕跡が残されています。
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観音堂を守る仁王門。茅葺屋根で両脇に仁王様がいます。
鮮やかな朱色がまぶしい富山観音堂。1654年五郎八姫による改修。
1657年五郎八姫が寄進した梵鐘。
観音堂の下に、洞水和尚開山の大仰寺があります。
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明治天皇が騎馬で登られここで休憩したという紫雲閣本堂。天気の良い日はここから牡鹿半島や蔵王連峰までも見渡せるそうです。
大仰寺には、支倉常長を迎えに行った横澤将監(よこざわしょうげん)の代々の墓があります。
実はこのときたまたま偶然、観音堂の塗り替え(?)作業中でお堂が開いていたのです。普段は固く閉ざされたその扉、三十三年に一度のご開帳でしか拝めない観音堂の中を、イタコは見た!
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写真許可要
中央の小さな黒い扉の中に一寸八分の木造本尊観世音が祀ってあると思われ、その下に千手観音。左は洞水和尚、右は坂上田村麻呂さんです。
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大仰寺前住職の奥様から伺った話によると、洞水和尚の木像は、昭和に入ってからの大地震で倒れ首が折れたそうな。すると、首口に穴があって中に細い桐箱があり奉書に包んだ髪の毛が出てきたそうな。「天麟院様の御かみのけ」と墨書。五郎八姫の遺髪は洞水像に守られ、三百年以上も存在したのです。地震が起きてこの像が倒れなければ、発見されることはなかったのでしょう。もうひとつ、五郎八姫が洞水和尚へ贈ったというお手製の袈裟(はおり?)も秘蔵されているそうです。門外不出ということで、見せていただくことはできませんでしたが。
坂上田村麻呂が創建した観音堂を五郎八姫が改修させたのですが、方三間、屋根宝形造瓦葺で、石積み基壇は当時としては大変珍しいものとされているそうです。
洞水和尚は大仰寺を開山し、瑞厳寺(政宗公菩提寺)第100世、天麟院(五郎八姫菩提寺)第1世でもある。五郎八姫は隠し子幽清を洞水和尚に託したのではないかと思う。洞水の弟子として大仰寺で修行を積んだ幽清が、母の眠る天麟院の住職を継いだのも自然の成り行きではないか。父政宗、母愛姫、弟忠宗をも亡くし、孤独の晩年を送る姫にはたったひとり血を分けた幽清がいた。キリシタンだった五郎八姫が、亡くなる3年前に洞水の手引きで髪を落とし臨済宗に帰依したのもうなずける。息子に見守られながら松島で永遠の眠りにつきたかった。霊場松島には、五郎八姫の想いが満ちている。
と同時にあまりに謎が多い。大仰寺の入り口そばになぜか横澤将監の代々の墓があります。仙台市内にある「泉区将監」「将監沼」の地名はこの人からきています。政宗公の家臣で、土木エンジニアでもあった将監さんは現泉区一帯に灌漑用水を作り地域に貢献しました。のちに政宗公の命により支倉常長を迎えにサン・ファン・バウチスタ号でメキシコへ出航します。だからこの船は大平洋を4回横断したんですね。このとき約100名の乗組員が亡くなったという苦難の航海だったそうですが、将監さんは常さんを無事連れて帰るという大役を果たしました。将監さんも向こうで洗礼を受けキリシタンとなりましたが、帰国後彼らを待っていたのは激しい弾圧でした。フィリピンに足止めされたとき、船を売って、一般貿易船に乗り換え長崎に着いて、そして出発地の月の浦へ到着。ということになっています。ソテロさんはしばらくフィリピンに残り、のちに長崎に密入国しますが捕らえられ、政宗公の助命嘆願容れられず、1624年火刑により殉教しました。
身の危険を感じた将監さんは棄教したようですが、常さん同様その後の足取りが不明です。常さんと将監さんは、月の浦ではなく松島に着いたのではないでしょうか。そしてここ富山にしばらく潜伏していたのでは。将監さんの身分で、つながりもなさそうな松島の格式高い寺に埋葬されるには、なにかよほどの偉業か、代々まで守らねばならないなにかがあったのか・・・ナゾです。
それに、観音堂の(当時はめずらしいとされる)石積基壇はなにを意味するのか。浦戸諸島宝島伝説の知名度が限りなくゼロに近いのも不自然です。常長さんの直筆航海日誌が明治になるまであったのに、その後紛失とはどういうことなのでしょう。そのような貴重なものをなぜ行方不明のまま現代まで放置しているのでしょう。常長が持ち帰ったキリシタン関連の財宝を五郎八姫が管理していたとすればそれを引き継ぐのはもはや幽清しかいない。芭蕉と曾良が松島を訪れた目的は・・・・?。
五郎八姫は、59?63歳まで頻繁に松島を訪れている。この間富山観音堂を修復し梵鐘を寄進する。そしてその合間合間に「福沢御殿」にも通っている。すでに父政宗公、母愛姫も亡くなっており65歳のとき、親密な弟忠宗にも先立たれた。この年洞水和尚を戒師として落飾し天麟院殿と号した。66歳のとき、雲居禅師が亡くなり洞水が(愛子の)大梅寺二世を兼務。68歳で五郎八姫は、仙台城西舘で逝去。松島天麟院の後方の丘、瑞雲峰に葬られた。
●浦戸諸島
松島湾(塩竈湾)に浮かぶ四島からなる浦戸諸島。桂島(かつらしま)・野々島(ののしま)・寒風沢島(さぶさわじま)・朴島(ほおじま)。
「朴島(ほおじま)」は、もともと「鳳島」と書かれていたそうですが、伝説のとり「鳳凰」がこの島に住んでいた、という言い伝えからつけられたとも、また、「寶(宝)島」と書かれたとも。これは仙台藩の軍用金や貴重な宝物をこの島に隠したからだ、と伝えられている。「宝島」を「朴島」に改名したわけは、(軍事機密として)人を寄せ付けないためでしょう。
もうひとつ気になる「野々島」の熊野神社。ご神像の奥に、キリシタンの仏像が祀られているそうです。松島にも隠れキリシタンはいたでしょうし、産金地帯(気仙)から運ばれた金銀財宝がこれらの島々に運ばれた可能性も充分にありますし、そうなると常長さんがローマから持ち帰った『神の物』も一旦ここへ奉納されたのかもしれない。。。幕府の目付けの目を盗んで隠すには最高の場所だし。
塩釜?松島にかけては塩の生産地でした。同時に近隣の田園地帯では米なども豊作で、浦戸の島々は積荷の港町として栄えたのです。埋蔵する財宝は、塩や米に隠して運ぶにはパーフェクトな環境で、水主(かこ)衆は、海軍予備軍でしたでしょうし、もしかすると、横澤将監は水主衆のボスだったんじゃないでしょうか・・・・常長さんを迎えに太平洋を往復した人です。水夫たちにとっては大尊敬に値する人物。とすれば、代々の墓が富山(とみやま)の大仰寺にあるというのも納得ですし。。。五郎八姫が大仰寺にやたらこだわりを持ってたことも、晩年松島に頻繁に通ってたことも、この「神の物」があったから、、、?五郎八姫は浦戸諸島を見下ろす丘の上に埋葬された。
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画像
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・野々島
塩釜港から市営汽船にゆられて約30分。貿易で巨万の富を蓄えた内海長者の伝説がある野々島。島のいたるところに金銀財宝を貯える倉庫として掘られた洞窟や、けもの道が枝分かれしてあります。
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島画像
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島巡りのグループをちらほら見かけましたが、観光地と呼ぶにはあまりにも素朴な島です。船着場に自販機が一台、トイレ一箇所、たまに猫、鳥の大群、花を植えてる島民。なにもないからいいいんだよ、そんな人がフラリとやってくるのでしょう。
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熊野神社
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この奥にキリシタンの仏像が祀られているらしいのですが、見ることはできませんでした。
・朴島
過去に日本の埋蔵金伝説で一度も話題に上ったことがないという伊達政宗の埋蔵金ですが、知る島民ぞ知る別名「宝島」はありました。「封内名蹟志巻七」には“鳳羽島”と、明治戸籍編成時に“寶(宝)島”とあります。後戸籍改正時に“朴島”と書替えられました。
県北の気仙郡の産金地でざくざく採れた金塊は、幕府への献上分をいかだに積んで仙台城に運んだことでしょう。浦戸諸島はそのルート上にあり、かつて塩や米の積荷の港町でした。幕府の目付けに知られずに、塩や米にまぎれた(隠し)金塊を朴島に運ぶのは容易だったと思われ。このとき松島の水主(かこ)衆が大活躍だったことでしょう。
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朴島の船着場から見えるブロッコリーの頭みたいな形の木の右横が大高森展望台です。
その大高森展望台から見た朴島の船着場です。
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この島は周囲2.2km、船着場周辺に17世帯約40人という統計がありますが、実際は半分以上が空き家のようです。塩釜マリンゲートから出る連絡船のチケット売り場で、「朴島になにしに行くの?あそこはなにもないわよ」」という顔をされましたが、本当に、小さな島です。
海上安全祈願の神社でしょうか・・・鳥居をくぐって急な石段を登ります。
なにやら井戸のような作りの上に建ってますけど。
地図の矢印部分の湾。台風などの災害時に船の避難場所になる。島へ上陸する裏口でまわりを囲まれて死角になっている。このとき’干潮’です。
堤防の突き当りは行き止まりでした。ザ・ジャングルで先に進めず。
・寒風沢(さぶさわ)島
浦戸諸島で最も大きい島で、江戸時代は仙台藩の江戸廻米の港として多くの千石船が来航し繁栄をみせていました。仙台藩が日本初の洋式軍艦「開成丸」を建造したところでもあります。そしてその開成丸の航海日誌にこんな歌がありました。
安政5年1月1日
一、正月元日。暁色殊に麗はし。水手とも八ツ時より起出て。乗初の式あり。
頗る古風にていと目出度し。其後に酒肴吸物など手を盡してとりならべ。献酬の禮あり。舟歌をうたへて祝をなす。其歌に 正月ひとよの初夢に。きさらぎ山の楠を。舟につくりしはやおろし。白銀柱をおしたてて。黄金のせみをふくませて。みなは手なはにことの糸。綾や錦を帆に掛て。宝の島に乗こんで。数の宝を積こんで。あなたの蔵におさめおく。初春のゆき緋おどしの。きせなりもみな小櫻となりにけり。夏は卯の花たきねの水にあらひかは。秋となりてその色は。いづもいくさにかづ色の。紅葉にまかふにしきかは。冬は雪根にそらたれて。おもふかたきを討とめて。長き其名をあげまきや。かぶとの星の菊の座も。花やかにこそ。おとし毛のつるぎは。むこにいたさず。弓は袋におさめけり。富貴の御代とそなりにけり。右の歌。壱つづの後にはやしあり。目出たの。ソラわか枝も。イヱーさァかァ。ようのイヱーコノ。葉もイン。後にすけるといへる言葉にあれとも。これは唄はず十分に。満るをきらふ意なりとぞ。
●松尾芭蕉が隠れキリシタンだったかもしれない件
芭蕉と曾良の旅の目的が、水戸光圀公の指令である「奥州のキリシタン関連調査と情報収集」だったという説があります。この頃にはすでに奥州の金は枯渇していたことになっているが、政宗公の死後真相を究明するための、ふたりは使者だったのではないかと。禁教の弾圧から逃れるために、鉱山の入り口を閉鎖し閉山のフリをした県北地区もあった。そうなるとふたりが松島をとっとと去って、黄金文化を誇る岩手の平泉に一目散に向かったのも不思議はない。
松島を出るとき、ふたりは別行動をとっている。追従者であるはずの曾良が先を急ぎ、芭蕉はあとからあたふたとおいかけ道に迷ったりしている。仙台では、曾良が仙台城の勝手門を通されているのだ。外部の者で、しかも曾良の身分で勝手門を出入りできるということは通常では考えられないことである。仙台藩にとって曾良は、芭蕉よりもVIPな客人であったのではないだろうか。ふたりが水戸光圀公の使いであったと仮定して、なにをさしおいてもまずは仙台城へご挨拶でしょう。黄金の国ジパング伝説はキリシタンなくしてはけして語れない。仙台は陸奥国のキリシタンの拠点で、そのシンボル的存在だった政宗公の長女五郎八姫がいた。このとき、もし五郎八姫が生きていたなら90歳を過ぎている(姫は68歳で亡くなったことになっているが、史実が真実であるとは限らない)。支倉常長がローマから持ち帰ったキリシタンン関連の財宝のありかを探ることも、ふたりの任務の中にあったのだと思われる。それはもしかしたら『ヨハネの黙示録』かもしれないし、紛失したままの常長の直筆航海日誌だったかもしれない。
芭蕉と曾良が旅に出る2年前の1687年、江戸では五代将軍綱吉が生類憐みの令を出し、人々の暮らしはハチャメチャに苦しめられている。光圀公はこの法令に嫌悪感を抱き、抵抗し続けたという。なんとかせねばなるまい。時代劇では、お供を連れた黄門様が世直し行脚に出るのだが、たとえ身分を隠したとはいえ徳川御三家の水戸藩主が、身の危険をさらすような行動に出ること、またそんな自由が許されるはずがない。そこで黄門様は自分の代わりに、視察団を派遣した。優秀な密偵「河合曾良」と、俳諧師で隠れキリシタンの「松尾芭蕉」である。
「陸奥国の財源と軍事力そして、キリシタンの組織力を探って参れ!」
マルコ・ポーロの「東方見聞録」は、他者の執筆によって誇張されヨーロッパ中に広まった。’中国大陸のすぐそばに黄金の島があるらしい!’マルコ・ポーロは実際日本の地を踏んでいない。中国で見聞きした日本の情報を戦争捕虜になった先で囚人仲間に口述し、それが評判となって「東方見聞録」が採録編纂された。その内容に黄金の宮殿(平泉の金色堂)の話なんかもあったもんだから、大航海時代、世界進出に萌え欲念と大望を抱いたヨーロッパ人がこぞって日本をめざした。そのターゲットとされたのが、宮城、三陸沖いずれも伊達家の領地の太平洋上だったのだ。しかし、探索はうまくいかないまま、目的地は蝦夷(北海道)に変更された。蝦夷の鉱山地帯には仙台からも技術者やキリシタン鉱夫たちが移住している。ヨーロッパ全土から、どれだけ熱いまなざしで日本が注目されていたかを把握していた家康公と政宗公。家康は浦賀を、政宗は石巻を貿易港としてヨーロッパとの交易構想を抱いていた。そして遂行されたのが日本初仙台藩の『慶長遣欧使節団』だった。
支倉常長の偉業が世に出たのは、明治維新後岩倉具視が欧米視察のイタリア派遣時に、支倉の署名が入った文書を発見したからだ。なんと250年以上も、日本の歴史的遺産が闇に葬られていたことになる。常長がローマから持ち帰った財宝はほんの一部しか発見されていない。その中のまた一部と推測される対のギヤマン燭台が、松島の瑞厳寺に所蔵されている。
瑞厳寺の西側には五郎八姫の眠る天麟院があり、息子の黄河幽清は二世住職となっている。瑞厳寺の東側には松島四大観のひとつ富山(大仰寺)があり、富山観音には五郎八姫が寄進した梵鐘と、遺髪なども残されている。そして大仰寺の一番の謎である、常長を迎えに行った横澤将監の代々の墓。
なにより、常長の7年に及ぶ直筆の航海日誌が明治以降行方不明のままなのである。まじめで律儀で忠誠心の厚い人柄だったとされる常長のこと、マメに記録していたに違いない。文字にできない重要機密は暗号にして記していたかもしれない。常長が記録していた19冊の日記。いったい だれがどこへ隠したのか。
富山(大仰寺)は、明治天皇も来訪している。天皇御一行は、あの辺境に馬を駆って登り「観光で来られた」そうだ。大仰寺の本堂『紫雲閣』からは、松島湾が一望でき気象条件によっては福島沿岸あたりまで見渡すことができるというのだ。17世紀中頃まで続いた大航海時代、黄金郷を見つけたが勝ち!の南蛮船が行き交う果てしなき大海原が、 富山(とみやま)の眼前に広がっている。
常長さんがヨーロッパから持ち帰った品々は、幕府の禁教命令により、全て焼かれて処分された、という記録があるようですが、使節が7年かけて命がけで持ってきた宝をそうやすやすと仙台藩が(というより五郎八姫を筆頭にキリシタン幹部が)差し出すかな。政宗公のことだから、常長さんが帰国する前にダミーを作る準備万端で、千両役者の政宗公が幕府に泣く泣く差し出したのは、そのダミーじゃなかったかな。ツネさんが帰国する前の2年間フィリピンに足止めくらったのは、そんな準備があったからなんじゃないかな。
茂庭綱元が高野山で待機していたこと、隠密とキリシタンを使えばフィリピンの常長と情報交換は容易にできたと思われる。弾圧から逃れたキリシタンがフィリピンへ流れていたことと、フィリピンからお忍びで入国した宣教師がいたこと。。。「本物」は、リスクを軽減するためあっちこっちにばらまいて隠した。そのひとつが、瑞厳寺にあるギヤマン燭台・・・これは、藩の記録に残されていないため出所が不明となっているが、だれがどうみても、常長さんが持ってきたヨーロッパ製のもの。当然記録に残しちゃいけないものだったから。
政宗公の墓から発掘されたブローチとかロザリオは博物館にありますが、あとは仙台城の発掘現場から出てきた西洋陶器のカケラなど、、、
ローマ法王パウロ五世が常長に与えたタペストリーは現在まで伝わっていて、その一部は京都の祇園祭の鯉山に使われているそうなのです。なぜ京都にあるのか不明ですが、黄河幽清が京都の妙心寺にて修行した際寺に預けたとも考えられます。このように、もっときっとあちこちに、いっぱいまだ眠ってる気がします・・・
●サン・ファン・バウチスタ号
45号線を北上し、松島を通り抜けて石巻(いしのまき)へ。サン・ファン館内に入ってすぐに「シミュレーションシアター」の上映を見ました。20分間の映画なんですが、これスゴイです。座席が振動します。嵐の場面ではドッカンドッカン上下左右に激震です。映画もよく出来ていて、もっと長編を見てみたいと思いました。
長いエスカレーターを下って、復元されたサン・ファンバウティスタ号へ。500トン級の日本製西洋型軍艦です。
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船画像
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中を見学してみると、予想に反して狭く感じた、、、ここに180人が3ヶ月間航海したなんて、、、、常さんとソテロさんの部屋が左右にあるんですが、ベッドが異様に小さいです。150cmくらいしかないのでは。他の乗組員の部屋は当然ありません。そのへんに180人が雑魚寝・・・ねずみ退治のために猫も乗せられ、食料のために豚や鶏も飼われたようです。この船は数度の嵐にも耐え、太平洋を2往復したんですから、日本の造船技術は世界でも群を抜いていたようです。水平線の果て「東洋の国」からやってきたこのガレオン船がアカプルコに近づいたとき、さぞかしカッコよかったでしょうねぇ。伊達家の九曜紋に、逆卍の旗(支倉家)が海風にたなびいて、真っ黒に日焼けした侍たちが未知の国へ上陸したわけですよ。常さんの人生最大の栄誉の瞬間だったのではないでしょうか。
サン・ファン館のミニシアターで見た短編映画の中で、船が嵐にあったとき船長ビスカイノの命令で、必要最低限以外のものを海中に廃棄して沈没を防ぐ、というシーンがありました。それを聞いた常長があわてて止めに入るのです。政宗公から預かった伊達家の宝を海に沈めてなるものかと。刀を抜きそうになるところをソテロに阻止されます。実際に宝を捨てたかどうかは映画の中では謎のままでした。
一行がメキシコに着いてからヨーロッパへ旅する行程でものすごくお金に困った様子が、どの参考書籍にも描かれています。旅費が無いため随員がだんだんと減っていき、行く先々では国費で接待を受け、修道院などに宿泊させてもらいながら肩身の狭い旅をしているんですね。ハッキリいって、一行の滞在がはた迷惑がられた様子も見られます。国をあげての派手なパレードと晩餐会に、表向きは大歓迎の構図のその裏で、随員たちは次々と現地人となってとどまり、常長は病気になりながらもひたすら任務を遂行するべく翻弄します。太っ腹で財力のある政宗公が、どうしてお金をいっぱい持たせてあげなかったんだろって不思議だったんですが、なるほど嵐にあって海に捨てちゃったのかもしれません。とりあえず、あっちに行ってから着る衣装とかお土産なんかは絶対に現地では入手できないから、捨てるわけにはいかなんだ、けど、金銀財宝はなくてもなんとかなるべ的な・・・ソテロやビスカイノの祖国に帰るわけだし、旅費くらい国王に頼んでみるべ的な。当時のヨーロッパが財政難に苦しんでいたことを知らずに・・・だからビンボー旅行だったんですね常さん、本当に苦労したんですね。
常さんのあの有名な上半身の肖像画は、真実ではないという説があります。唯一日本に現存する支倉常長の肖像画(上半身油絵)は発見後修復に出されたときに捏造されたというのです。
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参照
『支倉常長慶長遣欧使節の真相』価格:3,780円(税込、送料別)許可要
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常長本人が持ち帰ったこの絵は、禁教時代が終わるまでの長い年月をけして「手厚く保管」されていたとは言いがたい条件のもと、岩倉具視によってその偉業が発覚されるまで ひそかに眠っていたのです。250年以上放置されていた油絵が、日の目を見たときどんなすごいことになっていたか・・ 修復に出される前の状態で撮影された’古写真’の発見により その2枚を見比べてみれば歴然と違いがわかります。
古写真(修復前)の常長さんは、長旅で心身ともに憔悴しきった容姿と表情があらわです。頭の禿げ具合、頬のこけ具合、眼力の無いうつろな瞳、、、忠誠心が服をまとったような常さんが、主君の命令を果たせないかもしれぬ絶望感と、健康を害したことによる不安にさいなまれている。せつなくなるほどの重苦しさが感じられるのです。修復後の常さんは、世間が思い込まされているあの絵です。絵を折りたたんでいた(と発表された)ことによる 十字に入った横の亀裂痕もどうやら加筆らしいとか。。。支倉常長は、死してなお 『国策』に振り回され呑まれ流されて、現代に美化され蘇っている。
常さんたちの偉業がどれだけ悲惨で過酷なものだったか。彼らは奇跡の生還を果たしたのだということです。常さん直筆の19冊の日誌はどこへいってしまったのでしょう。
明治まであったのですから。中身見た人いるのですから。「ちょっと貸すて」って持ってった人いるんですから。
ところで、常さんに会いに行こうと思い立ったこの日(8/24)は、常長一行が帰国した日(元和6年8月24日)と同月日、偶然でした。松島の天麟院(五郎八姫の霊屋)に初めて行ったときもそうでした。全く意識せずにひとりでふらりと向かったその日(5/8)は、五郎八姫の命日だったんです。「呼ばれて」いるのでしょうか。
●五郎八姫の遺品
「重臣でさえ許可がなければ見ることができず、たとえ見たとしても、それを家族にも口外してはならぬ誓約をさせられて、厳しい監視の下はじめて目にすることができた」という仙台藩の機密文書を、とことん調べあげ、伊達家の研究では第一人者でもある土生慶子先生の講座を受ける機会がありました。そこに集まった受講生約30名が、のちに「五郎八倶楽部」を発足することになりました。栗生西舘の近く落合市民センターを拠点とし、伊達家の歴史研究を目的に活動しています。野外講座の松島探訪では、天麟院と瑞厳寺を見学しました。
天麟院では仏間に通され、五郎八姫の位牌の前で住職さんから語られる貴重な逸話に、我々は集中しました。開け放しの部屋に時折気持ちの良い風が吹き込んで、あっというまの1時間でした。
天麟院の東側徒歩5分ほどで瑞厳寺へ出ます。主水(かこ-水夫)衆が住んでいた茅葺の屋敷を移築した店に入り昼食をとりました。夏の最中、主水の家は自然の涼が取れる快適な空間でした。
瑞巌寺の青龍殿(宝物館)では、普段はけしてさらされることのない五郎八姫の遺品を、特別に見せてもらうことができました。撮影は許されましたが、公表はNGのため文章のみでお伝えします。
取りい出したるは桐の箱。その中には、開山木像修理(H12?13年)のさい法身禅師木像胎内から発見された納入品が、ひとつひとつ丁寧に紙で包まれて寝かされていました。(富山観音の洞水木像から発見されたものとは別です)
この納入事業は五郎八姫60歳(承応2?3)の時に当たり、携わった人数は105名にものぼるそうな。そのほとんどが女性で、納入品の内容物は経本、写経文、数珠、毛髪、爪、銅銭など。五郎八姫とその侍女たちが、極楽浄土への往生に願いを込めてえらいお坊さんの木像胎内へ納入したものです。あえて博物館に展示しないのは、当時の彼女たちのその思いを尊重してのこと。つまり見せびらかすものに値しないもの。だからこの中身を拝見できるということはとんでもなく貴重な体験なのでありました。
ずいぶんと長い年月を木像の中で眠り続け、その後ほとんど日の目を見ることのないこれらの遺物はそれゆえに、保存状態はかなり良く、とても350年前のものとは思えない。「御西舘様ヨリ」と墨で書かれた和紙の包みを開くと、朱と金糸で織られた小さな袋が現れ、その中に桐の小箱が入っています。蓋を開けると、黄金色の地に鶴や雲などの色とりどりの模様が織られた布に守られて、小さな金剛仏像と、指の先ほどの小さな和紙にくるまれた包みが現れました。包みには「柴舟」の墨文字。そして後ろに五郎八姫の花押があります。
「柴舟」とは、当時金銀よりも珍重された『香木』で、香道をたしなむ政宗公が秘蔵する中で最も自慢の名香だったそうな。もとは宮中所持の「藤袴(ふじばかま)」で、初音「はつね」(前田家)、 白菊「しらぎく」(細川家)、柴舟「しばふね」(伊達家)の三家で分け「一木四銘」と言われています。この「柴舟」が宇和島藩伊達家にしか伝来しておらず、仙台藩では失われたと思われていました。それが数少ない五郎八姫の遺品の中から見つかったのですから、歴史的にもすごい発見だったでしょう。
他には、五郎八姫直筆のミニ写経文。きれいに折りたたまれた10cmほどの和紙に書かれた筆文字は、にじんだりかすれたりもせず、はっきりとその筆跡が読み取れます。女性らしく流れるような、ほんとうにうまい字です。五郎八姫の教養の高さがわかると同時に、60歳といえば老眼でしたでしょうに、よくもこんな細かい文字が書けるものだとビックリします。
それから、わずか3cmほどの小さな紙に包まれた姫の毛髪。開くとパラパラと散ってしまう可能性あるため中身公開NGでしたが、写真で見せてもらいました。60歳の髪とは信じがたいほどの 黒くつやがあり’からすの濡れ羽色’です。侍女でしょうか’すて’さんという人の髪の毛は、赤茶けています。やはり栄養状態の違いなのでしょうか。姫の側近だった人たちの数珠や毛髪や経本なども見ることができました。とくに驚いたのは鏡です。もちろんガラスではなくて、博物館などでみる銅鏡というものです。経年の劣化でサビサビのあの丸くて重たそうなやつを想像しましたが、これはちゃんと顔が認識できるほどに輝きが保持されているんです。350年前の女性たちが これに顔を映してお化粧したりしてたんですね?
姫の納入品と一緒に、橋本洞庵の名前が入った包みがありました。中には、長さ5mmほどの毛髪が入っていたそうです。橋本洞庵は、五郎八姫に仕えた医者です。田村家の家臣だった橋本家は、五郎八姫の母、愛姫(田村家)が伊達家に嫁いだとき、一緒にきた一族です。姫のわずかな納入品の中にまぎれこむように入っていた洞庵の遺髪はなにを意味するのでしょうか。よほど大切な関係にあったと思われます。
湿度・温度管理された分厚いガラスの向こう側に、修復された姿で鎮座する歴史的史料をながめるのとは大違いの、目の前でひとつひとつ開かれる生々しい宝物たちに ドキドキしながら見入りました。
木像の中に遺品を入れるのは極楽浄土へ行けますようにとの願い。荒らされませんようにと土の中に隠す場合は
「10尺下よ」by土生慶子先生
●亀岡八幡宮
政宗公は、天空の星を地上に降ろしました。四神に守られるべく中心は仙台城本丸です。
玄武の「亀岡八幡宮」ですが、ここは亀を模り造られた人工の山です。政宗公はどこからそんな大量の土を運ばせたのでしょうか。四神の中でも本丸に一番近い場所にあり、幕府にはどんなことがあっても知られてはいけない極秘プロジェクトであったはず。そのための人材の確保と土木技術の手配。政宗公が抱いていた壮大な野望を実現するためにはキリシタンの存在が絶対でした。その頂点に君臨していたのが五郎八姫だとすると、
かごめかごめ (仙台城下の六芒星)
かごの中の鳥は(城下の財宝は)
いついつでやる(いつになったら日の目を見るだろう)
夜明けの晩に(七夕の夜に)
鶴と亀がすべった(忠輝と五郎八がキリシタンを統べる-統一する)
うしろの正面だれ(影の指揮者はだれ-政宗公)
この歌は、仙台の隠れキリシタンたちの間で歌い継がれ、のちに全国へ流れ童謡となったのではないでしょうか。
仙台城下の六芒星を見つめていると、私には六地点を結ぶ線が‘地下通路’に見えてくるのです。地下を掘った土は一か所に集められ、人工の山が出来た。城下の地下都市には迫害から逃れたキリシタンたちが住み、グランドクロスが貫く六芒星の中心には、礼拝堂が作られた。
夜明けの晩に行われた神事は、聖体祭儀(ミサ)。
●黄河幽清
押し殺すようなうめき声の中、傍らに寄り添う者たちも額に汗をしながら声の主の手を握り絞める。燭台の灯りが襖に映る黒い影を揺らしている。
もう何刻続いているのだろうか、苦しみの中に永遠の時が流れる。屋敷中が粘りつくような重苦しい空気に包まれていた。
「姫、もうすこしでございます。力みなされ」
その老婆の声に呼応するかのように、うめき声が悲鳴に変わった。
「見えた。」悲鳴にも負けぬ声が上がり、廊下に待機していた女中に言葉を投げる。
「急げ、湯じゃ」
数名の女中があわてて廊下を駆け出していった。
その後を追うように産声が上がる。
「姫、でかしましたぞ。若君ですぞ」
塗炭の苦しみから解放された母親は、汗まみれの顔で頷いた。
真っ黒な泥の中から生まれ出た一輪の蓮の花のように穢れのない清らかな顔立ちの赤子であった。
しかし、どんなに綺麗な蓮の花でも一生泥の中にいなければならない宿命を負っている。まさにこの子の人生そのものではないか・・・。
まもなく、近くの寺の鐘が鳴った。
「あれ、明け六つになりましたね」
「いまだ寅の刻でしょうに、夏場の朝ははようござりまするな」
姫の脈を取りながら橋本洞庵が北の御方様に応えた。
産婆は、気持ちよさそうに産湯につかる赤子を優しく洗い清めていた。
ここは、江戸芝増上寺の東隣にある松平陸奥守の下屋敷である。この日元和三年丁巳(ひのとみ)6月14日、夏盛りの早暁であった。
母となったのは松平陸奥守、奥州仙台伊達政宗の長女 五郎八姫である。
-われわれが知っている世間の常識というのは何と薄っぺらいものなのでしょう。私達は、今まで表に出なかった埋もれた歴史を調べています。それは、先に転生した私たちが’未転生者’たちの声に耳を澄ませ、後世になにを伝えたがっているのかを明らかにする作業でもあるのです。埋蔵金調査もかなり進みましたが、特定してここに公表する事ができない今は、環境が整うのを待っている時期なのでしょう。私達の知らないところで、グツグツと熟していることがあるはずです。自分たちだけではなく、すでに多くの人たちが一緒に動かされています。最近になって青葉神社に足を運ぶ人たちも、昨年愛子栗生で結成された五郎八倶楽部の方々も、間違いなくそのようです。私たちは少し足踏みしながら、その人たちを待つ時なのだと思います-
平成の陰陽師 いなべの晴明
かごめ かごめ
かごの中の鳥は
いついつ 出やる
夜明けの晩に
鶴と亀がすべった
うしろの正面 だれ
この歌が「徳川埋蔵金」の所在を示す暗号として今も研究されていますが、これがもしも仙台発祥だとすれば、制作者はキリシタン五郎八姫か、もしくは綱元さんかもしれません。夏の大三角も仙台城下に配され、グランドクロスがはくちょう座に当たるとすれば、そこに茂庭綱元が深く関わっている理由は、彼が「星の街仙台」を作った総監督だからです。
「うしろの正面 だれ」という歌詞は、「影の指導者は だれ」という意味で、綱元さんを指しているのかもしれません。織姫と彦星を結びつけるカササギの役目が綱元さんになるはずだったのでしょう。「鶴と亀がすべった」の意味は、鶴(天)と亀(地)が入れ替わる、すなわち天空の星が地上に降りたということでしょう。そして「かごの中の鳥」とは、六芒星の中の白鳥、つまり仙台城下の中のグランドクロスです。
綱元さんのプロフィールを覚えていますか?
茂庭家は代々伊達家に仕える世臣で、弁舌、交渉に長け軍略にも優れた軍師の家系でした。父良直は武田信玄のもとへ武者修行にも行っています。世継ぎとなる男子が欲しくて側室を持ち、白鳥明神に願をかけて、酉年の酉の刻に綱元は生まれました。そのため白鳥明神の化身といわれ、戦での雄姿には頭上に白鳥が舞っていたと伝えられています。
綱元さんは、あえて、はくちょう座の頭にあたる部分(栗駒町文字村)を選んで永遠の眠りについたのです。
かごめの歌は、埋蔵金の所在ではなく、仙台城下そのものを現しています。
そして六芒星・四神・グランドクロスが、いまだかつてウワサにすらあがらなかった『仙台藩のキリシタンの財宝』のありかを示しているのです。
いろはの母である愛姫の生まれは1568年。「568」は「いろは」。
愛子(あやし)という地名は「愛の子-五郎八姫」」からつけられた。
いろは歌 48音 ヨハネ
いろは歌の中に隠された暗号--とがなくてしす(咎無くて死す)
-------無実の罪で死んだ----イエス・キリスト
埋蔵されたのは、支倉常長らが持ち帰ったキリシタン関連の財宝と バイブル・コード~聖書の暗号
星の街仙台~伊達政宗が隠した無形の文化遺産
もしも支倉常長の通商交渉が成功していたなら、伊達家の存続はなかったかもしれない、という説がある。
・幕府は禁教令を出しつつも貿易をしたかった。-商教分離外交
・政宗公は容教と通商を要望した。-商教一致外交
奥州の王がキリスト教と通商を手に入れたとき、この国を統一するのは伊達政宗、とだれもが考えたことでしょう。そうなる前に、幕府はいずれ仙台藩をつぶしにかかったに違いない。常長さんが通商に失敗したおかげで今の仙台があるのかもしれません。
江戸後期から始まった大飢饉において奥州の被害も甚大で、仙台藩は「裏の備蓄」を使い果たしたといわれています。しかし、五郎八と忠輝率いるキリシタン軍の秘宝は、まだどこかに眠っているでしょう。ふたりの遺志を継ぐ者は、息子である黄河幽清しかいません。江戸の仙台屋敷で生まれ、僧侶として松島に痕跡を残し、1698年に亡くなった、ということしか記録にありませんが、伊達家の血を継いだ最後の『証人』であったことでしょう。
五郎八姫にとって、43歳で父を、60で母を、65で弟を失った晩年は孤独に満ちていたかもしれません。しかし、松島には息子の幽清がいたのです。福沢御殿には、忠輝がいたのかもしれない。五郎八姫はけっして ’薄幸の姫 ’ではなく、この世を去るまで息子とともに「愛」を説き、来世の平和を願ったのではないでしょうか。
2011年3月11日午後2時46分、東日本大地震発生。
岩手・宮城・福島の3県にまたがり多くの方が津波被害で亡くなられました。心よりご冥福をお祈りいたします。
仙台藩が深く関わった南三陸沿岸部も壊滅状態にあります。自然の脅威に対してなす術も無く、何度も訪れる余震におびえながら一時絶望感を味わった私たちですが、復興への入り口に向かって歩き始めた人たちも少なくありません。
松島瑞厳寺では政宗公の位牌だけが倒れることなく無事だったといいます。近隣の街が壊滅したにもかかわらず、松島海岸は浸水はしたものの甚大な被害をまぬがれました。点在する島々が防波堤の役目をしたと、政宗公はそのことを知っていて、松島を伊達家の霊場に選んだのでしょうか。
政宗公によって四百年もの間極秘にされてきた六芒星 -星の街-
- 未来永劫知られることがあってはならぬ、しかし
今ここで わしも 転生するときがきた。ゆえに
この『星』もようやく 陽の目を見るときがきたのじゃ。
五郎八よ、この街は おまえが思い描いた 愛に満ちた世界になっているか。
今このときこそ 迷える民に 財宝を与えようぞ -
----- 完 ----