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星の街仙台~伊達政宗が隠した無形の文化遺産 ①

2018.12.14 05:38

https://slib.net/2343  【星の街仙台~伊達政宗が隠した無形の文化遺産】より

山上幽峰

星の街仙台~伊達政宗が隠した無形の文化遺産

 2010年1月16日(日)、この日私は’親方’に連れられ、宮城県北部の松山町にある石雲寺に行った。ここには、片倉小十郎景綱、伊達成実とともに「伊達の三傑」と称される茂庭綱元の茂庭家霊屋があり、年に2回ご開帳されるうちの冬の一日だった。

 伊達政宗公の右腕として伊達家の内政を支え、政宗公の死後その冥福を祈り続けた綱元は、政宗公の命日(5/24)と同月日にこの世を去った。享年92歳。

 

 それまでの私は、歴史に興味も知識も皆無で、茂庭綱元が何者なのかも全く知らなかった。なによりもまず、親方とはメールやドライブをする仲ではけっしてなかったし、年が明けて間もないある日突然の’お誘い’に何事かととまどった。が、この日久々の小春日和ですばらしい青空だったこと、霊屋を撮影してくれと頼まれたことで、お供することにしたのだった。

以下点線-------で囲まれる部分は本来画像が入ります。

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石雲寺左手の石段を上ると茅葺の茂庭家霊屋。

堂内には、八体の座像と 伊達家・茂庭家代々の位牌が安置されている。 

はじめまして茂庭綱元どの  

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 ’親方’が『モニワツナモトの生まれ変わり』という話も、この日車の中で聞かされた。

 輪廻転生は信じるけど、行きつけの居酒屋の親方が真顔で告白するその横で、どんなリアクションをしていいものやら。仙台藩の逸話を遠い目でとつとつと語る親方に、ハテナマークがボコボコ出現した私だが、とりあえずこの場は素直に従ったほうがよさそうだと思った。

 

 親方が仙台の歴史を研究していて、仙台城下に六芒星を発見し、研究書を自費出版したというのはなんとなく知っていたが、まさかここまで精神一到とは知る由もなかった。そしてこの人が、現代に蘇った陰陽師~つまり綱元さんは天文学・風水・陰陽五行あらゆる呪術を駆使して、仙台城下の町割を手がけた人物であったと、歴史にうとい私をなんの因果か『星の街』にのめりこませていく張本人なのである。

 「写真を撮りなさい、ブログで展開しなさい」と、モニワツナモトの生まれ変わりらしい陰陽師親方から白羽の矢を打たれた歴史オンチの私は、親方が17年もの歳月をかけた研究成果を1年でまとめあげることとなった。しかしその途中で、『埋蔵金伝説』につながっていくとは、私も親方さえも予想していなかった。

第一章 呪術都市仙台

■陰陽師いなべの晴明の手記■

 宮城県仙台市、この町は400年前伊達政宗公によって築かれました。そこには、だれも知らなかった隠された秘密があったのです。

 仙台市中心街に、三角形を二つ組み合わせた星型図形『六芒星』(ろくぼうせい)が存在することを平成5年(1993)5月に発見しました。

 

- 六角星、六芒星、星型六角形、六線星型、ヘキサグラム (Hexagram) ともいう。これは、星型多角形の一種で、六本の線分が交差し、六角形の各辺を延長することでできる図形である。ユダヤ教ではこの図形を神聖なものとしてみており、イスラエルの国旗には、青色の六芒星が描かれ「ダビデの星」と呼ばれている。日本でも古来からこの図形は魔除けとして用いられてきた。現在でも伊勢神宮周辺にある石灯籠に、籠目紋-かごめもん(家紋としても使用される)が刻まれているのは有名である -

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仙台城下の六芒星地図

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 その星型が、イスラエルの国旗に記されているダビデの星と同じであったためとても驚きました。偶然にできたにしてはあまりにも正確だったので、道路との関係をよくよく調べてみると、星型の北と南を結んだ線上に国分町(こくぶんちょう)の通りがぴたりと重なっており、また東西の南側の線には柳町の通りがきれいに重なっていたのです。

 国分町は、現在では飲食店が集中する夜のネオン街ですが、仙台の町が造られた400年前では、城下の南北のメインストリートで「奥州街道」でした。また、柳町通りというところは、直線的に城下に入ることができないようにするために作られた道路で、国分町の通りの南端が丁字状にぶつかり東西に伸びています。その柳町の通りを東に進むと今度は、南南東に折れ曲がる道路の北目町に出ます。この道筋が「奥州街道」なのです。

 

 偶然発見したこの星型を詳しく観察すると’計画的に作られている’ということがわかってきます。その星型を形作る頂点には、仙台の主要神社やお寺、そして仙台城の本丸が位置しています。星の北の頂点から時計回りに説明すると、青葉神社(昔は東昌寺)、仙台東照宮 、榴岡(つつじがおか)天満宮 、愛宕(あたご)神社 、仙台城本丸 、大崎八幡宮 の六地点です。

 この詳しい説明は、平成11年に自費出版した冊子に出ているので興味のある方はそちらをご覧いただきたい。青葉神社社務所のみで販売していただいております。

 仙台の地名は、伊達政宗公によって命名されたのですが、この場所の発展の歴史は多賀城に始まります。多賀城の鬼門に陸奥一ノ宮として塩釜神社が建てられました。その裏鬼門に当たる場所に陸奥国分寺が建てられたのです。

源頼朝が奥州藤原氏を攻撃した際に、武功をあげた千葉氏に陸奥国分寺の周辺を統括領地として与えました。千葉氏は「国分氏」と名を改め、統治しました。そのときに築いた城が後の仙台城の場所でした。

 この城は千躰仏(せんたいぶつ)を祭っていたことから千躰城(せんたいじょう)と呼ばれたり、虚空蔵(こくうぞう)が祭られていたため、虚空蔵楯(こくうぞうたて)と呼ばれたり、また、後年は千躰から千代の字を当て千代城(せんだいじょう)とも呼ばれていたようです。

 伊達家が後に国分氏を家臣とし、政宗公が城を築く際に「千代と限らじせんだいの松」と詩を詠みました。常緑の松が代々千代だけではなく、永遠に青々と栄えるようにという意味をこめて、また中国にある仙人の住む丘「仙台」になぞらえて、政宗公はこの町を「仙台」に改めたのでした。ちなみに、城下町の南北の中心街である国分町は、城下建設の際にそこに国分氏を町人として住まわせたところから名づけられたのです。なぜに地位のある国分氏が町人とされたのかは何の記録も無いのですが、どうもダーティな姿が浮かび上がってきます。

■六芒星を形作る主要神社■

●青葉神社

 六芒星の北にある青葉神社は、武振彦命(たけふるひこのみこと-仙台藩祖伊達政宗の神号)を祭る。東隣にある東昌寺(とうしょうじ)の境内に建てられています。城下一の繁華街(現在東北一のネオン街)である国分町から一直線に北に向かった突き当たりに位置します。

 東昌寺は仙台の城下建設の際に最初に決定された場所と伝えられています。初代住職は、伊達政宗公の大叔父でした。その人はのちに、政宗公の師匠になった虎哉(こさい)和尚を招きます。虎哉和尚は子供のころから天才上人(てんさいしょうにん)といわれるほどに優秀な人物でした。しかし政宗公への教えは「暑いときには涼しいと言え」「苦しい時には楽しいと言え」というへそ曲がり教育でした。そのために、‘政宗公は具合が悪いという時にも、柱に背を寄りかからせてでも起きて人と会った’と伝えられています。

 

 日本が戦国の世になり、国を統一しようとしていた豊臣秀吉は、小田原の北条氏を攻めるために「国を出て一緒に戦うべし」と全国の武将達に命令を出しました。ところが、奥州地方(現東北)の武将たちには秀吉の強さがわかっていなかった。参加しない武将もたくさんいる中で、政宗公もしぶっていたのです。このときの伊達家のお城は山形の米沢にありましたが、その前に福島県の会津の城(当時は黒川城といった)を勝ち取っていました。だからここらでちょっと一休みしたかったのでしょうか。

 家臣の片倉小十郎景綱は、乗り気じゃない政宗公に参陣を強く勧めました。ぐずぐずの政宗公がようやく腰を上げたのは、だいぶ日が経ってからでした。しかし、遅れていく→秀吉の怒りを買う→ヘタすっと命の保障はないべな、という図式が頭をかすめた政宗公、なにを思ってか髪の毛をバサバサに下ろし、真っ白な着物をまとって小田原に参上したのです。その姿は死に装束、「さあ殺せ、俺は堂々と殺されにやってきたぞ」と言わんばかりのまさに処刑ファッションだったのです。

 秀吉の心理をつく綿密な計算の元なのか、いちかばちかのヤケクソか、これこそ虎哉和尚の「へそまがり」の実践でした。さすがの秀吉も苦笑い。遅刻ごときで命をとることだけは許してやりました。しかし、もしもこのブラックジョークが通じなかったならば、シャレにならない結末に…この時、豊臣秀吉54歳、伊達政宗24歳の1590年(天正18)のことでした。

 政宗公は秀吉に命を助けられましたが、遅刻の代償として生まれ故郷の米沢(山形)の地や、やっと戦で勝ち取った会津(福島)などの領地を没収されてしまいました。翌年、岩出山(現宮城県北部、当時は岩手沢といった)へ移されてしまったのです。

 

 青葉神社は明治になってから東昌寺敷地内に建てられましたが、それは1868年(慶応から明治に変わった年)、「神仏分離令」という国からの命令によって、神社とお寺を無理やり分けることになったためです。それまでは神社とお寺はペアで運営されてきたのですが、天皇様を日本の頂点と定めたことによって、神様である天皇と仏様の仏教とを対等にしてはならないという考えに変わりました。ところが、ただ分けるのではなく仏教は悪者だという間違った考えから、国がお寺にあった仏像などを破壊捨て去るなどの行動(廃仏毀釈-はいぶつきしゃく)に出たため、政宗公を守るために御神体に祭り、建てたのが青葉神社なのです。

歴史観光で仙台に来たら、最初にお参りに行くべき場所は青葉神社が道理なのです。(仙台城址にある護国神社は伊達家とは無縁です)

 

 青葉神社にはもう一人、政宗公の正室-愛姫(めごひめ)が祭られています。愛姫は不運な人生を送った戦国時代の女性です。政宗公が秀吉に米沢を没収されて岩出山へと移ったとき、愛姫は一緒には行けませんでした。秀吉の人質として、京都の聚楽第(じゅらくだい)という屋敷へとつれて行かれたのです。

人質は戦国時代では当然のことで、味方になった武将が裏切らないようにするため長男であったり奥さんであったり、大切な身内を差し出させて忠誠を誓わせたのです。この場合の人質は普通に生活できるように保護されていましたが、逃げ出さないよう厳しく見張りを置いていました。

 福島の三春城主、田村清顕(たむらきよあき)の一人娘である愛姫は、三春の地名の由来である梅・桜・桃の花が一度に咲くことから名づけられたように、花のごとく愛らしいお姫様でした。しかし戦国の世、田村家は周囲の圧力に対応するために、米沢の伊達家と縁組して協力関係を作りたかったのです。そのため、12歳の愛姫は13歳の政宗のもとへ嫁に出されました。これも一種の人質です。

 11月28日、雪の反射がまぶしい日差しの中、弓矢を持った数百人の武士が馬上に列をなし、そのはざまにきらびやかな駕籠(かご)が用意されていました。中には小さな火鉢がおかれ、ささやかな暖がとれます。父母に見送られ涙する愛姫を、隠すように乳母が駕籠に乗せます。身の回りの世話をする数十人の侍女と、衣装などの入った長持ちが長蛇の列を作ります。

寒さと不安の中愛姫は、駕籠脇に付き添って歩く乳母に「お城に帰りたい」と何度も言うのです。しかしそのつど乳母にたしなめられ、悲しみをこらえながら駕籠に揺られて引継ぎの場所である柳川の屋形へと進みました。

 柳川では伊達家の家臣遠藤基信(えんどうもとのぶ)や、若武者の伊達成実(だてしげざね)らが迎えに来ていました。そこで引継ぎが行われると、田村家の武士たちは三春へと立ち去りました。米沢の城に着くまで愛姫は無言となり、乳母の問いかけにも応えませんでした。

 米沢の城に着いて政宗と初めて対面した時に、愛姫は目を見開き息ができないほどの驚きを見せました。政宗はその反応を半ば予想はしていたものの、眼をそらし唇をかみました。遠藤基信がそれを察して、すぐさま話をめでたい話題に変え、場を取り持ったのです。政宗は5歳の時疱瘡(ほうそう)という病気にかかり右目を失明してしまいました。その目が飛び出し世にも恐ろしい顔になっていたのです。その異様さは愛姫に付き従ってきた侍女たちのささやきとなって広がっていきました。

 愛姫が嫁いで来て間もないころ事件が起きました。政宗は幼少のころより何度か暗殺されそうになったことがありましたが、このときまたしても暗殺未遂があったのです。政宗は田村家の人間がやったのだと思い込み、愛姫の前で乳母や侍女たちを斬り殺してしまいます。唯一心を慰めてくれる乳母が目の前で殺されたことで、愛姫は強い恐怖心とショックで気を失ってしまいました。その心が癒えるには長い年月がかかりましたが、そのつらさを乗り越え政宗公を慕うようになったころ、今度は豊臣秀吉の人質になってしまうのです。

 片目が飛び出した政宗に家来たちは遠慮して、目に関することには一切触れることはなかったのですが、政宗自身はとても気にしていました。ある日家臣たちを前にして、「この飛び出している目をつぶしてくれ」と言いました。たじろぐ家臣たちを尻目に、「私めでよろしければ」と前に出てきたのが、片倉小十郎景綱でした。うなずく政宗に脇差を抜いて、ためらうことなく膨らんだ眼を突き刺し、中の膿を抜きました。政宗も虎哉和尚の教えどおり、ざわめく家臣たちを前に苦しさをかみ殺して、布で眼を縛り「ごくろう」といって家臣たちを下がらせました。

 

 この片倉小十郎景綱の末裔が、現在の青葉神社の宮司である片倉重信氏(片倉家16代当主)です。

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青葉神社 片倉宮司

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 茂庭綱元の父良直と先妻の間には、喜多という娘が居りましたが、跡継ぎになる男子がなかなか生まれなかったために、先妻は離縁させられ七歳の喜多をつれて実家に帰りました。良直はすぐに後妻をもらい、そして綱元が産まれたのです。その後離縁された先妻は、米沢八幡宮の片倉家に再嫁し、そこで生まれたのが小十郎景綱です。

景綱と綱元は異父兄弟として、政宗公を支える重臣となります。そして景綱の異父姉である喜多が、政宗公の乳母になります。

 

小十郎二代目重長は、真田幸村の子供4人を預かることになります。真田公は、敵方ながら小十郎の戦いぶりに関心を持っていました。大阪の役で豊臣方についた真田公は、負け戦になると覚悟を決めたとき、自分の幼子4人を小十郎に託したのです。4人は片倉の姓を名乗り白石城で育てられました。うち女子ひとりが幼くして亡くなり、女子二人、男子一人が残りました。長女が14?15歳になって小十郎の後妻に入ります。小十郎の奥さんは早くに亡くなりましたが生前、‘自分が死んだら(自分が育てた)真田の長女を後妻に入れるよう’遺言していたのです。そして男子は、片倉を名乗って家臣になり終生伊達家に仕えました。

 そこからおよそ100年ほどで、片倉から真田の姓を復活させることになります。歴史上では、幸村公の代で子孫は残っていないことになっているようですが、どっこい現在の仙台にある‘真田家’につながっているのです。

 白石城に連れてこられた男子は、実は京都の河原の石合戦で石が当たって亡くなったことになっていました。ところがそれは、身代わりとなった別人の子供でした。真田家の血はそうして現代まで生き続けてきたのです。

 

 青葉神社の片倉宮司と陰陽師親方は、悠久の歴史の流れの中で引き合わされました。歴史の陰に隠れた感のある茂庭綱元は、実は城下建設の指揮をとった人物として、『六芒星』『グランドクロス』『四神』の知識の源であるかもしれないのです。かつて仙台藩の軍事機密を背負った男と、神官として転生した片倉宮司。戦国の世から400年、驚く史実にまみれた仙台に、続々と転生者たちが集まり始めているようです。

 

 青葉神社の大広間には、真田公の子供たちを仙台に送り届けた家臣の子孫が描いた政宗公の絵が飾られています。なんとこの現代に至って恩義と敬意を表し、2年がかりで仕上げたという大作です。400年の時を経てなお、政宗公にかかわる人たちが、絶え間なく訪れる青葉神社。

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満月(陽)の中に口を開けた龍(陽)をバックに、三日月(陰)の兜の騎馬政宗公。

絵を鑑賞する片倉宮司と陰陽師親方

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●大崎八幡宮

 伊達家が米沢城を本拠地としていたころの鎮守社である成島八幡(なるしまはちまん)と、豊臣秀吉の命令で岩出山(当時は岩手沢)に移った際に、岩出山にあった大崎八幡とを一緒にして仙台の地に移し祭った神社です。

 大崎という地名は今も宮城県に残っていますが、もともとは大崎氏(奥州探題-おうしゅうたんだいという、現在の東北地方太平洋側地域を治めていた役職)が住んでいました。大崎氏は奥州の名門として高いプライドを持っていました。小田原城を攻めるときに秀吉が参戦するようにと声をかけたのですが、キッパリ断ったため秀吉の怒りを買い領地没収となったのです。このとき、大崎氏と並んでそれより古い時代から奥州総奉行としてこの地を治めていた葛西(かさい)氏も、同じく小田原攻めに参戦しなかったのでともに領地没収となりました。それらの領地をまとめるために、秀吉は木村吉清(きむらよしきよ)を派遣しました。ところがうまくまとめきれず、しまいには攻められて佐沼城に逃げ込みそこから動けなくなってしまったのです。その木村氏たちを助け、大崎葛西の領地を平定(へいてい)、つまり乱を収めるために伊達政宗に出陣の命令が下りました。このタイミングでは、伊達家はまだ米沢にありました。歴史的にはこのような説明になりますが、現代に置き換えてみるとムチャクチャな話になります。

奥州に住む大崎君と葛西君の家は隣どうしでした。

一つ山を越した小田原に北条君ちがありました。

そのまた山向こうにあばれんぼうの秀吉君がいました。

ある日秀吉君が「北条君の小田原の家をおれにくれよ」と言って、近場の子分を集めて北条君ちを取り囲みました。

秀吉君は、遠く離れた奥州の大崎君と葛西君にも声をかけ

「こっちへ来て一緒に北条をいじめようゼ」と誘ってきたのです。

でも、大崎君と葛西君は「俺たち関係ねーし」と参加しませんでした。

中には政宗君のように、家来(こじゅうろう)に「参加しないとこっちがいじめられっから」と説得され、ぎりぎりのタイミングで仕方なく参加した人もいました。

大崎君と葛西君は、昔からの立派な武士の家柄だったので、「秀吉君なんてこわくねーもん」と余裕こいていたのです。

ところが、小田原の北条君ちがとうとう秀吉君に取られてしまい、大崎君と葛西君ちに、秀吉君の命令で家来の木村君が殴りこみにやってきたのです。

「ひでよし様の命令にそむいたオマエたち許さない!さっさと家を出て行けよ」

「ナニかだってんのや?ここはオラだぢの土地なのになして出でいがねばなんねんだぁ?馬鹿こくでねーど!」

代々続いた名門の武士たちにとって、急に代官になった木村君など一喝してしまいました。

木村君はビビって佐沼のお城に逃げ込み鍵を掛けて立てこもってしまったのです。

それを聞いた秀吉君は、思い通りにならないこの二人にキレて、今度は政宗君や蒲生君にふたりの家を取ってこいと命令しました。そうしてとうとう大崎君と葛西君も泣く泣く家を追い出されるはめになったのです。

 

2人の追い出しに成功した秀吉は、「まさむね君よくやったね」とご褒美に大崎君と葛西君の家を政宗君にあげることにしました。ふたりの家をくれると言われても、秀吉君を恨んでる人たちがいっぱいいるわけだし、何時だれが襲ってくるかわからないとこもらっても、オレ困るんだけど・・・と内心はちっともうれしくない政宗君でした。

「それあげる代わりに、政宗君が持ってる米沢とか会津とかの土地は僕がもらってあげるから」

「エェ!?」

わけのわからない理屈に逆らうことが許されなかった政宗君は、言いなりになるしかありませんでした。ショックで混乱する政宗君に追い討ちを掛けるように秀吉君が言いました。

「あ、そういえば君の可愛い奥さん、なんて言ったっけエ?ト…」

「メゴにございますが…」

「そうそう、そのメゴちゃんを京の都の僕の屋敷に連れてくるように♪」

「ハァ??」

領地をめぐる争いにあけくれる男たちの弱肉強食の影で、物のようにあっちこっちへ飛ばされる姫。まるきし納得いかないながらも政宗は、生まれ故郷の米沢(山形)を離れて、岩出山(宮城)に移ることになったのでした。しかも愛姫までとられてしまったのです。

 大崎八幡宮の隣には龍宝寺(りゅうほうじ)というお寺があります。龍宝寺は大崎八幡宮の別当(お坊さんが神主の仕事もする)でしたので、今の町名の八幡町(はちまんまち)は当初、龍宝寺門前町(りゅうほうじもんぜんまち)といいました。現代では、神様を祭る神社と仏様を祭るお寺は別のものと考えられていますが、昔は一緒でした。

 仏様が世の中の人々を救うために仮の姿としていろいろな神様となって現れてくる(本地垂迹-ほんじすいじゃく)、という思想を神仏習合思想(しんぶつしゅうごうしそう)といいます。この仏と神は同じであるという考え方は、平安時代(794年?)始まったもので、1074年もの間続いたのです。しかし、明治(1868年)になって天皇様が日本の代表であると決めたときから、神社とお寺は別物になりました。天皇は神様的存在だけど仏ではないから、神社とお寺が一緒じゃまずいだろってことです。だから神社とお寺が分かれてからわずか153年しか経っていないということです。

 

 大崎八幡宮には建設当初、奥の院に豊臣秀吉が祭られていました。米沢を取られ愛姫まで人質にされた政宗公、本当なら秀吉を恨んでもおかしくはないはず。でもどうやら政宗公は、豊臣秀吉という人間を好きだったようなのです。それは小田原城を攻めたとき目のあたりにした驚くべき光景のせいでした。

 

秀吉の命令とはいえ北条氏と戦争をしに来たにもかかわらず、城では毎日、囲碁やらお茶やらオネーチャンやら、お祭り騒ぎの状態が続きました。戦仕立ての武士たちは、そこにおよそ10万人いたといわれています。秀吉はこれらの人々に、戦どころか豪華な食事を提供し、‘仮の城’を建てる仕事をさせていました。まるでどこかの大きな町がそのまま移動してきたかのような光景で、どんだけ金持ってんだか秀吉さん、あまりの人数の多さに北条氏はおののき、小田原城から攻撃することをためらいました。おまけに自分の城を見下ろす山に、短期間のうちに巨大なお城が出現し北条氏パニクった。とてもじゃないけどこれでは全然まったくさっぱり少しも勝ち目は無いとあきらめて、完全に戦力を失い降参したのでした。

 人を殺さず兵士を遊ばせながら敵を降伏させてしまうとは…豊臣秀吉の偉大な力に政宗公は感心したのです。山に築いたお城の実態は、枠のみに白布を貼っただけのものでした。遠くから見れば立派な城壁に見えるのですが、それは本物に見せかけた映画のセットのようだったのです。人と人が命を掛ける戦争を、遊び心とユーモアで勝ち取ってしまうその人物像に、政宗公は尊敬しまくり惚れちゃったんですね。

 政宗公が、大崎八幡宮の奥の院に豊臣秀吉を祭ったことを裏付ける史料は、茂庭家記録(もにわけきろく)の中に記載されています。茂庭家は代々奉行職を務めた家柄で、宮城県北部の松山町(まつやまちょう)に屋形がありました。そこは、茂庭家13代の良元(よしもと)が初代の城主となりました。

 茂庭家が伊達家の家臣となったのは、源頼朝(みなもとのよりとも)が奥州征伐した際に(おうしゅうせいばつ:1189年現岩手県の平泉を拠点としていた藤原氏を攻めた事件)手柄を立てたご褒美に、伊達家の初代朝宗(ともむね)が現福島県の伊達地方を領地として与えられた頃のことです。伊達家はもと中村を姓としていましたが、源頼朝が伊達(だて)の土地を与えたところから中村から伊達に変えたのです。現仙台の国分町(こくぶんちょう)で知られる国分(こくぶん)の名前もこのころに関係しています。やはり源頼朝に従って戦った千葉氏が、手柄を立てて現仙台の地にある陸奥国分寺(むつこくぶんじ)を中心とした土地をご褒美にもらったので、千葉さんが国分さんに名前を変えたのです。そして政宗公が建てた仙台城の場所に、最初は国分さんがお城を構えていたのです。

 

 茂庭家の面々はすごい活躍をしました。茂庭家12代の綱元が仙台城下を造ったときの中心人物となります。このツナモト君は豊臣秀吉のお気に入りでした。秀吉が京都や大阪、また九州の名護屋にいた時、話し相手や囲碁の相手によく呼ばれていました。

 ある日のこと。

「ツナモト君どうしてきみの名前は怖い‘鬼’なんだい?」(茂庭家は綱元の時までは苗字が鬼庭-おにわだった)

「はい、先祖が茂庭村に住みました時、大きな蛇がおりまして毎年蛇の餌に可愛い娘を差し出していたそうです。それを訊いたご先祖様がその大蛇を退治しました。村人はご先祖様は鬼より強いと褒めたたえ、それから鬼庭を姓といたしました。」

「そうか、じゃぁもともとは茂庭なんだね。鬼がつく名前は良くないから、きょうから茂庭に戻しなさいよ」

ということで、鬼庭家はこのときから茂庭に改名したのです。

またある日のこと、秀吉君に呼ばれてお城に行きました。

「ツナモト君今日は僕と碁をしよう。君が負けたら首ちょん切るからね。そのかわり僕が負けたなら、あそこにいる女の子のうち一人あげるから♪」

と指を差した先には16人の美女が並んでおりました。全員が秀吉君のおめかけ(側室)さんでした。鼻息が荒くなったツナモト君はあっさりとひでよし君に勝ってしまいました。

「どれでも好きな子えらべよ、はやくしろよチッ」

そういわれるとツナモト君は、16人の中でもとくに地味な女の子を選びました。

「エッそんな子でいいの!?」と秀吉君がいうと

「うん。僕んち田舎で貧乏だからきれいなドレス買ってあげられないし、このこでいいよ」

と言いつつも実は、地味好みのツナモト君は天にも昇る心地でした。

秀吉君はさっと立ち上がるとクルリ背を向けて、奥の部屋にスタスタと行ってしまいました。実はこの一番目立たぬ格好をさせていた女の子が、ひでよし君の一番のお気に入りだったのです。

ツナモト君はこの女性こと高田種子(たねこ 1594年-文禄3年時18歳 京都伏見出身)をとっても大切にしました。ところが悲しいかな、後に政宗公が「おいツナ!おまえずるいよ。その子俺によこせヨ」といって横取りしようとしたのです。しかしツナモト君は種子を手放しませんでした。そうこうしているうちに政宗様の嫉妬を買い、城を追い出されてしまうのです。ツナモト君は種子を連れて、岩出山から種子の実家のある京都伏見へと向かったのでした。

 一行が京都へ向かってとぼとぼと歩いていたとき、突然ツナモト君がひらめきました。

「そうだ!江戸に寄ってまさのぶ君にごあいさつしていこう」

「本田正信(ほんだまさのぶ)様どすか?」

「うん、京都にいたときにずいぶんお世話になったし、今度はいつ逢えるかわからないから」

ツナモト君たちはお土産の馬を一頭連れて、家康様のお城に向かいました。

「やあ!よく訪ねてくれたね」

うれしそうにまさのぶ君がお城から出てきました。

ツナモト一行の旅の事情を聞くと

「失業したならうちの大将(家康様)に口利いてやるよ」と提案してくれました。

しかしツナモト君は

「武士たるもの二心(にしん)は恥です。伊達家にいたものが徳川様に使えることはできませぬ」と断りました。

その考えを聞いてまさのぶ君は感心し

「それならば、武士たるものそんな貧しい格好で歩いてはだめだよツナモっちゃん」と言うと

立派な着物類とお金、関八州(かんはっしゅう:箱根から東の八か国-さがみ、むさし、あわ、かずさ、しもうさ、ひたち、こうずけ、しもつけの国をいう)の伝馬(でんま)十頭のご朱印を与えました(馬を乗り継いでいける許可証)。それから、ツナモト君の家来が途中で商売して稼げるように仕事の手配までしてくれ、さらに家康様からは、馬の道具として虎の皮の打ちかけや紫縮緬(むらさきちりめん)の手綱(たづな)など、武士にふさわしい豪華絢爛なプレゼントをもらいました。このときの中白鳥毛の槍が現在も松山町に残されています。こうしてツナモト一行は、きらびやかないでたちで、京都伏見町の種子の父高田次郎屋敷へと向かったのです。

1612年(慶長17)11月の茂庭家記録によれば、種子は36歳時に大崎八幡へ金の灯篭(とうろう)ひとつ献納したと書かれています。『大崎八幡内陣の内に豊國大明神を祭り給うの所あり其の所に国君より献じ給う金灯篭三つと同然に掛け置かる…』これをみると豊臣秀吉が豊国大明神という神様になって祭られ、国君とは徳川家康のことと思われますが、このときすでに三つの金灯篭が掛けられていて、その隣に種子の金の灯篭が掛けられたということになります。

●仙台東照宮

 東照宮といえば、徳川家康が祭られている日光東照宮が有名です。仙台市街地の北東部にある東照宮にも、徳川幕府の許可を得て日光東照宮から分霊した徳川家康が祭られています。政宗公が豊臣秀吉の命令で岩出山へ移ることになったときに、岩出山の城を築いたのが家康だったのです。城の設計をすることを‘縄張り’といいますが、それを家康が行いました。政宗公にしてみれば、隅々まで弱点を知り尽くされている城に住むことは、大変不快であったことでしょう。その家康が岩出山へ向かう途中、休憩した場所が今の仙台東照宮のところでした。幕府への場所選定理由に、そのことを伝えて許可が下りたそうです。

その場所にはもともと国分氏以前から天神社がありました。天神様といえば菅原道真(すがわらみちざね)。いまは学問の神様として受験生に人気がありますが、彼は死後怨霊となった祟り神なのです。島流し同然に京の都から九州の大宰府(だざいふ)に送られ、失意のうちに死んでしまったのですが、その後に京の都で災いが多発したため、道真の怨霊のせいだとされ、大宰府に天満宮を建てて道真を祭りました。それでも災いがおさまらないために京の都に北野天満宮を建て、再度怨霊をなだめてやっとおさまった、という歴史があります。

 

 この仙台東照宮の場所は玉手崎(たまてざき)といって、仙台の城下を取り囲む丘のひとつの先端にあり、やや高台となっています。そして仙台城からは正確な東北の方角に位置しています。仙台城はもともと国分氏のお城の後に建てたもので、国分氏の時代に天神社の位置が決定されています。

 仙台は東北地方ですが、この「東北」という言葉には‘いわれ’があります。その昔、東北からは鬼がやってくると考えられて忌み嫌われた方角なのです。鬼というのは恨みや憎しみといったまさに怨霊を表し、その方角を「鬼門(きもん)」といいました。東北地方の「東北」は京の都から見た方角であり、蝦夷(えみし)と呼ばれた嫌われ者が住んでいたことも重なって、名づけられたのかもしれません。「鬼門」は中国から入ってきた考え方で、東北から鬼がやってくるのを防ぐため、そこに門を建てて二人の門番の神様を置きました。門番は鬼より恐く、都を守ってくれるのです。

 

 節分に豆まきするときの鬼は、頭には角が生えていて腰には虎皮のパンツをはいていますが、そのようなデザインになったのにも理由があります。ね、うし、とら、う、たつ、み、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い、の十二支を輪にして並べると、一つの角度が30度になります。それを方角としてみると、「ね」を真北にして、反対は「うま」で真南、東が「う」で西が「とり」になります。「東北」は「うし」と「とら」の接する60度の部分、これが「鬼門」となります。ここから、牛の角(つの)と虎のパンツのアイデアが生まれたのです。

 

 京都を建設する時には、鬼門の守りとして比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)を建てました。江戸の町には、寛永寺(かんえいじ)と神田明神(かんだみょうじん)を建てました。仙台では仙台東照宮が「鬼門」に建てられたのです。

 徳川家康は1616年に亡くなってから、一度久能山(くのうさん)に埋葬され、その後に日光に移されました。このことにも理由があります。久能山から地図上で西に線を引くと京都にたどり着きます。その線の途中に鳳来山(ほうらいさん)寺があります。この寺は、家康のお母さんが子授けの祈願をしたところです。生まれたところと死んで埋葬されたところを東西のラインで結ぶことによって、太陽が東から昇り西に沈み、また東から昇るという輪廻再生を願ってのことなのです。久能山から直線に日光に線を引くと、途中で日本の霊峰富士山を通過します。逆に言えば、富士山を通るようにした場所に日光があるということです。日光の位置は江戸の真北に位置しますが、ここに大きな意味があるのです。夜空の星でいうと、全天を支配する北極星の方角になります。当時北極星は宇宙の最高の神様、すべてを支配している星と考えられていました。徳川家康は‘北極星’というお星様になったのです。

 ならば家康様を仙台にお祭りすべきはお城の真北じゃないですか。それなのになんでか鬼門の東照宮なのです。「家康様は仙台の鬼のための門番になりますた」なんて、これが幕府にばれたらえらいこってす。昔家康さんが休憩した場所だからねと、‘へ理屈’こいてる場合じゃありません。城下絵図を提出したとき、まだ仙台に東照宮は無かったし六芒星を形作る六地点は完成していませんでした。というより、その提出した絵図には小細工がされていたらしいのです。

 

その絵図は1645年~1646年(正保2?3)に描かれましたが、幕府から城と城下を描いた絵図を提出しなさいという宿題が出されたのは、その前年でした。政宗公はすでに亡くなっていて、息子の忠宗が、1年の間にアセって調べ測り描かせて、提出したと思われます。絵図によると、仙台城の鬼門には定禅寺(じょうぜんじ)を中心とするお寺や神社が現宮城県庁のある勾当台(こうとうだい)のところに、仙台城を向いて並べ建てられていました。ここは仙台藩が正式に「鬼門だよ」と言って建てた寺社群です。ところがその絵図では、そこが六芒星の中心点になる場所なのにわざとずらして描かれ、中心であることをごまかしています(星型の存在が判られる事を防ぐため)。その他にもいくつか六芒星を形作るには絶対必要な道路が曲っていたりするのです。ということは二代目忠宗は、この仙台の地に六芒星が隠されていることを幕府に知られたくなかったのだと思われます。それは、政宗公のもしかしたら遺言だったんじゃないだろうか…てことはこの六芒星には、なにかすごい秘密が隠されているの…?

 

 玉手崎に建てようとした仙台東照宮の場所には、もともと天神社がありましたが、まるで「城下とは関係ないね」という感じでポツンと描かれています。忠宗公は絵図を提出し、仙台東照宮を建てる許可をお願いしに江戸へ向かいました。

「このたび上様に御目どおりを願いましたのは、神君家康公を我が城下仙台の地に守護神としてお祭りいたしたく お願いに参上いたしました」

忠宗公は江戸の徳川家三代将軍の家光に深々と頭を下げた。

「おおそうか、ジィを守護神として祭りたいと申すのか」

「はい、神君家康公にあらせられましては、亡き父政宗が岩出山へ移封のとき城の縄張りをおん自らなされ、大変にお世話になっておりました。その際、今の仙台の地の玉手崎と申すところにて休息を成されたと伝えられております。そこは城下を一望にできる場所でございます。そこへ神君家康公のわけ御霊(みたま)を勧請(かんじょう:分霊を移すこと)できれば守護のもと伊達家末永く、徳川様に御仕えできるものと思っております」

このとき忠宗公は「鬼門鎮守の神様」として…なんて言えるわけがなかったのです。鬼門の番人は鬼の上に立つもっと恐ろしい存在なわけで、お星様になった全宇宙の神である家康様を、仙台を守るための見張り番に立たせると知られたら、その場で斬首どころか、仙台藩は終わりです。

「仙台の爺が、我がジィに城を造ってもらった事があるのか…」

家光は政宗公に大変可愛がられており、「仙台のジィ」といってとてもなついていました。ときおり江戸にあった仙台屋敷に招かれ、政宗公みずから腕をふるった料理を食べたこともあったのです。

 政宗公は当時の武将としては「料理が趣味」という異才を放っていました。仙台味噌というブランドも確立させ、戦に持参する食料としてはもちろんですが、江戸城下の庶民の間にも、その美味しさと品質の良さで大ブレィクさせていました。政宗公は、当時のグルメ武将としても名を馳せていたのです。

 家光は二つ返事で許可を与えました。1649年(慶安2)5月(絵図を提出した3年後)のことでした。同年8月には建設を開始しました。忠宗は「戦乱の世に生まれてくればすばらしい武将になった」と父政宗公が認めるほどの人物でした。

またあるエピソードで、政宗公が幼い忠宗をつれて徳川家康の御前に連れて行ったときのことです。子供ながらにきちんとした挨拶をし、そのあとにごちそうが出たときのこと。それには塩を振って食べたほうがうまいとわかっていたため、やおら近習(きんじゅう)にむかって「塩をもて」と命令をしたのです。その子供ながらも威厳のある態度を見て、家康は感嘆したと伝えられています。

 

 忠宗公は分霊許可をもらう前年に、玉手崎の天神社に行きそこから見えるところの確認(測量や見通し)をしています。ただ眺めたわけではなく、つねに軍事的に敵を見張ることを考えて、建物や街道の配置を研究していたのです。その時に、龍宝寺と覚性院(かくせいいん)などを確認したと記録にあります。龍宝寺は大崎八幡宮のところで説明した城下の北西にあるお寺です。覚性院は、現在は覚性院丁という名前で八幡町のほうに残っていますが、忠宗公が玉手崎から眺めた時には、南の今の東六番丁小学校の場所にありました。東照宮の分霊が江戸から運ばれてきた時にそこへ仮安置し、その御旅宮(おかりのみや)を建てるために覚性院を八幡町のほうへ移したのです。

 5年をかけて建てた仙台東照宮は、1654年(承応3)3月に完成しました。徳川家康の分霊は上野の寛永寺の東照宮から運ばれてきて、一旦御旅宮に安置され、後に仙台東照宮に移されました。江戸寛永寺の東照宮は1627年(寛永4)に藤堂高虎(とうどうたかとら)によって勧請(かんじょう-日光東照宮から分霊して移す)したのです。玉手崎にあった天神社は、東照宮の敷地内の東側に移され、後に榴ヶ岡のほうに移されました。

榴岡天満宮の名前は昭和30年代に付けられたもので、それまでは天神社と呼んでいました。徳川家光は、仙台東照宮が完成する三年前に他界しており、そのとき13歳の家綱が徳川家四代将軍となっていました。

1646年    城下絵図作成

1648年    忠宗公玉手崎に登り神社仏閣の位置確認。

1649年5月 仙台東照宮建設許可申請。8月着工。

1651年    家光死亡。

1654年3月 仙台東照宮完成。

 城下絵図を事実と違えて提出したのには、六芒星の存在を隠しておきたかったという意図がビシビシ感じられるわけですが、それはなぜか…仙台藩の伊達家を守るための『呪術』として六芒星を組み入れたからです。呪詛(じゅそ-呪い)という考え方は、現代では非科学的ですが、菅原道真の怨霊を静めるために天神社を建てまくった当時の人たちにとっては、呪詛されるイコール霊的攻撃を受ける、ということなのです。その防御施設が六芒星の頂点に位置する寺社群、つまり、霊的防御のために六芒星を作ったことがバレると、破壊攻撃のターゲットにされてしまいます。そのために、星の存在をなにがなんでも隠さなければならなかった。それなら、星型を作らなくても城下を囲んでグルリと祈祷する寺社を建てればいいじゃないか、と現代人は思うわけですが、六芒星は五芒星と並んで太古の昔から魔除けの図形として使われてきました。

 この星型は、ユダヤ教(ユダヤ民族)の象徴のしるしとしてイスラエル国旗にも描かれ、ダビデの星とも呼ばれています。二つの三角形が合わさることで強烈な気の流れが発生し、外部からの呪詛を防ぐ結界の働きをしていることは、現代社会においてもピラミッドパワーや風水などでよく耳にします。’非科学的要素’なくしてこの物語はありえないのです。

 

陰陽師いなべの晴明が星型を発見したのも、もともとは神社から流れ出る強烈な気の流れを認識したことから始まっています。そして後日地図上に気流を書き込んでみたところ、六芒星になったということです。間違いなくいえるのは、この時代は完全に呪術的なものに支配されていたということ。天下を取るため戦で活躍した武将は、死んで即効全宇宙の神になり、菅原道真のように、死後大災害が起きるのはアンタの祟りだと決め付けられた人もいる。祟り封じの天神様が全国に広められ、100年以上も祟り神として君臨していた道真さんだが、ほとぼりが冷めると今度は、生前学者で詩人だったことから「学問の神様」にされたのですから。

祟りを恐れる文化が、『星の街仙台』を作ったのです。

●榴岡天満宮

 榴ヶ岡にある榴岡天満宮。どちらも「つつじがおか」とよみますが、天満宮の名称には「ヶ」を入れないのが正式だそうです。東照宮のところでも説明したように、菅原道真を祀っており、学問の神様として受験生たちの願いどころとなっています。この神社はもともと仙台東照宮のある玉手崎から移された天神社です。仙台に東照宮が遷宮(せんぐう)してきた際に、玉手崎の東側に社殿をいったん移した後、今の榴ヶ岡に移されました。榴岡天満宮という名前に変わったのは最近のことで(昭和30年代)、1667年(寛文7)からそのときまでは「天神社」だったのです。

 1189年(文治5)に源頼朝(みなもとのよりとも)が奥州藤原氏を攻めたときに、藤原泰衡(ふじわらやすひら)がここに防御のための館を築きました。その名を「国分鞭楯(こくぶんむちたて)」といいました。国分とは、この場所が陸奥国分寺の領地である国分荘(こくぶんしょう)と呼ばれる地域だったからです。源頼朝に従ってきた千葉氏が手柄をたてたため、この国分荘を拝領して国分氏に名前を変えたのです。現在の夜の歓楽街である「国分町(こくぶんちょう)」は、国分氏が城下建設にあたって武士から町人になり、国分町に住んだのが地名の始まりとなりました。

 この国分鞭楯は楯を築くほどですから、見通しのよい地形で防衛施設を置くには最適の場所と言えます。そこからは陸奥国分寺が見下ろせ、そこを通る東街道(あずまかいどう)も見通すことができます。天神社が玉手崎にあったときには、仙台城の場所にあった国分氏の城の鬼門鎮守(きもんちんじゅ)を目的としていました。それが榴ヶ岡に移動してしまうとその目的が果たせなくなると心配されますが、鬼門の方角は十二支の「丑」と「寅」を挟んで、角度にすると60度の範囲になります。この場合お城を基準としているので、仙台城から見ると東昌寺(現青葉神社)から天神社(現榴岡天満宮)の範囲にぴたりと収まります。ですから、お城の鬼門方位を東昌寺・仙台東照宮・榴岡天満宮の三点で見事に押さえていることになるわけです。

●愛宕神社

 城下の南に位置する愛宕(あたご)神社は、1603年(慶長8)に建てられました。広瀬川を挟んだ崖の上にあり城下を一望にできます。仙台城と北の東昌寺とほぼ同時期に建設されていることから、その重要さが伺われます。

 愛宕神社のある向山と、その後ろ南側にある茂ヶ崎(もがさき)の山との間に、平安時代以前からの東街道(あずまかいどう)があります。この街道から城下へ入るには、おどげでない(すごく大変な)道のりがありました。当初は軍事的防衛の意味で橋は掛けられなかったため、船や人足によって川面を渡っていました。広瀬川は川幅が広く、歩いて渡れるところがほんの数箇所しかなかったようです。そのためまず茂ヶ崎の山裾をぐるりと回りこんで、愛宕神社の後ろに出ます。すると長い上り坂になります。そこを暫らく進むと、広瀬川へ下りてゆく鹿落坂(ししおちざか)にたどり着きます。(その西の小高い山は、のちに伊達家霊廟のある霊屋になり、政宗公と忠宗公そして綱宗公が祭られています。)鹿落坂を降りると広瀬川の浅瀬があり、ジャブジャブ渡って片平の丘に登り、やっとこさその先に進むことができたのです。

 また愛宕神社からさらに下流の、長町から河原町に渡るところには川渡しがありました。愛宕神社の位置は、それらの街道をぐるり見通せる場所にあるのです。北の青葉神社と南の愛宕神社を直線で結ぶと、南町と国分町の通りにきれいに重なります。このように城下の主要道路は、高台に設けた寺社と見通しにおいて、密接な関係に計画されていることがわかります。

 愛宕神社は火の神である「かぐつちの神」を祭っています。城下の南は十二支の方位では午(うま)の方角です。季節でみると夏六月になり夏至(げし)を含みます。五行説(ごぎょうせつ-古代中国発自然哲学思想)から見ると、北の子(ね)の「水」に対して南の午(うま)は「火」となり、火の神を祭る愛宕神社の場所としては最適と言えます。

●仙台城(青葉城)

 青葉山にあるため別の名を「青葉城」とも言います。地元仙台っ子にとっては青葉城のほうがしっくりくるかもしれません。

 ここはもと国分氏が住んでいた支城があった場所で、虚空蔵(こくうぞう)や千躰仏(せんたいぶつ?千体の仏像)などが祭られていたため虚空蔵楯(こくうぞうだて)とか千躰城(せんたいじょう)または千代城(せんだいじょう)とよんでいました。伊達政宗公はこの地に城を築くに当たって、『千代(ちよ)とかぎらじせんたいの松』と詩を詠み代々が千代で終わってしまうのではなく、常に緑が生き生きしている松のように長く栄えることを願い、また不老長寿の仙人が住むという中国の「仙台」という地名から「千代」→「仙台」に改めたのです。

 仙台城の特徴は、崖にせり出した「懸け造り」という建造物です。

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著作権あり

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 ここから城下を一望にでき、城下からは、北目町から柳町に入って西に向かうと、この懸け造りのお城が見えたのです。六芒星ではここから柳町に沿って一直線上に榴ヶ岡の天神社があります。この懸け造りは「眺望亭(ちょうぼうてい)」や「眺えい閣(ちょうえいかく)」と呼びました。ここから政宗公と綱元が並んで‘鉄砲のつるべ討ち’を眺めたという記録があります。

 鉄砲は片平の西端の旧家庭裁判所のところから、東北大学の南側を通り、五橋から土樋を経て、宮沢橋のある舟丁まで並べられました。鉄砲組は西から、徒歩小姓組、不断組、給主組、名懸組と総足軽組を配し、その数2000挺に及んだとあります。眺望亭の北側の本丸敷地内に、大町勝左衛門重吉組の三十人の鉄砲足軽を置いて合図の鉄砲を撃たせると、西側から、ダダダダダダダダダダダ…と三回行った、とあります。さぞかし気持ちの良い眺めだったことでしょう。それから暫くの後、鉄砲のつるべ討ちは長町で行われました。片平の時は広瀬川(当時の記録では仙台川とあります)の川向こうの土手に向かって、長町の時には大年寺山に向かって撃ったとあります。記録には、片平の時は、慶長14年7月24日です。

 この二回のつるべ討ちは表向き‘鉄砲組みの演習’だと思われますが、もうひとつ陰陽師親方の推測によると、政宗公が密かに企画した干支が関係する内々のイベント(陰陽道祭祀)とも考えられるのです。

六芒星を形作る二つの三角形ですが、易経では、万物の「誕生」「盛ん」「死」の三種の変転生・旺・墓とした「三合の理-さんごうのり」というものがあり、それを十二支へ配当して図形が描かれます。年に十二支を用いていたように、月と日にも用いていました。片平のつるべ討ちが行われた慶長14年の7月の24日は「卯」の日です。長町のつるべ討ちの日も「卯」の日でした。その「卯の日」に囲まれた8月3日は政宗公の誕生日なのです。慶長14年は「己酉(つちのととり)」年の1609年で、政宗公42歳、綱元60歳で、ちょうど二人の厄年になります。政宗公は1567年(永禄10)「丁卯(ひのとう)」のうさぎです。この二回行われたつるべ討ちは、誕生日をうさぎの日で囲んで、‘疫病神’を鉄砲で撃ち殺したことになります。南に撃って、次に西に撃ったということは、その中間(南西)には江戸があります…。政宗公のことだから

「おれもツナも厄年だな…鉄砲でもぶっ放してパァーっといくか!」

「フフ、、それは良いお考えで。幕府の目付けも呼んで派手に参りましょう」

てな感じでやったんでしょうか。

■仙台城下■

 鉄砲のつるべ討ちをした片平の道路は軍事道路です。いざ出陣の時には、城下内を通らずに五橋方面へと近道で抜けられるようになっています。奥州街道を城下に入ってくる道筋は、長町から広瀬川を渡って河原町に入り、北上して荒町で西に進み、五橋を抜けてそれから北上し染師町、北目町と進んで柳町へとくねくね曲って入ります。その地点から西にお城を見上げながら進み、そして城下のメインストリートの南町に北上します。そこまで進むまでに、鉤方(かぎかた)や直角に曲るところがあります。当時は「枡形(ますがた)」といって、敵が攻めてくるときに身を隠して待ち伏せできるようにしていたのです。今も南材木町と穀町の間にみごとな枡形が残っています。

 南町の先には 札の辻(現芭蕉の辻)の十字路に差し掛かります。ここが城下の中心で、西に行けば大手門、東に行けばさまざまな問屋のある町屋を抜け、足軽屋敷のある道路へと進みます。鉄砲のつるべ討ちにも参加した名懸組の住む名懸丁(現名掛丁)があり、その先が鉄砲町で、鉄砲隊が住んでいるところにつながります。

 札の辻(現芭蕉の辻)の北には国分町があり、その先二日町と続きます。国分町は、政宗の家臣だった国分氏が町人となって住んでいたところですが、札の辻を中心としたところに商店が配置されているので、城下に入ってきた人たちは必ずそこを通ります。ゆえに、国分氏の役割は‘偵察 ’だったと思われます。風呂敷包みを背負い商人の格好で城下を出入りすれば‘他国へ商い’という形で情報収集できます。つまり、スパイです。

 「丁」は「ちょう」と読み、「町」は「まち」と読みます。「丁」と付く場所には武士が住み、「町」と付く場所には商人や職人が住んでいました。字を見ればひと目でそれがわかるようにしていたのです。現在の国分町は「こくぶんちょう」とよみ、東北一の歓楽街として有名な町ですが、当時は「こくぶんまち」で町人の住むところでした。そして、札の辻を基準として南北方向を「横」、東西方向を「縦」として町割を行いました。この南北方向は現在「晩翠通り」となっていますが、以前は「細横丁」とよんでいました。「細」は字のごとく細い路地を表し、「横」は南北に伸びた道路であることを表し、「丁」は武士の住むところですので、「細横丁」という地名だけで「南北に伸びた細い路地のある武士の住むところ」という情報が得られるのです。

 国分町を北上して二日町に入る手前に、東西道路の「定禅寺通り」の交差点に差し掛かります。六芒星を隠したと思われる幕府提出の最初の絵図では、ここは交差していません。そこから東へ向かうと定禅寺にたどり着きます。今の勾当台公園と県庁のところです。定禅寺(じょうぜんじ)という寺を筆頭に寺社が配置されていました。定禅寺通りは現在もありますが、「定禅寺」がどこにあったかを知る人は地元でも少ないと思います。

 「**通り」とあるのは「目的地までの案内道路」という意味です。今も残る南町通りは東西方向ですが南町は南北に正対しています。現在は「横丁」も「**通り」も当時とはまったく関係なく名づけられていますので、本当の意味を成してはいません。定禅寺はそこから東側に神社やお寺などが立ち並ぶ寺社群を成していますが、それらはお城の本丸に向けて斜めに配置(鬼門封じの方角)されています。

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星の街仙台P9仙台城下絵図仙台博物館所蔵地図参照

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そのためそれに沿った北側の道路は、その形から「長刀(なぎなた)丁」と呼ばれるようになりました。札の辻を基準として東側へと東一番町、東二番町と通りに名前をつけてゆきました。現在の広瀬通を西公園から東に進むと、東二番町の交差点から急に道路の角度が変化します。それが当時の鬼門の傾きの名残りなのです。当時の寺社群は、そのすぐ北隣の本町にありましたから。

 現代の仙台の街は、高層ビルが林立する東北一の大都会と変貌しましたが、歴史の隅々をこれでもかとつついていけば、400年前の痕跡がまだまだ見つかるのかもしれません。お決まりの観光地をまわるのもいいのですが、歴史オタクなら城下の中心『札の辻(現芭蕉の辻)』もはずせないでしょう。(注:六芒星の中心ではありません)

 

このように、仙台は城下の中心である札の辻(現 芭蕉の辻)を基準として町割されていましたが、北一番丁は定禅寺の北側から名づけられています。まるで六芒星の中心である定禅寺通りを基準としたかのようです。

 札の辻の南北の道路が奥州街道です。そのまま北へと進めば北山にある東昌寺にたどり着きます。北山にあるお寺群は「北山五山(きたやまござん)」と呼んでいます。中国の五山(又は五嶽-ごがく)崇拝からはじまり、日本へ入ってから「山」がいつしか「お寺」に変わった(信仰するという共通点から寺を山の変わりにしたのでしょう)。

 伊達家は京都五山や鎌倉五山に習ってその思想を取り入れ、東昌寺(とうしょうじ)、光明寺(こうみょうじ)、満勝寺(まんしょうじ)、観音寺(かんのんじ)、興福寺(こうふくじ)を伊達五山とし、仙台の城下建設の際に「北山五山」を造りました。北山の東側から光明寺、東昌寺、覚範寺、資福寺、満勝寺が建設当初の北山五山の配置でしたが、後に満勝寺が柏木に移されて輪王寺が建てられました。奥州街道は東の光明寺を回り込むようにして北へと伸びて行きます。また、東昌寺から西へと進むと、輪王寺脇から荒巻方面へ行く道と、根白石(ねのしろいし)方面へと続く道がありました。

 六芒星の頂点を決める神社が建設されたのは、北の東昌寺(とうしょうじ)が最初です。城下の建設が始まったのが1601年(慶長6)ですからそのころのことです。しかし、政宗公は工事中の慶長8年8月に移徒(わたまし)式を行ったとあり、大広間をのぞいてだいぶ城はできていたようです。

 次が愛宕神社1603年(慶長8)、大崎八幡宮1607年(慶長12)、仙台城1610年(慶長15)、仙台東照宮1654年(承応3)、そして最後が榴岡天満宮1667年(寛文7)です。東昌寺から66年後に榴岡天満宮ができて六芒星が完成するのです。

 

 「杜の都」という仙台のイメージは、大正時代に仙台に来た者によって名づけられたのですが、なぜ「もり」を「森」とせずに「杜」としたのか。一般的に伝えられている「もりの都」と呼ばれるようになった理由に、大正時代に、当時まだ藩政時代の「屋敷林」が残っていたためそれが要因になったと思われますが、仙台の城下は、北西、中央、南東、北には「北山五山」、南には「御霊屋」などのお寺群を配していました。ですから寺社の木々がたくさんあったのです。「杜の都」の「杜」という字の意味には「寺社にある樹木」であると辞書で説明しています。ですから仙台の「杜の都」は「寺社の杜の都」ということになります。仙台は寺社だらけなのです。

 日本には、8万社以上の神社があるそうですが、「コンビニの数より多い」といったほうがわかりやすいでしょう。昔はお寺と神社がいっしょくただった(神仏習合思想)が、明治に入り天皇制になってから寺と神社は別物に分かれ、そして分霊という考え方にもよる増殖もあるのではないでしょうか。神道では、分霊しても本社の神霊と同じく神威は損なわれないため、無限に分けることができると考えられています。神社の数だけでも一番多い新潟県で4786、少ない沖縄県で13、宮城は949で全国35位。お寺も入れたらとんでもなく日本は寺社だらけ。

 

 仙台の城下には、六芒星を外れた北西部分と南東部分にすさまじい数のお寺が群をなしています。六芒星の真ん中には北西から南東に傾いてお寺や神社の集まりがありますが、これは本丸に対しての鬼門封じを目的としていることは歴史的に説明されています。しかし北西と南東の部分のお寺群は、星型を描かなければその配置すら気づくことはなかったのです。

 左上の赤い点々は北山近辺のお寺群、右下は連坊辺りのお寺群。もっと右下にある水色部の四角い場所は、陸上自衛隊霞の目駐屯地のある霞の目飛行場。ここが2箇所のお寺密集地のヒントになっています。実際自分で地図上に線と点を描いてみたら、おどろくほどみごとな一致を見せるこの方角に、なにか霊的なもの(当時の人たちの想い)を感じ鳥肌が立ちました。霞の目飛行場は1933年(昭和8)に、当時の日本陸軍が練習飛行場として建設したものです。当時は「仙台飛行場」として「赤とんぼ」と呼ばれた複葉機が離発着していました。プロペラ機は風を利用して離陸などを行うために、滑走路の向きは長年の風向測定によって決定されていたのです。滑走路の向きは北西から南東(赤線部分)、つまり夏には南東の風が吹き、冬には北西の風が吹くということです。同じ向きに寺社群があるということは、この「風」の方角から定められたものだと考えられるのです。

 城下とはもともと軍事要塞です。敵が攻める場合の一つの方法として「火責め」がありますが、火をつけるときには当然風上からです。そこに‘境内’という空間を持ったお寺があると、類焼を最低限に抑えることができます。ましてや、当時のお寺は「出城」(本城を守るための防御用)としての役割も担っていましたから、仙台の城下は「風」の攻撃にも備えていたことがわかります。

■陰陽道■

 昔々、「天」の存在は人々の生活の中にあり、様々な自然現象は「宇宙の意思」が起こすものとして当然に受け入れられていました。豊作を願っては天を仰いで祈り、病には呪文で邪気を祓いました。攻めてくる敵は実体のあるものと限らず、怨霊悪霊や魑魅魍魎(ちみもうりょう)など姿の見えない恐怖に鬼門を構えて防衛したのです。太陽や月を崇拝し宇宙を神とした時代、呪術や祈祷は人々にとって大きな位置をしめていました。除夜の鐘、節分の豆まき、雛流し、恵方巻きなどなど、現代でも‘呪術’は身近に存在しています。

 陰陽道は、古代中国の「陰陽・五行説」からきています。自然界に存在する全てのものごとは「陰」と「陽」で成り立ち、相対しながらも調和を維持し、どちらも単独では成り立たない。太陽と月、明と暗、男と女、夏と冬、表と裏、昼と夜、エトセトラ…

 五行とは、木火土金水(もくかどごんすい)という五種類の「気」の働きを表しています。

-すべての存在(万物)は「気」によって作られている-

 

「陰陽道」は1400年にわたって日本を支配してきました。しかし人はいつしか自然よりも偉くなり、かつては国家の官庁だった陰陽寮は廃止され、天から授かったはずの能力のごく一部しか使わずに生きるようになりました。そのかわり科学は進歩し、神の聖域だった天に飛び、ついには月に到達したのです。

この物語のキーワードは

「六芒星」

「グランドクロス(子午の呪術?)」

「四神(玄武・朱雀・白虎・青竜)」

 政宗公が仙台という街を作ってから400年もの間、六芒星はだれにも発見されませんでした。幕府に提出する城下絵図に偽りを記してまで隠し通す‘理由’があったからです。六芒星をなぞって作られた町だという証拠は、仙台の町割り自体が東西南北に正対しておらず‘傾いている’ことです。その角度はおよそ15度で、この傾きは六芒星を城の鬼門に合わせるためにできたものです。もし城下の町割りが六芒星となんら関係ないとすれば、この傾きが生じる必要はなかったはずなのです。

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 城下の3次元的絵図

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 六芒星を結ぶラインは、ある高さをもって結ばれています。現在の海抜で高さを調べると、城下の家々の頭上を通過していることがわかります。当時はそのラインを妨害しないように、建物の高さを四間半以内にするように藩令で定められていました。四間半というのは城下の地面からの高さで、どこかを基準としたかどうかは資料には無いので不明ですが、建物を建てるときにはその高さより高いものを建ててはならない、ということです。風水も「陰陽」「五行説」からきている学問です。一口に風水といっても、「地理風水」「隠宅風水」「陽宅風水」などに分類されるようですがこの場合、政治家が都などを建設するときに使う「地理風水」があてはまると思われます。

 陰陽師親方曰く「各点を結んだこの線上は、強烈な‘気’の通り道で、この気の流れをさえぎってはいけない」とされ、3階以上の建物ですと、ひっかかる可能性があるらしいのです。しかし、秘密事項であるライン上に高い建物を建てるなという法令の矛盾点について、六芒星のラインは見通しラインでもあるので、当時の資料においては各高台から見通すときの邪魔にならないように、という意味合いの高さ制限だと思われます。親方の発見後、「気の通り道を遮るな」という結果にも繋がりました。

 ところが現代では、そんなこと知ったこっちゃないわけで、にょきにょきと高いビルが建ち続け、100万人を突破する大都市と化しました。

呪術は今も 生きているのでしょうか。

■愛子(あやし)の鬼子母神■

 仙台市街地から西道路(R48)へ、車で約30分ほど走ると愛子(あやし)地区があります。JR仙山線では仙台駅から8つめの駅。駅前表示板の記述によると

『愛子の由来』

 愛子(あやし)というこの地名の由来につき『安永風土記書出』には「当時横町と申す所に相立ち申し候子愛観音之有り候を以つて当村の名に申し来り候由御座候」とある。

 愛子の地名はこの「子愛観音」から起こったといわれているが、今も下愛子横町旧捕陀寺境内に子愛観音堂があって、子安観音(子安地蔵)が祀られている。

(中略)

 この子愛(こあやし)観音様の名勝から「あやし」の語を「愛子」の文字に入れ替えて「あやし」と読むようになったものと見られている。

愛子駅のひとつ手前の「陸前落合駅」の南側は落合・栗生地区で、閑静な住宅街の中にポツネンと建ってる小さなお堂があります。

  20cmほどの木像は右手に幼児、左手にざくろの実を持っており聖母マリア像を思わせる。

 この地区では8/15に、「盗人神(ぬすっとがみ)」また「唖神(おっつがみ)-おし」という祭が行われています。祭りの間中、絶対に口をきいてはならぬ、途中人に見つかってはならぬ、音をたててはならぬという、まるで自分たちの存在をかき消すかのような信仰なのです。そしてこの奇祭の行われる8/15はマリア様が昇天した日とされます。

 また愛子には「愛子百軒、ドス(らい病)九十九軒、残る1軒駐在所」という古い諺がありますが、当時の城下の生活用水は広瀬川の水だったことから、広瀬川の上流に接するこの場所に伝染病患者を集めて住まわせるとは考えにくい。愛子の南は秋保(あきゅう)、西は定義(じょうぎ)で、このあたりは平家の落人が隠れ住んだ伝説が残っています。青葉山の裏手にあるこの一帯は、人が隠れるのには絶好の地理であったのかもしれません。

 

 落合駅から南へまっすぐ突き当りには栗生(くりう)屋敷跡があり、茂庭綱元が住んでいました。政宗公の死後、綱元が立ち退き、入れ替わりに五郎八姫(いろはひめ)が仙台城から移り住みました。五郎八姫は政宗公と愛姫の待望の第一子で、政略結婚により13歳で家康の六男忠輝に嫁いでいます。そして23歳で離縁され仙台に戻ってきました。

 五郎八姫は、吉利支丹でした。姫が住んだ栗生屋敷(西館)の真北に、このお堂は建っています。仙台藩はキリシタンに対しては寛容、というよりむしろ擁護していました。姫を忠輝に嫁がせた政宗公の策略が感じられるさまざまな展開が、今後明らかになっていきます。

 幕府がキリシタンを弾圧しなければならなかった理由…幕府にとってそれだけ力のある恐るべし存在だったから。当時30万人いたとされる隠れキリシタンを、もしも味方にすることができたなら…バクフなんか目じゃないよ…と政宗公が密かに目論んでいたかもしれない、愛子は「隠れ吉利支丹の里」だった可能性が非常に高いといわれているのです。「島原の乱」は、政宗公没後翌年のことでした。そして、六芒星のド真ん中を貫いてグランドクロス(大十字架)が描かれることも、陰陽師親方はとっくの昔に発見していたのです。

■五郎八姫(いろはひめ)■

 愛姫が秀吉の人質にとられ京都生活を送っていたため、五郎八姫は京都で生まれました。姫なのに「五郎八」という男性的漢字の名前は不思議なかんじがします。結婚15年目の待望の嫡子に、後継者の男児を熱望していた政宗が、用意していた男子名をそのままつけちゃった、または、第一子が女子だった場合、次に男子が生まれるよう長女に男子名をつけるという願かけ的慣習があった、などの説があるようですが、本当のところはわかりません。

 五郎八姫は若くしてバツイチになり仙台に戻ってから、68歳で死去するまで独身を貫きました。京都時代、愛姫の友人に細川ガラシャ(キリシタン名、本名「玉」)がおりました。ガラシャは明智光秀(あけちみつひで)の三女で、細川忠興(ほそかわただおき)の妻でした。彼女の影響を受けて愛姫もキリシタンであったと思われ、五郎八が生まれるとすぐに洗礼を受けさせたと推測できます。後に徳川家康の六男忠輝に嫁ぎ、結婚後忠輝もキリシタン信仰を受け入れてゆきます。

 1606年(慶長11)の6月、忠輝との結婚を半年後に控えた五郎八姫は、‘初めての里帰り’という名目で仙台の地を踏みました。秀吉が生きていた時は、母娘は人質として京都にいましたが、家康が天下を取ると江戸へと移っていました。だから五郎八姫にとって仙台は故郷であっても知らない土地でした。仙台では、お姫様の初里帰りと言うことで城内は大騒ぎとなります。政宗公は家臣に命じて7月の盂蘭盆(うらぼん)の間中、町屋を含めた屋敷に灯篭を掛けさせるようにしたのです。今ですと、都会のネオン煌く夜景といったところでしょう。「夜は暗い」が当たり前の時代に、城下を灯篭の明かりで満たしたのですから、さぞかし綺麗だったことでしょう。その光景を見せるため、政宗公は娘を‘懸け造り’へと案内しました。

「さあ姫、ここから城下が一望できるゆえ来てみるがよい」

五郎八は父に促されながら望楼邸の先へと進み出た。夜の城下を見下ろした姫は声にならない声を発してため息をついた。

「…なんて美しい明かりでしょう…まるで夜空の星が地上に降りてきたよう…」

政宗は喜ぶ娘を細目で見ながら微笑むと、

「姫、よく明かりを見てみなさい。何か気づかぬかな」

何か、と言われてよくよく見直してみると「えっ」と小さく声をあげ「もしかして…」と言いながら父を振り返った。政宗は笑みを崩さずに小さく頷いた。

「いろはに喜んでもらいとうてのぅ」

姫は城下の明かりをもう一度しみじみ見つめ、静かに胸に十字を切ったのでした。

城下は札の辻を中心に町屋が十字に並び、灯篭の明かりはその十字沿いの道に密集します。仙台城本丸の御懸け造りから眺めると、そこには見事な光の十字架が浮かび上がったのです。政宗公がキリシタンの娘に贈った最高のプレゼント、元祖光のページェントとでもいいましょうか…この政宗公の粋なはからいは、政略結婚という犠牲を背負わせた父から娘への、複雑なる心情と純粋なる愛情の形であったのでしょうか。

 五郎八と忠輝は仲の良い夫婦でしたが、子供はいませんでした。1620年(元和2)、忠輝の改易により五郎八姫は離縁され江戸の仙台屋敷に戻ったあと2年後に仙台に来ます。そして大手門北側に屋敷を構えて住みました。城下の西にその屋敷があったので五郎八姫は「西館殿(にしだてどの)」と呼ばれるようになりました。愛子栗生(あやしくりう)の西館は、西館殿と呼ばれた姫がお城から移り住んだので、そこも同じく西館と呼ばれるようになりました。

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著作権あり

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■グランドクロス■

 六芒星発見のあと、親方の執念的研究の果てに発見されたのがグランドクロスですが、これはただたんに地図上に線を引いただけではありません。国土地理院東北地方測量部測量課に調べてもらった結果、緯度経度がほぼ一致、六芒星の中心をみごとにぶち抜いていました。

 西側の栗生西館は、政宗公没後キリシタン五郎八姫が住んだ屋敷(それ以前は綱元所有)、そのまた西にある諏訪神社は、もともと国分氏の一の宮(この地域で一番社格の高い神社守り神)として建てられていたが、綱元が政宗に願い出て再建しています。この線を今度は東に伸ばしていくと、榴ヶ岡の北に当たる原町(はらのまち)の陽雲寺に至ります。ここは、国分氏最後の代となった国分盛氏が、戦死した嫡子盛兼を弔うために建てた寺です。

 仙台城の場所には、元は国分氏の千代城があったし、その鬼門には天神社が祭られていたというようにこの街にはすでに国分氏が築いていた呪術的土台があったと思われます。

 北の栗駒町文字村にある洞泉院は、綱元が移り住み隠れキリシタンをかくまっていたという言い伝えがあります。ここには綱元と奥方の位牌が祭られていますが、奥方のほうの上部には丸に十文字の紋が浮き彫りになっていて、その横で綱元の位牌はちょうどその部分が欠け落ちているが、同じものがあった形跡が見て取れるのです。

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星の街P27 洞泉院の綱元位牌の写真

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洞泉院にある人形たちは隠れキリシタンを思わせます。ということは綱元さんもキリシタンだった可能性が濃いのです。六芒星の中心を貫くこの十文字が、キリシタンの十字架なのか、子午(死と再生)の呪術なのか定かではありませんが、これがもし偶然の一致であるならば、仙台は‘神が創りたもうた街’’、人の手で計画的に作られたとすれば、おどろくほど高度な知識と技術で築かれた街であることは間違いありません。そしてその要所要所に、茂庭綱元が深く関わっているということは、綱元さんは仙台城下建設の「総監督」であった可能性が非常に高いのです。

■茂庭石見綱元(もにわいわみつなもと)■

 茂庭家12代当主、天文18年(1549)1月11日の酉の刻、奥州伊達郡鬼庭村赤館に生まれました。幼名を左衛門(さえもん)、後に石見綱元と改名。

 綱元が生まれた1549年は、8月15日 にフランシスコ・ザビエルらの一行が鹿児島に上陸、キリスト教日本伝来の年。それから綱元さんの生まれ変わりという親方の生年は1954年。五郎八姫の生まれた年は1594年…3者同じ数字が並ぶ、意味のある偶然の一致なのか。

 

 茂庭家は代々伊達家に仕える世臣で、弁舌、交渉に長け軍略にも優れた軍師の家系でした。父良直は武田信玄のもとへ武者修行にも行っています。世継ぎとなる男子が欲しくて側室を持ち、白鳥明神に願をかけて、酉年の酉の刻に綱元は生まれました。そのため白鳥明神の化身といわれ、戦での雄姿には頭上に白鳥が舞っていたと伝えられています。人取橋の戦で、父良直は窪田十郎に額を割られて息絶えました。後に、窪田十郎が政宗に投降した際「父の敵を討て」と綱元に引き渡したところ綱元は

「戦場での殺し合いは皆主君のため、個人的な恨みではありませぬ。まして降人を討つのは武士の本分には非ず。この者まだお役にたちましょうゆえ、召しかかえてお使いになられたらいかがでしょう」と答えました。感心した政宗は窪田を綱元の配下にしました。

 

政宗の五男宗綱(二代藩主となった忠宗の弟)を綱元は大そう可愛がり、立派な武将に育てることを夢見ていました。しかし宗綱は16歳でこの世を去り、悲しみのあまり綱元は政宗の引きとめにも拘らず高野山に入道、僧侶として3年を過ごしたのです。

 政宗公の死後、洞泉院を建て政宗と宗綱の位牌を祭って菩提を弔いました。そして自分の墓石となる石像を自ら彫り、寛永17年(1640)92歳で亡くなりました。命日は、奇しくも政宗と同じ5月24日。綱元の墓石像は、両手を合わせ南を向いています。

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星の街P24写真

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石像の後ろには、殉死の禁を破り綱元の後を追った土屋孫右衛門の墓が、横には綱元の墓守をした遊佐道海の墓があります。不思議なことにこの道海の命日も5月24日なのです。

 

 仙台では毎年5月に「青葉祭り」という盛大な芸能祭りが2日間にわたり行われます。政宗公を祀った青葉神社の礼祭で、命日の5/24に多くの山鉾が市中を練り歩き、仙台三大まつりのひとつとして市民に定着しました。5/24は、政宗公、綱元、道海、3人の命日ということになります。

 歴史の記録によれば、茂庭家は熱心な仏教徒でした。仙台藩でキリシタン弾圧の指揮をとらせるのに適したのは茂庭家。茂庭家の人間ならば、幕府に対して信用させることができたのではないでしょうか。仙台城下を流れる広瀬川にかかる大橋は、仙台城大手門と城下町を結ぶために架けられました。その下で、カルワリオ神父ら9人は、極寒の中水責めにより処刑されました。キリシタンへの拷問は苛烈を極めた、それだけのことをやらなければ、幕府の徹底したキリシタン追及からのがれることはできなかったのかもしれません。

?少数のキリシタンを殺害することで多数のキリシタンを守ることができれば 死んでゆく人たちは殉教者なのです?

『樅の木は残った』の原田甲斐の寛文事件にも、茂庭家が深くかかわっています。綱元は、伊達家の存亡にかかわる重要な時に、かならず身を犠牲にして守り抜いているのです。

 伊達家には「黒はばき組」という忍者部隊がありました。商人や山伏に変装した黒はばき組は諸国へ送り込まれ、情報収集や暗殺などの密命を遂行し、政宗の「影の部隊」として活躍しました。人取橋で綱元の父を殺した窪田十郎が後に綱元の家来になるのですが、窪田の息子が「給料が安くて生活できない」と不満を漏らし、ついには藩を逃げ出してしまいました。はじめ南部藩のほうに逃げたようですが、岩城のほうで見つかり、綱元の命令で黒はばきが動いて刺殺されました。

 城下建設の際には「小人事件」というのがありました(末端の階級の者を「こびと」といった)。建設途中の大手門の近くに綱元の屋敷があったのですが、そこで作業をしていた小人と監視の役人とがケンカになり、まわりの小人たち全員が加わってきました。その騒ぎを聞きつけて屋敷から出てきた綱元が、「小人たちを切り殺せ」と命令しました。城下からは鉄砲を持って小人たちを攻撃する者も現れ、小人たちは愛宕神社の崖下にあった覚範寺に逃げ込みましたが、綱元や他の侍たちに取り囲まれてしまいます。窮地に追い込まれた小人たちは寺に火をつけ、全員死にました。覚範寺は政宗公の父輝宗公の菩提寺でしたから、それを焼いてしまった責任を綱元はとらなければなりません。その時政宗公は京都にいたため、綱元は切腹を覚悟でその報告のために京へと向かいました。

「おお、つなもと何かあったか」

「はい、例の件は片付きましたが、覚範寺を焼いてしまいました…ここで責任を取らせていただきとうございます」

綱元は腰の脇差を抜くと腹に突き刺そうとしました。

「まて」と政宗公が言うのと同時に、側近の武士が刀を取り上げました。

「まあまて、つなもと。もともと、あの寺は北山に移す計画なのだから、それが早まっただけよ。それよりも、城の秘密を知る者どもを、見事に消し去ったおぬしの手腕はみごとであった。戻って引き続き城を建てよ。おれは楽しみにしているからな」

ということで、綱元は腹を切らずにすんだのです。

 「小人事件」は、城の抜け穴などを造る作業に当たった者たちを口封じのために抹殺する‘芝居’でした。けんかのきっかけも、それに加わるようにけしかけたのも、密かに紛れ込んでいた黒はばきの者の仕業だったのでしょう。‘綱元のシナリオ’どおりに解決したのです。

 綱元は3年間高野山(真言宗本山)に入り、戻ってからは茂庭了庵という号を名乗った。茂庭父子は熱心な仏教徒であり、常に反切支丹の中心であった。息子の周防守良綱は、キリシタンに憎悪すら抱いており広瀬河原でのみせしめ処刑の指揮をとり、切支丹禁圧へと向かわせた、という文献資料からすると、綱元さんのキリシタン疑惑がまた謎を深めるのでした。

■隠れキリシタン■

 ?江戸幕府(征夷大将軍徳川家光)によるキリシタン禁止令の後、強制改宗により仏教を信仰していると見せかけキリスト教を偽装棄教したキリスト教信者。 1873年(明治6)に禁教令が解かれるまで、潜伏し秘教形態を守った信仰者たち?

 徳川家光の代になるまでは、東北地方での布教活動は比較的平穏でした。やがて強大になっていく幕府の権力に、独立的だった東北地方の諸大名も強制的に従わざるをえなくなっていきます。キリシタン迫害の嵐が迫りくると、政宗の徳川に対する対立的立場をさらに悪化させていくことになります。

 1613年(慶長18)9月、政宗の遣欧使節は、石巻の月の浦を出航しました(支倉常長が黒船-サン・ファン・バウチスタ号でローマへ)。

 幕府の命により「イスパニアと貿易がしたい」、それと政宗公の「キリスト教を広めたいので宣教師を派遣して欲しい」というローマ法皇への親書を渡すことを目的としました。そのわずか3ヵ月後、幕府はキリスト教を禁じ宣教師を追放したのです。政宗が禁教令を事前に知らなかったはずがない。にも拘わらずの「キリスト教広めたい」で莫大な費用と人材を投資しての使節団だったのです。

  

 常長が7年という命がけの航海を終えて、仙台に帰ってきたのは1620年(元和6)。仙台藩でも常長の帰国直前に、キリシタン禁令が出されていました。ローマで洗礼を受けすでにキリシタンとなっていた常長は、ローマから日本へ戻る際にキリシタンの弾圧が激しくなってきていることを知り、一度ルソン(フィリピン)まで来て2年間の時間調整をしています。同時期、綱元は出家という形で高野山に入り、常長が長崎に着くタイミングにあわせるように山を下りています。

  

 常長が渡航する13年前(1600年9月)、関が原の合戦が起きましたが、直前の8/12に、支倉常長の父は土地争いで裁かれ斬首されています。その時立ち会っていた伊達家の奉行は茂庭綱元でした。このような場合、御家取り潰しになりその息子も切腹となるはずが、常長は支倉家の養子であったことを理由に、奥さんと二人で蟄居(ちっきょ-謹慎)させられただけで済みました。これは寛大な取り計らいだと思われます。常長の歴史を調べてみると‘ローマに渡った’ことしか書かれていませんし、なぜ下級武士だった常長が使節に選ばれ、誰が選んだのかなど関連史料が見つかりません。常長の偉業が発覚したのもだいぶあとになってからです。推測ですが、綱元が常長を選び、御家再興を条件にしてローマへと向かわせたものと思われます。ローマへ船で行くことは命がけです。よほどの目的意識と使命感がなければ、達成させるのは難しいことです。常長は大崎君と葛西君を政宗様が攻めたときに、手柄を立てています。武士としてはなかなかの剛の者だったのでしょう。常長の人物像を把握していた綱元が、政宗公に推薦したのは間違いがないと思われます。

 仙台に現存する常長が持ち帰ったキリシタン関連の品々は、明治になってから発見されていますが、それまで密かに隠されていたのです。キリシタンである常長が長崎に着いて、今後の身の振り方を決めるには、かなり上の役職の人間の指示を仰がねばなりません。そのために、仙台または江戸屋敷から奉行クラスの人物が長崎まで向かうことになります。となれば、直ぐにその動向は幕府に察知されてしまいます。綱元はすでに高野山にいます。そこへ密使が連絡を取れば良いし、長崎へは大阪のなんばから船で行くこともできます。常長が長崎から仙台に入った道筋が書かれたものはまだ見つけていませんが、たぶん船だと思います。綱元は高野山を降りて、長崎に向かったと思われます。そして常長に現況を知らせ、適格な行動を示唆したと考えられます。

 

 ローマから持ち帰った品々はかなりの量があったものと思われますが、(明治に見つかったのはその一部?)長崎であればキリシタンも多くいるでしょうから、持っていけない品物は置いていったことでしょう。それに仙台藩の密偵なども多く住んでいたことでしょうし、島原も近いし。

 綱元が潜んでいた高野山のとなりには九度山があります。真田幸村公が、家康によって幽閉されていた場所です。この九度山で生まれた子供たちが、小十郎が白石城で預かった4人です。このあたりにはすでに協力者がいたわけです。

 サン・ファン・バウチスタ号出帆前、政宗公が視察に行った帰りに、綱元の屋敷に立ち寄っていることは記録にあります。ちなみに、黒船製造場所が石巻の月の浦となっていますが、別の場所であったという研究書もあります。結局のところ、通商の交渉は成立せずその後鎖国となったため、この使節団の真の目的がなんだったのか…日本の造船技術、航海術を試すための幕府との共謀説、または政宗公のキリシタンを利用した倒幕説など諸説様々あるようですが、本当のところはよくわかっていないのです。常長が記録した訪欧中の日記も、1812年まで現存していたそうですが、現在は行方不明(?)。

 支倉常長は、まるで歴史から抹消されたように、その末路もナゾとされています。息子はキリシタンがらみで処刑され、支倉家は断絶した。常長の墓が宮城県内に3箇所存在しています。

・帰国の翌年、失意のうちに病死した。--仙台 光明寺 

・愛宕山にかくまわれ84歳まで生きた。--大郷町 西光寺

・幼少期を過ごした地に隠れ住んだ。--川崎町支倉 円福寺

支倉常長さん、世が世なら、あなたは世界的な冒険家として成功をおさめ、英雄になっていたことでしょう。

■禁教■

 五郎八姫と遣欧使節の支倉常長が仙台に戻ってきたのは、同年の1620年(元和6)です。その3年後の元和9年、大晦日から翌年正月元旦にかけて、仙台の大橋のたもとではキリシタンの処刑が行われました。

・大村ノ賀兵衛(伊藤次郎衛門百姓)

・掃部(かもん)

・金七

・三九郎

・三迫ノあん斎(以上四名は和田主水百姓)

の五名は火あぶりの刑。

・高橋佐々衛門

・野口二右衛門

・若杉太郎衛門

・安間孫兵衛

・小山正太夫

・佐藤今衛門

・長崎五郎衛門(デイゴ・デ・カルワリヨ神父)

・次兵衛

・次右衛門

の9名は、極寒の凍てつく広瀬川へ篭に入れられ、水責めにされて亡くなりました。信仰の自由と命までも、国家によって奪われた信徒たち…これらの記録からは一見して、有無を言わさず死刑にされたように思われますが、石母田(いしもた)という仙台藩の奉行が書いた文書には、「ころび(転宗)をすれば命は助けると言ったのだが、頑なに拒否したためやむを得ず死罪にした」事が書いてあります。それは、他のキリシタンたちの見せしめとして行われ、これ以上の藩内での死者を出したくないという思いがあったようです。

 長崎五郎衛門=カルワリヨ神父は後藤寿庵(ごとうじゅあん)のところへ身を隠していたのですが、寿庵に危害が及ぶ事を心配して山奥の隠れ家に立ち退いたのです。しかし、雪道に足跡が残り役人にその場所が知られてしまいました。後藤寿庵はもともと仙台藩の後藤信家の長男でしたが、長崎に行った時にヤソ教徒となったため勘当の身となっていました。

 支倉常長は渡海するに当たり、勉学のため渡海経験をもつ田中勝介を尋ねて京都へ行きました。その時に、田中より海外に詳しい後藤寿庵を紹介されました。常長は寿庵をつれて仙台へ戻ると政宗公に紹介し、寿庵1200石を与えられました。常長は当時600石でしたから、その待遇の良さがわかります。1611年(慶長16)の事でした。

 

 日本でキリシタン信仰がそれほどまでに広がった理由は、宣教師たちは信仰以外にも土木技術や鉱山の採掘技術など、日本よりすぐれた技術も持っていたからでした。東北に初めてキリシタン信仰が入ってきたのも、外国から鉱山技術者を呼んだためでした。石巻の日和山を居城としていた葛西晴信は、鉄精錬の技術を高めるために備中国(岡山県)から布留大八郎、小八郎兄弟を招きました。1559年(永禄2)のことです。それによって、以前より十倍する良質な鉄が生産されるようになり、民の生活が楽になり感謝されました。布留兄弟がキリシタンであったことから、町が繁栄したご利益の象徴として民は競い合って入信し、その数三万人を数えたとあります。そのために寺が三つつぶれ、憤死した和尚もいたという事です。後藤寿庵も堰を造り「砂漠の如し」と言われていた地域を潤したため、その恩恵をうけた百姓たちは寿庵を慕い、キリシタンとなっていったのでした。

 仙台大橋の水責め拷問で亡くなったカルワリヨ神父は、江戸で幕府に密告したものがいたため、囚われたのでした。1623年(元和9)の12月7日、政宗公が将軍家光と面会中、神父を取り押さえるよう指示があったため、政宗公は翌日仙台に使者を出しました。

その手紙には

「昨日七日朝にお茶のために二の丸へ行けたことは幸せな事でした。その時上様(家光)が直接お話になったことは、江戸中にさえ吉利支丹が沢山いるのだから、奥州にもいるであろう。とおっしゃられ、そういう話を聞けば、なるほどと思うところもある。そこで御定めでもあるので伊藤弥兵衛を差し遣わすが、細かな事は伊藤が説明する。」

という内容でした。「なるほどそうですかぁ、もしかすると奥州にもキリシタンなるものがいるってことでしょうかねぇ…」と言っているような、すっとぼけた内容の手紙です。しかし、‘御定め’とあるように「上からの命令だぞ」と釘を刺しています。このとき幕府から名指しされたのが、カルワリヨ神父と後藤寿庵でした。

 仙台藩では後藤寿庵のいる福原邑(水沢辺)の屋敷に追っ手をやったのですが、屋敷を囲んでただわいわい騒ぐだけで、何も手出しはしませんでした。それは政宗公の命令だったからです。あまりにうるさいので後藤寿庵は屋敷を出て南部領へと立ち去ったのでした。追っ手の者たちは寿庵が去ってゆくのを見送るだけで、戻ってからの報告では「秋田のほうへ逃げた」としています。命令によりとりあえずは、捕らえるそぶりを見せていたようです。だから大橋の水責めがいかに苦渋の策であったかが伺えます。本人たちがうそでも転宗しますと言えば、命は助けられたのです。

 後藤寿庵を取り押さえに行く前に、キリシタン取締りについて奉行たちの打ち合わせ会議がありました。茂庭綱元はその席上で、「後藤寿庵ごときを捕らえずしてはキリシタン宗門取締りはでき申さぬ。この上とも殿から寿庵をかばうようなことをなさるまい」と断乎逮捕を厳命したと、「仙台キリシタン史」で取り上げていますが、実際はやいのやいの騒いだだけで終わっています。「小人事件」のときもそうですが綱元さんて、けっこうクサイ芝居が多い人です。おとぼけ政宗公と大根役者の綱さんコンビは、案外敵を欺いてきたかもしれません。

 政宗公の手紙にあるように「キリシタン」を「吉利支丹」と書いていますが、一般的には「切支丹」です。現代でさえ年賀状に「去年はお世話になりました」はNGで、「昨年」と書かなければなりません。「去」は「去る」という忌む言葉だからです。当時であればなおさら文字の表す意味は大きいものです。「吉利」は寿ぎの文字で、「切」は忌む文字です。伊達家には「伊達治家記録(だてちけきろく)」というものが残されていて、仙台の四代藩主綱村公の時から編纂されました。その時のキリシタンも「吉利支丹」の文字を当てています。伊達家にとってキリシタンは忌む存在ではなかったという証拠です。藩内各地でキリシタン弾圧が起きた事が記録に残っていますが、明治6年禁教取締高札が撤去されたあと、明治16年5月3日、日本最初のキリスト教団「日本天主公教会」が認可されました。その時の大司教は、仙台愛子(あやし)出身の土井辰雄という人でした。隠れキリシタンとして長く続けていなければ大司教になどなれないでしょう。鎖国のあとも幕府によって草の根を分けて掃討されたはずの隠れキリシタンたち。これらのことから、いかに仙台藩がキリシタンを擁護してきたかが伺えるのです。そして愛子は、かつてキリスト教の聖都であったかもしれません。

■支倉常長■

  1616年はいろんなことが起こった年です。4月17日に徳川家康が亡くなりました。7月6日には、五郎八姫の夫である越後高田の松平忠輝が改易(刑罰として身分を取り上げる)となり、武蔵の深谷を経て伊勢の朝熊(あさま)に流されました。そのため五郎八姫は離縁され、江戸の仙台屋敷へと戻されます(仙台へ帰ったのは4年後の1620年9月)。

8月20日、政宗公の命によりキリシタン武士の横沢将監(よこざわしょうげん)が、常長を迎えに堺港から旅立ちました(常長が仙台に戻ったのは4年後1620年8/25)。この時点で政宗公は、スペインの軍事力を借りた倒幕計画をあきらめたのでした。常長のローマ派遣のビジョンは、『ローマ法王のお墨付きを持ってスペインの軍事力を動かす』というものでしたが、ことが進まず時間だけが過ぎてゆきました。日本国内でのキリシタンに対する状況も変わり、そのことがローマにも手紙で報告されている事がわかってきたため、これ以上支倉常長を現地においておくのはまずいと判断したのです。

 常長は、ルソンに2年間待機させられてから、長崎までたどり着いています。このころには堺港からメキシコのアカプルコまでの航路が確立されていて、帰りはアカプルコからルソン経由で長崎、という流れになっていたようです。

 1618年(元和4)、茂庭綱元が後見役とした岩ヶ崎城主の宗綱公(政宗の五男)が5月28日に亡くなります。6月、綱元は宗綱の弔いに高野山へ行く事を政宗公に願い出ます。別れに際して政宗公が歌を詠みました。

行くとても 茂る木陰の すずしくは

夏き逃げらし 立帰りこん

ゆくもぬれ 残るもしぼる 袖の上に

とどめもやらぬ 夕月のかげ

 綱元は入道して「了庵高吽(りょうあんこううん)」と名乗りました。そして、1620年(元和6)5月28日、宗綱公三回忌の法事が終わってから帰仙したのですが、途中で江戸の仙台屋敷へ寄って政宗公に報告しています。たまたまでしょうか、綱元が高野山へ向かった年には支倉常長はルソンに着いています。そして、綱元が高野山から降りた年に常長は長崎に着いて、8月に仙台に戻っています。客観的に年代を振り返ってみると不思議な符合が見られます。宗綱公が亡くなったのは偶然としても、高野山まで行かなくても弔いはできるわけですから、その時(元和6)72歳だった綱元が、わざわざ山にこもる必要性があったでしょうか…。

1612年 4月 幕府による禁教令

1613年 6月 金山奉行大久保長安死亡

      9月 支倉常長遣欧使節出帆

1616年 4月 徳川家康死亡

      7月 松平忠輝改易、五郎八離縁

1618年 5月 政宗の五男死亡

      6月 綱元高野山へ入道

      8月 横澤将監が支倉常長を迎えに出帆、年内中に常長ルソンに到着

1620年 5月以降綱元高野山を下山し帰仙 

      8月 常長帰仙

      9月 五郎八姫帰仙

1623年 大晦日 仙台のキリシタン殉教

 「サン・ファン・バウチスタ」という名前は、月の浦から最初に出帆したときには付けられてはいなかったと思われます。記録にも「黒船」としか載っていませんし、幕府の役人も乗船しているというのに、洗礼者-聖ヨハネのことであるその名をつけるのはおかしな事です。なぜならば、黒船が出帆した1613年(慶長18)9月15日の前年の3月に、駿府内で切支丹禁止令発令、また江戸でも切支丹禁止と切支丹狩りが始まっていました。支倉常長は、渡航先で洗礼を受けています。帰国したのは7年後です。

参考:『図説伊達政宗』河出書房新社刊P102より引用

須藤光興氏は、以前に宮城県土木部下水道課長であった時に、「黒船の造船場所は石巻の月の浦ではない」と測量技師の立場から考察していましたが、後に宝文堂書店から『検証・伊達の黒舟』という本を出しています。それによると、建造場所は雄勝湾奥部であろうと説明しています。このことを深く信用するのは、説明している内容もさることながら、地図を見ると、

黒船を造った雄勝の場所とその北側の長面浦(ながつらうら)など一帯が、実は片倉家の飛び地だったのです。

以前、陰陽師親方が青葉神社の片倉宮司と一緒に十三浜の方まで出かけたとき、この辺一帯が白石とともに片倉家の所有する土地で、いわば‘飛び地’なんだ、という話を聞いていました。長面浦では仙台城の塩倉に納める塩を造っており、その塩を運んでお城に行くと大手門をフリーパスだったそうです。つまり、黒船を建造する場合の機密を守れる場所であり、地理的条件に加えて重臣が所有する土地であるという事からも納得がいくのです。長旅用の塩も調達できたという事でもあります。

 支倉常長は、帰国してからの足取りがまったくわからないのです。いつどこでどうして死んだのかも。航海日記も途中で行方不明になり、持ち帰った財宝は明治になってから数十点発見されたのみ。それよりフィリピンで2年間何やってたんでしょうね。高野山の綱元さんがなにか指示していたとしたら、‘スペインの軍事力を借りた倒幕計画はあきらめた’かもしれないけれど、倒幕そのものをあきらめるような政宗さんじゃないでしょうから、帰国前に黙々と任務を遂行していたかもしれません。政宗公が亡くなった翌年に「島原の乱」が起きたことも気になります。

■大久保長安事件■

 五郎八姫も夫の忠輝もキリシタンでした。忠輝が改易になったのには、一応大儀があります。それは、

・忠輝が家臣の旗本を殺害しても謝罪しなかった事。

・大阪の陣での遅参と怠慢な戦。

ですが、その前に『大久保長安事件』というのがありました。長安は忠輝の財政上の後見役を勤めた人物ですが、徳川家の金山奉行でもあったのです。さらに全国各地の金山・銀山の鉱山奉行も務めていました。その際、金銀の取り分は家康の命令で幕府側が四分、長安の取り分が六分でした。しかし、鉱山開発における諸経費などは全て長安持ちとされていたのです。いかにして自分の取り分を多くするか。長安は経費節減の手段として、イスパニアの新たな鉱山開発方法(アマルガム法)を導入しました。正式なキリシタンではなかったようですが、鉱山発掘技術を持つキリシタンには寛容で当然親交もあったでしょう。

 1613年(慶長18)に長安が死んだ時、「南蛮と結託して忠輝を先頭に天下を取る」旨の文書が見つかったというのです。忠輝は政宗公の娘婿かつキリシタンですし、長安の資金(百万両はあったとされる)をもとに、当時30万人いたとされるキリシタンを総動員して立ち上がれば、幕府転覆をはかることができたのです。死後この文書が見つかると7人の子供たちは死罪になりました。これが『大久保長安事件』です。

 一説には、天下人にふさわしいのは家康より政宗のほうだと考え、長安は政宗の倒幕計画に賛同していたと言われています。この事件を機に、幕府のキリシタンに対する弾圧が開始されることとなるのです。幕府にとってキリシタンがいかに脅威であったか。250年にもわたって続いた厳しい監視のもとで行われた禁教と迫害は、想像を絶するすさまじさがありました。幕府は独裁政権を守るために貿易をあきらめ、非人道的な制度で徹底的に執拗に、キリシタンを根絶させようとしました。

 長安の死後、忠輝には直接の仕置きはありませんでした。というのも1616年に家康が死んでしまってから、(家康ほどの力はなかった)将軍秀忠は、一番の不安分子である忠輝を改易して無力化したのです。このときなぜ、もっと怪しい政宗公を消してしまわなかったかというと、したたかで豪胆な政宗のこと、いざとなればどのような攻撃を仕掛けてくるかわからぬほど、恐ろしい存在だったからです。だから周りから取り崩しを行っていったのです。

 幕府に城下絵図を提出することになったとき、うそを描かねばならなかったということは、呪術を見破られないようにするためです。もしも絵図に間違いがあったことを幕府から指摘されたら、絵図を作った人とその責任者が制裁を受けることになります。現代であればお叱りか減給もので済みますが、当時は切腹です。何かを隠すために仙台藩ぐるみで仕上げたとなれば、仙台藩のお取りつぶしは間違いありません。それだけの覚悟があって、事実とは異なる絵図を提出したのです。「武力で対戦しよう、戦争をするぞ」くらいの覚悟の絵図なのです。

 

 家康の分霊を祭るのは「徳川幕府に忠誠を誓っていますよ」というパフォーマンスです。「将軍様は神様です。私たちを守ってください」という願いを見せて分霊したのです。

明治の始まる時代まで、天皇という存在を知っていた庶民は極わずかだったと思います。農民にとっては庄屋様が‘村一番の偉い人’で、時々見回ってくるお代官様は‘怖い役人様’でした。そしてお殿様と崇めていたのは、その領地の城主でした。その城主を束ねる徳川幕府の役人ですら雲上人で、将軍様にいたっては一般的な生活では霞的に考えることもはばかる存在です。だから、庄屋様クラスで「将軍様はすごい存在だ」と認識していた程度でしょう。

 分霊を許されるというのは、伊達家が将軍様と対等くらいの存在だと認められていたからできたことなのです。伊達政宗は徳川方が一目を置く存在だったということです。家康公が亡くなったとき、次の将軍であった息子の秀忠は‘伊達家が反乱を起こす‘というデマに惑わされて、出陣の準備をしました。それを政宗公は、笑って否定して収まったのです。徳川幕府は、伊達家が攻めてくるのではないだろうかと常に疑心暗鬼にかかっていました。それが少し和らいだのは、三代将軍の家光の存在でした。

 家光は子供のころから政宗公に可愛がられ「仙台のジィ」と呼んでなついていました。あるとき、「徳川幕府に刃向かうものがあったらどうする」という話の中で、政宗公が「わしが、先陣を切ってお守りもうそう」といって家光を安心させた、というエピソードが残されています。でもその心の奥は別物でした。

■四神発見■

 東西南北の四方位には、方位を守護する禽獣(きんじゅう)の神が宿ると信じられていました。

北は「玄武-げんぶ」-亀に蛇が絡みついた神

東は「青竜-せいりゅう」-青い竜

南は「朱雀-すざく」-赤い鳥(鳳凰)

西は「白虎-びゃっこ」-白い虎

戦国時代は五行思想からそれぞれ色も配されていました。北は黒で、中央は黄色となります。(相撲ではこれを花房と土俵の色であらわす)

 会津藩では年齢別に玄武隊(50歳以上)、青龍隊(36?49歳)、朱雀隊(18?35歳)、白虎隊(17歳以下)と四神の名前を部隊名としました。

 天空の星座から生まれた四神ですが、風水で自然環境エネルギーの作用を大地の形状で見た場合、北の玄武は高い山、東の青竜は川の流れ、南の朱雀は沢畔、西の白虎に大道、このよっつが揃うと「四神相応の地」と称して、自然エネルギーの充満する大吉相として尊ぶのです。

 政宗公は、大地形状の四神配置だけではなく、別な手段をもって城下に四神を配したのです。

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「星の街仙台」P16?20

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 四神に守られるべき中心は仙台城本丸です。北を見るとやや西寄りに「亀岡八幡宮」があります。亀という字が含まれ玄武となります。六芒星の中心で城下を二分する定禅寺通りを、西に延長した地点にみごとにぶち当たっています。この神社は伊達家の氏神で、松尾芭蕉が仙台に来た際に、真っ先に立ち寄るほど重要な神社でした。ここも高台の見通しポイントですがナント!神社の祭られている山は、驚くことに土盛りをされた人工の山だったのです。しかも!亀の形になぞらえて造られていて、亀の尻尾の一部が今も現存しています。尻尾は丸石を連ねて表し鳥居を潜って、その先は舗装道路の下に埋もれているのです。

 朱雀は仙台城から南に位置する瑞鳳寺・瑞鳳殿です。赤い鳥、鳳凰でもあり、子午の呪術でいうと南は‘火’ですから火の鳥とも言えます。政宗の不死、再生を願って子午の呪術を施した場所のひとつです。

真ん中の黒丸が仙台城。赤丸が四神の位置関係。

 西の白虎ですが、寺や神社ではありませんでした。城の西にある小高い山です。その山は昔「お生出の森-おいでのもり」と呼ばれ、ある日突然現れたという言い伝えがあります。きれいな三角形のお山、太白山(たいはくさん)です。(星の街P18写真)。海からも見えることから、漁師たちからランドマークとして崇められてきました。太白という名は、金星の別名「太白星」からとられ西の象徴でもあります。五行に直すと西の方角は「金」です。中国の古書「淮南子(えなんじ)」には「其神為太白・其獣白虎」とあり、太白と白虎の関係が明記されています。

 残る青竜は、仙台市内にはありませんでした。太白山と仙台城を結んだ線の東の彼方、松島にあったのです。「松島青龍山円福瑞巌禅寺(まつしませいりゅうざんえんふくずいがんぜんじ)。瑞巌寺の正式名称に「青龍」が含まれていたのです。

・六芒星と四神の関係について

 六芒星の傾きの理由は、仙台城本丸を基準として鬼門を押さえるためと、それに伴って城下を覆う六芒星を形作るという二つの目的を達成するためです。四神はまた別に独立した呪術として作られました。

 仙台城本丸を中心とした十二支方位は同じ基準ですが、基本的に東西南北の神様ですので15度傾いていると言うことはありません(六芒星とは切り離して考えてください)。各四神が正確な東西南北になかった理由は、四神が中国の星座、星宿にあるからだったのです。

・四神傾きの謎 

 仙台城を中心に四神の位置を結んでみると方角がいびつに見えます。実際角度はバラバラです。秘密のための配置か、本当の四神ではないのか…しかしこの配置には裏づけがありました。それは天空の星です。

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星の街仙台P19?20参照

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 西洋ではオリオン座など「座」を用いますが、中国では「宿」です。主なものは28宿あり(P20上図)、なかでも有名なのは「昴」(和名すばる)、西洋のプレアレス星団です。この28宿を7宿づつよっつに区切ってそこに四神を配したのです。(P20上図)星宿上では実際にある星に名前をつけて四神の各神様にしたため、大きさがまちまちになり、全天を円として見た場合に角度が一定にならず、それぞれの角度ができてしまったということです。中央には「天皇大帝」の星がありますが(P20下図)、家康が天帝となるべく日光東照宮に祭られたその星のことです。現在の「天帝」は、こぐま座の尻尾の先端にある星が北極星ですが、28宿が決められた当時は別の星でした。それは地球の地軸が少し傾きを持ち、26000年周期で歳差運動をしているため、時代によって地軸の真北にあたる星が変わるためです。

 P20の下図星宿図中央にある紫微宮(しびきゅう)の天体図を、中国漢代には長安の都に描き、日本の平安京では都の内裏に紫しん殿として模しています。星宿図の四神に振り分けられた角度を方位ごとに見てください。(P20下図)小さい順に東(75度)・西(80度)・北(98度)・南(112度)となります。それが地上に配した四神の間の角度の順番と一致するのです。(P19)

 政宗公は、仙台城を「紫微宮」(中心)と見立て、天体の四神を地上に配したわけです。これはかなり高度な知識と方法によります。その事を知っていた伊達家の誰かが、四神を隠す目的で、あえて地上ではなく星宿の四神の配置を施したものと思われます。中国の星宿図という高度な天文知識がなければできないことです。四神の本旨から逸脱しないで、悟られずにずらすことができたのは、驚異的な頭脳がそこにあったということです。   

京都の大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)に、中国から伝わったという天文図の拓本があります。それによって学ぶ事ができた人は、虎哉和尚しかいません(政宗公にへそまがり教育をした人)。

 彼は京都で修行していました。四神の青龍である松島瑞巌寺は、虎哉和尚による再建です。そこには「松島方丈記」という虎哉和尚直筆の額が残っています。その額には陰陽の龍がいます。口をあいている方が陽(向かって右)左が陰です。陰陽道は「陽」と「陰」で成り立ちます。