近江八景と芭蕉
http://v-rise.world.coocan.jp/rekisan/htdocs/kinki/oumi.bashou/oumihakkei.sin.htm 【近江八景と芭蕉】より
芭蕉が初めて大津を訪れたのは貞亨二年(1685)の「野ざらし紀行」の旅のことであった。
そして、はじめて大津に入った芭蕉は、小関越えの道で詠んだ詩がある。
山路来て 何やらゆかし すみれ草
その後、近江には芭蕉の門人も増えてきた。芭蕉は琵琶湖を抱く近江の光景をこよなく愛し、また、近江の蕉門達とも心温まる交流を重ねた。芭蕉にとって近江は心のふるさとであったに違いない。それは芭蕉の生誕地・伊賀上野に近いという理由だけではなく、近江八景に表される通り、風光明媚な自然と、そこに住む俳句に明るい蕉門達が居たからであろう。次の詩は、芭蕉が近江に熱い特別の思いを持っていたことが伺える。
行く春や 近江の人と 惜しみける
近江の国は時代を遡ると室町時代に近江八景がいわれ、江戸中期には庶民の間で、今の旅行ブームと同じように近江八景めぐりがブームとなった。広重の版画をもとに、近江八景のルーツ訪ねて大津博物館を起点にして探ってみた。琵琶湖を取り巻く景色を眺めてみると夕日・雪・音など自然の中に人間が生きてる証が静かに肌に伝わってくる。そして、そこに近江と芭蕉の接点が見えてくる。
■近江の語源は?
近江を≪おうみ≫と呼ぶのは何故だろうか。≪おうみ≫は淡水の海、すなわち淡海(あわうみ)という言葉が縮まったものである。
都から見て遠方にある淡海は浜名湖で、その湖のある国名を≪遠(とおつ)淡海≫を遠江(とおとうみ)といったのに対して、都の近くにある淡海という意味でこの湖を≪近(ちかつ)淡海≫といい、文字の上では≪近≫が残り、発音の上では≪ちかつ≫が省略されて近江(おうみ)という国名が生じた。
★三井の梵鐘(みいのぼんしょう)
園城寺別名三井寺とも言う。三井の語源は三人の天皇(天智・天武・持統)の産湯を使った井戸があることから三井寺と名づけられた。大津博物館から5分ほど歩いたところにある。静かな緑に囲まれた自然の中に佇むこの寺はいにしえのロマンを、今も今日に伝えている。入り口の受付のおじさんに広重の版画を見せて、この絵の所を訪ねると、昔は、前の駐車場の辺りまで湖であったことを教えてくれた。琵琶湖は少しずつ干し上がっているのと、北へ移動しているのが原因で今は湖まで遠い。広重の版画のイメージに最も近いところは、三井寺観音堂から少し登った展望台から観月舞台や琵琶湖を望んだ景色である。
そう言えば大津博物館に、琵琶湖のルーツが書かれていた。500万年前、今の伊賀上野市辺りに、琵琶湖が存在していた。鈴鹿山脈の隆起によって徐々に北に移動して、今日の位置に来たそうである。今でも北へ少しづつ移動しているそうである。そのうち何万年後に日本海に繋がるかも???。芭蕉は伊賀上野に生まれ、大津の義仲寺に墓があることと同じで、何となく因縁みたいなものを感じる。
境内にある梵鐘のの近くに行くと「ご先祖様の供養と共に龍神の故事により福が授かります。冥加料一撞き300円」の張り紙がある。撞いて見ると昔と変わらぬ響きが境内に伝わる。金堂の西横を通ると三井の霊泉がある。中を覗くと岩から水の湧く音が聞こえる。ここが三井の俗称が生まれた所以の場所である。下ばかり覗いて見ずに建物の上を見ると素晴らしいものがある。左甚五郎の龍の彫刻に注目して欲しい。
更に上に登ると、弁慶の引き摺り鐘がある。弁慶が比叡山に引きずって持っていったが音色が出ず、元のこの三井寺に納まったという伝説がある。 ここで詠んだ芭蕉の歌
三井寺の 門敲かばや 今日の月
大津市歴史博物館
琵琶湖と大津が学べる博物館。近江八景・膳所城下町比叡山などのテーマ展示や原始からの歴史年表、映像ホールなどがある。二階のガラス越しに見る琵琶湖の展望は美しい。 ℡077-521-2100
円満院
もとは、園城寺の門跡院である。緑に恵まれた境内には、重文の建造物が並び、なかでも庫裏を利用した大津絵美術館では、江戸時代以来の大津絵が干渉できる。大津絵のユーモラスな絵は東海道を行く旅人に人気があり、逢坂山大谷辺りで売られていた。
大津絵の 筆のはじめは 何仏
浜大津アーカス
京阪浜大津駅南側に登場した総合レジャースポット。カラオケ・ボーリング・アミューズメントパーク・映画館・飲食点などが入居している。ファミリーからカップルまで一日中遊べる湖畔のアミューズメントである。
おもちゃの館
世界のおもちゃと日本の郷土玩具が紹介されている。入場無料なのでちょっと覗いてみるとよい。
★唐崎の夜雨(からさきのやう)
161号線を北へ走り少し東に入った湖のそばにある。看板の表示に従って奥に入ると唐崎神社がある。この神社は日吉神社摂社でそう大きくはない。神社の奥の湖の側に、大きな見事な松がある。今生えている松は三代目の松であるらしい。広重の絵を見て、同じような写真アングルを探したが見つからない。どうも湖上からのイメージを版画にしたみたいである。
初代の松を見て紀貫之が詠んでいる。
唐崎の 松は扇の要にて
漕ぎゆく船は 黒絵なりけり
二代目の松を見て広重が描き、芭蕉が詠んでいる。
唐崎の 松は花より 朧(おぼろ)にて
西教寺
比叡山の南東山麓。天台真盛宗の総本山。荘厳な風格を誇る本堂や伏見城の遺構を移した客殿など重分の建物が老樹の中で幽玄静寂な雰囲気を漂わせている。境内には明智光秀が総門や庫裏を寄進した関係で明智一族の墓がある。
月さびよ 明智が妻の 話せむ
日吉大社
「山王さん」の総本宮で、広大な境内には百を超える国宝や重文の社殿がある。大宮川に架かる日吉三橋は日本最古の石橋である。灯篭が立ち並ぶ参道の脇には自然石を巧みに積み上げた穴太衆積みの美しい石垣は来る度に見ごたえを感じる。秋は紅葉の名所としても名高い。
比叡山・奥比叡ドライブウェイ
田の谷峠から仰木までのコースで、琵琶湖や京都市街を眺めながら走る爽快感いっぱいのドライブが楽しめる。途中延暦寺や山頂遊園はゆっくり歩くとよい。
★堅田の落雁(かただのらくがん)
161号線を北へ進む。坂本を超え、雄琴温泉を超えて、堅田高校のある交差点を右に曲がり、少し行ったところに浮御堂がある。近江茶や焼き物の店がある広場の駐車場に車を置いて山門をくぐった。正面を歩き進むと湖上に浮かぶ、阿弥陀一千体を安置した浮御堂がある。東の方向には近江富士と呼ばれる三上山がかすみ、北の方向のすぐ近くに琵琶湖大橋が見渡せる。
ここは湖中に突出しているため、伊吹山・長命寺山・近江富士・沖の島・比良連邦・比叡山などが一望できる。風景絶景の地点で、風花雪月それぞれの趣があり芭蕉・一茶・広重・北斎が杖を引いて多くの詩歌・絵画を残している。広重の版画は湖上から描いたもので、琵琶湖大橋から写真を撮ると同じアングルになるだろう。
境内には句碑が多くあり、中でも芭蕉が、元禄4年の中秋の名月の翌日、十六夜に、お月見の宴をして詠んだ歌が有名である。
鎖(じょう)あけて 月さし入れよ 浮御堂
また、「比良三上 雪さしわたせ 鷺の橋」芭蕉 「湖も この辺にして 鳥渡る」虚子 等の句碑がある。
本福寺
浄土真宗の寺。真宗中興の祖・蓮如の布教活動の中心になった。芭蕉は、元禄3年、この寺の住職で、芭蕉の門人でもあった千那を訪ねた時の詩は有名である。
病雁の 夜寒に落ちて 旅寝かな
びわ湖タワー
高さ108mの大観覧車がシンボル。各種遊戯施設や岩風呂の天然温泉もある。
★比良の暮雪(ひらのぼせつ)
車を161号線から477線へ更に湖西道路を北に向かった。志賀ICから再び161号線を北に走り、比良川を登り比良山ロープウェイ乗り場にきた。冬ではないので広重の版画の風景を探すのは難しい。近江八景の景色の中で比良の暮雪を特定することは無理といったほうがよい。あえて比定すれば、近江舞子辺りに近い風景が伺える。
比良三上 雪さしわたせ 鷺の橋
琵琶湖バレィ
眼下に琵琶湖が広がる高原のレジャーランドでオールシーズン楽しめる。ゴンドラ山麓駅に行くと琵琶湖自然科学博物館や雲上ベコニア大温室があり、冬にはスキーも楽しめる。
比良山
関西のアルプスと呼ばれ、最高峰の武奈ヶ岳や比良岳からなる。ハイキングや登山に訪れる人が多い。山頂に向かうロープウェイからは自然の大パノラマが美しい。高原植物が自生する八雲が原湿原やしゃくなげ尾根など見どころが多い。
白髭神社
湖上に浮かぶ鳥居の姿から近江の厳島とも呼ばれている。名前の通り長生きの神様として知られている。
★矢橋帰帆(やばしのきはん)
引き返して、堅田で琵琶湖大橋を渡り南下した。琵琶湖湖岸道路を暫く走ると大きな川に近づく。それを渡らずに渡らずに川沿いに東の方向に走ると、ヨットハーバー近くに小さな公園がある。この辺りが矢橋の港があった所で、この港から大津に渡った「渡し場」であった。今は、矢橋帰帆島という人工島に遮られて湖を望むことは出来ない。公園の端に当時の面影として常夜灯が残り、公園には石積みの突堤が復元されている。ここも、琵琶湖の水面が下がったため、常夜灯が水辺と離れて建っている。広重の版画とは、かなり掛離れているが、もし人工島がなかったら、もし琵琶湖の水面があと1m高かったら・・・と想像するとイメージが湧いてくる。
東海道と中山道の分かれ道がこの先の草津宿である。「世を旅に代かく小田の行き戻り」と詠んだ芭蕉は、その半生に幾度となく東海道を上下した。
草津宿
東海道五十三次の宿場町の面影は今でもある。中でも草津宿本陣は一見に値する。江戸時代本陣を頂点として様々な宿泊施設が集まって宿場町を形成していた。本陣脇本陣辺りをぶらつくと懐かしい店に出くわす。少し行くと東海道と中山道の分岐点にある追分道標には「左、東海道いせみち 右 中仙道美のぢ」と記されている。
水環境科学館
矢橋帰帆島は人工の島でもともと下水処理のために作られた施設がある。水環境科学館では下水や水環境について楽しく知ることが出来る。
★瀬田夕照(せたのせきしょう)
湖岸道路に戻り更に南下すると瀬田川の入り江に差し掛かる。近江大橋を横切り更に進むと唐橋公園に着く。公園から眺める唐橋は美しい。この橋は日本三大美橋として知られている。欄干に擬宝珠ある朱塗りの橋は今も往年を忍ばせている。広重の絵には橋の途中に島が描かれている。さてその島は今何処に???。名前からして夕陽が照らされて美しいことから西の方向から東に向かって描いたものと思われる。
貞享5年(1688)の5~6月にかけて、大津を訪れた芭蕉は瀬田の橋や蛍見を句にしている。
五月雨に 隠れるものや 瀬田の橋 (あら野)
世の夏や 湖上に浮かぶ 波の上
名月は 二つ過ぎても 瀬田の月
建部大社
瀬田の唐橋からひがしへ500mの処にある。出世開運・縁結びの神として知られている。源頼朝も伊豆に流される途中、建部大社に立ち寄り源氏再興の祈願をしたという。
★石山の秋月(いしやまのしゅうげつ)
瀬田の唐橋を渡ってすぐに南に折れて暫く行くと石山寺に着く。石山寺は奈良時代に聖武天皇勅願により良弁僧正によって開基された。山門をくぐって参道を歩き、石段を登ると、先ず最初に目立つのは巨大な天然記念物の硅灰石である。寺の名前のいわれになったものである。芭蕉はこの大きくそびえる石を見て次の詩を詠っている。
石山の 石にたばしる 霞かな
秋に来ると紅葉が映えて美しい。また、国宝の本堂や多宝塔のほか、紫式部が源氏物語を執筆した源氏の間見所が多い。広重の版画はもう少し登った芭蕉庵の上の月見亭辺りから描いたものである。
曙は まだ紫に ほととぎす
玄住庵
石山寺から西に入り込んだ山裾に幻住庵がある。ここは大津の芭蕉ゆかりの地で最も有名な所である。
「石山の奥、岩間の後ろに山あり、国分山といふ。・・・」で始まる幻住庵記は、芭蕉のここでの庵住の生活の中から生まれた。住庵記は奥の細道に並ぶ俳文の傑作とされている。
奥の細道の旅の翌年、4ヶ月間この幻住庵で住まいした。「谷の清水汲みて 自ら炊ぐ」と書かれている清水も、今もこんこんと涌き出ており、芭蕉の思いを伝えている。
先づ頼む 椎の木も有り 夏木立
岩間寺
京都府との境界にある。醍醐寺からハイキングコースを歩くとこの西国三十三箇所霊場に辿りつく。真言宗で泰澄大師が開いた。この寺の先手観音は「厄除け観音」「雷除け観音」「汗かき観音」として知られている。句作に行き詰まりを感じた芭蕉は、ここの観音に帰依することでそれを脱したと伝えられる。
★粟津の晴嵐(あわづのせいらん)
国道422号線を北に戻ると晴嵐町の地名が出てくる。粟津の晴嵐はこの辺りであろうと考えられる。探し回ったがそれらしき場所は見当たらなかった。晴嵐中学のグランド側の前の道路に松ノ木が数本まばらに立っていた。恐らく、昔はこの辺りまで湖が来ていたものと思われる。晴嵐とは晴れた日の霞のことを言うらしい。当時は松の緑と湖がマッチして旅人の心を和ませてくれたであろう。
義仲寺
JR膳所駅または、京阪膳所駅から歩いて5分の所にある。街中を歩くと小奇麗なお寺にであう。木曽義仲公の御墓所であり、その隣に芭蕉の墓もある。芭蕉は大阪の旅窓で逝去したが、生前の遺言「殻は木曽塚に送るべし」に従ってこの地に芭蕉の御墓所がある。境内にはこのほか朝日堂・無名庵・翁堂などがある。ここは芭蕉が近江にくると宿舎とした所である。奥の細道から帰った芭蕉は、元禄二年の二月から10ヶ月大津に滞在した。その時の仮宿になったのは義仲寺と幻住庵である。無名庵に暮らしながら芭蕉は、湖南の門人に俳句の指導をしていた。境内には多く歌碑が立ち並ぶ。その中に芭蕉の歌が三句ある。
旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る
膳所城址公園
膳所は六万石の城下町として栄えた。中に入ると石碑が建っている。公園から近江大橋を見ると素晴らしい。膳所公園から浄水場の間に橋が架かっている。これは、昔、城のあったときにも同じ場所に、本丸から二の丸に渡る橋があったものを再現したもの。