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超人ザオタル(46)私は誰か

2021.12.15 02:00

私は自分が個人ではないということを認めることができた。

私は存在なのだ。

だが、その存在でいることを持て余していた。

それで身体や心が消え去ることはない。


世界に戻れば身体や心が自分になる。

それを自分ではないと思い込むことはできるかもしれない。

だが、それは思い込んでいるだけで、真実だとは理解していない。

私はザオタルという個人であり、誰もがそう認めている。


アムシャは自分はひとりだけだと言っていた。

つまりそれは、存在か個人のどちらかだけが自分だということだ。

私はベッドに横になりながら、自分の手のひらをじっと見てみた。

これが自分ではないとどうしていえるのだろうか。


身体には触れる感覚があり、それはまさに自分だからだ。

身体こそ自分の本体であると感じられる。

そう思うことはとても自然なのだ。

そうであるなら、私は偽りなく安堵する気持ちになれる。


無理やりそれが自分ではないと考える必要もない。

だがそれを自分とするなら、存在は誰なのだろうか。

それが赤の他人とも思えない。

瞑想ではそれも明らかに私だったのだ。


そこでは存在という私だけしかいなかった。

だからそれが自分だと分かる。

それを消すことも他の自分になることも出来ないのだ。

そう確かめられるのなら、それが自分ということになる。


この世界では、私以外の人間がいる。

その区別となるのが身体だ。

身体が別々だからこそ、これが自分と特定できる。

誰もが自分とは身体だと思っていて、その認識が関係性の基盤になっている。


別々の身体という認識がなくなったのなら、人間同士の関係性はかなり混乱するだろう。

いったい誰が誰やら分からなくなる。

そこには身体という個人の境界線が必要なのだ。

そうだからといって、身体を自分だとすることはできるだろうか。


身体は時とともに老いて、死ぬときが必ずやってくる。

それで自分は終わりなのだろうか。

ロウソクの火がかき消えるように、私はいなかったことになるのだろうか。

そうであるなら、瞑想でのあの明確な私という存在は何なのだろう。


その存在があるために身体は必要ではない。

その存在であるとき、身体は失われている。

どこにも身体はないのだ。

そうであるなら、身体よりも存在が自分として優位だということだ。


存在は時の流れに依存しない。

老いることもなく、死ぬことさえないだろう。

いつも同じものとしてそこに存在している。

やはり、それが私なのか。


それはまた明日の瞑想で確かめよう。

だが、ここでの考えを覚えていられるだろうか。

いろいろとそれについて考えるがすぐに忘れてしまう気がする。

私はそんなことを思いながら、いつの間にか寝入ってしまった。