疫病退治
https://www.rekishijin.com/11409 【疱瘡神(ほうそうしん) 〜天然痘を蔓延させて日本中を恐怖に陥れた鬼神】より
敏逹天皇時代に疫病が蔓延したのは蘇我氏が仏法を広めたせい?
疫病退治の神と伝わった源頼朝の叔父・源為朝『鎮西八郎為朝」/都立中央図書館蔵
世界中に蔓延して猛威を振るう新型コロナウイルス。日本でもようやくワクチン接種が始まったものの、果たしていつ収束するのか、予測もつかないというのが現状である。第二次世界大戦終結後の我が国を襲った、最大の試練といえるかもしれない。
しかし、歴史を振り返ってみれば、感染症との戦いは、1度や2度のことではなかった。それこそ、数え切れないほど疫病に苦しめられてきたことが、史書にも随所に記されている。古いところでは、敏逹(びだつ)天皇の御代に疫病が蔓延したことが『日本書紀』に見える。蘇我氏が仏法を広めた(6世紀中頃)ことで、国神の怒りを招いたとみなされたようである。
さらに、奈良時代の天平7(735)年から天平9(737)年にかけても、疫病が大流行。この時は何と、総人口の25〜35パーセントにあたる100〜150万人もの人々が亡くなったとか。当時勢威を誇っていた藤原四兄弟なども、この伝染病がもとで亡くなったのだ。ただし、当時はそれを、藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に関与していたとの濡れ衣を着せられたことで自憤した早良親王(さわらしんのう)の祟りと考えられたものであった。
源為朝が疱瘡神を退治したとの説がまことしやかに語られた訳とは?
もちろん、ここに記した両疫病の流行が、神の天罰や祟りなどに起因するものでなかったことはいうまでもない。大陸との交流が頻繁になるにつれ、ウイルスが持ち込まれる頻度が高くなっていったこと、それが原因である。病名は前者は不明ながらも、後者は疱瘡、つまり天然痘であった。
ちなみに天然痘とは、天然痘ウイルスから感染した人が発する唾液飛沫などを吸い込むことによって二次感染を引き起こすという感染症。2週間前後の潜伏期間をおいて、39度以上の高熱を発するという。頭痛、吐き気を伴うとともに、顔や肢体を中心として発疹が現れるのが特徴的。その後、水膨れとなって膿が出た後、かさぶたができて治癒するとか。ただし、肺炎や脳炎などの合併症を引き起こして死亡するケースも多いというから、恐ろしい病であることは間違いない。『鬼滅の刃』に登場する鬼たちは、鬼の首領・鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)の血を浴びることで鬼化したというが、天然痘は唾液の飛沫だけでも感染するわけだから、考えようによっては、鬼滅の鬼以上に恐ろしいものであったと言えるかもしれない。
ともあれこの感染症、いつ頃からかは不明だが、いつしか疱瘡神という名の疫病神の仕業とみなされるようになったようである。源頼朝の叔父にあたる弓の使い手・源為朝(みなもとのためとも/1139〜1170年頃)が、伊豆大島に流された頃の話として疱瘡神が登場するから、すでに平安時代末期には、疱瘡神にまつわる信仰が広まっていたようである。
当時、都では疱瘡が猛威を振るったにもかかわらず、為朝のいた伊豆大島だけが蔓延を逃れたとか。そこから、いつしか為朝が疫病退治の神と崇められるようになったというのである。後には為朝に加え、魔除けの霊験あらたかな道教の神・鍾馗(しょうき)や、武勇の誉れ高い金太郎こと坂田金時までもが、疱瘡絵なるお守りに描かれ、庶民の間で流行った。疱瘡神が赤色を嫌うとの俗信から赤一色で刷られ、俗に赤絵と呼ばれたようである。
日本では1955年に根絶
江戸時代に入ってからも何度か猛威を振るったが、中期以降、様々なワクチン接種が試されている。まず1789年に、秋月藩の藩医・緒方春朔(しゅんさく)が人痘法を試して成功。ただし、それは安全性が確保されたものではなかった。次いで1810年には、捕虜となってロシアに渡った中川五郎治が牛痘(ぎゅうとう)法を学んで帰国。1824年にこの方法を用いて、田中正右衛門の娘・イクに日本初の種痘を施すなど、様々な改良と試行錯誤が繰り返された。そして、明治に入って種痘(しゅとう)法が整備され、昭和30(1955)年、ついに日本における天然痘が根絶(世界での撲滅宣言は1980年)されたのである。
ちなみに、この感染症をもたらしたとされた疱瘡神、実は姿も形も定かではない。市井に現れる時は、大抵、老婆姿であったといわれる。元の姿は不明ながらも、昨今流行りの「アマビエ」あたりをイメージしてしまいそうだ。疫病の蔓延を予言するとされるアマビエ。新型コロナウイルスの退散を祈願してアマビエの絵を描くことが一時流行ったことがあったが、その際の映像が、頭にこびりついているせいかもしれない。
ともあれ、最後に疱瘡神を祀る神社というのが存在するので紹介しておきたい。平清盛の側室・常盤御前(ときわごぜん)の娘(当時14歳)も疱瘡がもとで亡くなっているが、その埋葬の地に創建されたのが、その名もズバリの疱瘡神社(広島市)である。
また、神奈川県三浦半島の鎮守として知られる海南神社の境内社にも、同様の疱瘡神社と呼ばれる小祠がある。さらに、東京都大田区にある羽田神社には、13代将軍・家定が疱瘡治癒を祈願したことを記す「疱瘡除祈願御札の碑」が、千葉県市川市にある本光寺には、本堂に「疫病退散守護の疱瘡神」が祀られている。その他、東京都小金井市の山王稲穂神社の境内社や、北区の赤羽八幡神社の末社合祀殿の中、千葉県佐倉市の青菅稲荷神社の石造りの小さな祠が居並ぶ中にも疱瘡神社が置かれるなど、全国を見渡せば、意外にも数多く祀られていることがわかる。その多くが「疫病退散」をご利益として掲げているようだから、コロナ退治も是非、祈願しておきたいものである。
https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/igaku/exhibitions/2007/exhib3.htm 【疫病から伝染病へ】より
社会基盤を揺るがすおそれのある疫病は古代から人々を悩ませ、ときには歴史の流れを左右するほどの猛威をふるった。古くはペロポネソス戦争時に流行した疫病が、指導者ペリクレスや多くの市民を死に至らせ、やがてアテナイの敗北の一因となった。737年及び995年に京都を襲った天然痘と麻疹により日本の政治は麻痺状態に陥った。1348年に大流行したペスト(黒死病)でヨ-ロッパの人口の3分の1が死亡し、それにより人々の間に医学のみならず、神に対する懐疑が芽生え、ルネサンスと宗教改革の背景要素の一つとなった。19世紀、世界的に大流行したコレラは日本にも及び、多数の犠牲者を出した。
近世以前の日本で「流行病(ハヤリヤマイ)」として特に恐れられたのは「疱瘡」、「麻疹」及び「水疱瘡」だった。人々は、突然姿を現し急激に広がる病気を擬神化し、養生法や呪術によりこれらの疫病神を防げ、退治しようとしていた。医学の近代化の象徴でもある予防接種の導入や公衆衛生の普及により、伝染病を抑え、場合により撲滅することもできたが、新型肺炎(SARS)や鳥インフルエンザが引き起こしたパニックが示すように、昔と同様に社会的不安、患者への差別などを引き起こす伝染病の脅威は今日でも衰えていない。
疱瘡
天然痘(疱瘡)は Variola veraというウイルスによって起こる感染力の強い伝染病である。『続日本紀』に天平7年に「天下豌豆瘡を患て 夭死する者多し」という記述があり、天然痘は天平年間に大陸から侵入したとされている。以降天然痘は19世紀まで大流行を繰り返した。1857年から5年間長崎海軍伝習所の医学教授を務めていたポンペ・ファン・メ-ルデルフォ-ルト(J. L. C. Pompe van Meerdervoort, 1829-1908)は「日本ほど痘瘡のある人が多い国はない。住民の3分の1は痘痕があるといってよい」と書いている。
疱瘡は当初、人間の穢れを怒る神の祟りと思われていたが、後に仏教の影響下で、海外から「疫病神」が襲来すると考えられるようになった。この疫病神は犬と赤色を嫌うとされていたので、患者の衣類などを赤色ずくめにする風習が広まった。郷土玩具には痘瘡の護符に由来するものが多い。江戸期になると、小児が母親から受け継いだ胎毒及び天行が原因であるという中国医学に基づく説が一世を風靡したが、疱瘡神を祀る習慣は民衆の間で幕末まで続いていた。
呪符。「疱瘡神五人相渡証文之事」書写者不明、書写年不明、1冊。
〔九州大学附属図書館医学分館蔵〕
上記の証文は、長徳3(997)年5月の日付で、丈七尺の山伏黒味筋悪をはじめとする疱瘡神五人の連名により、若狭国小浜の納屋六郎左衛門(組屋六郎左衛門の誤り)に差し出されたように作られた呪符である。組屋六郎左衛門とは、平安の人物ではなく、戦国末期に豊臣秀吉の朝鮮出兵時の兵糧運搬に携わったり、小浜藩の代官を務めたりしたという小浜瀬木町の豪商である。功績と影響力のためか、彼が疱瘡神を家に泊め供応し、魔除けの神力があるという話が広まり、江戸期の人々は疫病神が自分の家を避けて通過してゆくようにとの願いを込めて、六郎左衛門の子孫であることを暗示する呪符を家の入り口に貼った。
医学分館所蔵の文書には、さらに歌五種が付され、最後に「長徳四年戌六月八日疱瘡神御宿越前国南條郡湯尾巌御嫡子也」とある。湯尾(ゆのお)峠は現在の福井県南越前町湯尾と同町今庄の間の峠であり、頂上には飛鳥時代からの伝説に遡る孫嫡子(マゴジャクシ)の神社及び孫嫡子のお守り札を売る茶屋が4軒あった。醍醐天皇が疱瘡を患い同神社に祈願したらたちまちに平癒したので、孫嫡子大明神は疱瘡の神として世に伝わったと言われていた。
この峠を越えた松尾芭蕉は「月に名を包みかねてやいもの神」と詠んだ。この「いも」は月見の供え物と痘瘡を意味している。孫嫡子の呪符は西鶴の『男色大鏡』、近松門左衛門の『傾城反魂香』、十返舎一九の『湯尾峠孫嫡子』などの文学作品にも登場するほど有名であった。
1690年来日したオランダ東インド会社の医師ケンペル(Engelbert Kaempfer, 1651-1715)はこの一世紀の間に4回も流行した疱瘡に関して日本人の話を記録し、「 VII Foso no Cami id est 7 Pock Geister」(七疱瘡の神つまり七疱瘡霊)という記述を残した。ケンペルによれば、この「神、または児童疱瘡の霊」は「たいていが悪性」で、患者には次の病状を示す一種の前兆として現れる。「山伏神」は一般に非常に悪性であり、「盲神」は盲目者のような姿で現れ、さらに悪性である。次に続くのが「坊主」(Boos, Pfaffen)と、「爺」(dsii, alt Man)と「婆」(Baba, alt Weib)で、この三種は不吉な前兆となり、目前に迫った死を示している。これに対して「若衆」(wakas, Juengling)か娘(Musme, junge Tochter)が姿を現すと、まもなく回復する。七福神に似せて作られたと思われるこの疱瘡神についての日本の資料はあまり発表されていない。ケンペルが描写したのは発病の日によって病のなりゆきを占う図のようなものであった。江戸期の版画などに見られる七疫神(魁神、兵神、刑神、早神、石神、役神、寛神)の姿及び特徴はほぼケンペルが書いている通りである。
「疱瘡之図」、書写地不明、書写者不明、江戸期。
〔九州大学附属図書館医学分館蔵〕
東京大学総合図書館鶚軒文庫の「痘瘡図譜」と類似しているこの写本は長崎伝来のようで、天然痘の子供の惨状を生々しく描写している。別紙に書かれた絵図は、下敷きに貼り付けられており、立体効果をさらに高めるため、疱瘡は膨らむほど太く描いてある。「脾痘枚靨順痘図」など、「痘瘡図譜」が示すような図の説明はない。
医師ケンペルのメモ
大英図書館が所蔵しているケンペルの「Collectanea Japonica」[1]には、一種の分類も見られる。ケンペルによれば日本人はその外観から天然痘を五種類に区別し、「似たような物の名」をつけている。
「アズキ(Addsuki)は「赤または茶色のソラマメの形」にちなみ、「ハシカ」のように最も軽い種類。
マメ(Mame)は丸くて白い豆の名を持つ。
タコおよびタコノテ(Tako seu tako no te)は一種の銀鮫に由来する。
「ツタ」(Tsta sive Tsuta)は蔦の葉の形を思わせる。「ツタ」の葉は葡萄または「モミジ」の葉に似ている。これらはタコノテよりも悪性で死ぬことも多い。
最も深刻でたいていが死んでしまうのが、紺色で盛り上がることから「ブドウ」(Budo)と呼ばれるものである。
「ツタ」と「ブドウ」は、回復してもその皮膚はまるで仮面のように剥がれ、患者は全く異なった容貌になってしまうほど悪性である。
橋本伯寿の貢献
痘瘡の伝染性について啓蒙したのは、甲斐の橋本伯寿(ハシモトハクジュ)だった。文化7(1810)年で発表した『断毒論』で、長崎で西洋医学を学んだ白寿は、伝染説を論述し、隔離の必要性を強調している。その3年後、さらなる普及のための『国字断毒論』が刊行された)。
橋本伯寿著『国字断毒論』出版者不明、出版地不明、文化10(1813)年頃。
〔九州大学附属図書館医学分館蔵〕
種痘
イギリス人ジェンナ-が開発した牛痘種痘から始める著者が多いが、それに先立つ人痘種痘を抜きにして予防接種の歴史は十分に語れない。昔から人々は一度天然痘にかかると二度はかからないことを経験的に知っており、中近東で軽い天然痘にかからせる方法が考え出されたと思われる。西と東へ伝わったこの人痘種痘は、予防接種という概念を広げ、東西両洋における研究の土台となった。
江戸・明治期における天然痘をめぐる動き
西暦 年号
17世紀 天然痘がこの一世紀の間に4回も流行する。
1653 承応2 明の僧医戴曼公が治痘法を伝授する。
1744 延享1 中国から来日した種痘科李仁山が長崎で人痘種痘を実施する。
1752 宝暦2 清代の代表的な医学叢書『医宗金鑑』(呉謙等編、乾隆年頃刊)が日本に伝来。第60巻が痘科の部で「種痘心法要旨」となっている。
1766 明和3 上江州倫完が琉球にて人痘種痘を実施する。
1789 寛政1 筑前秋月で天然痘が流行する。
1790 寛政2 筑前秋月藩医緒方春朔が『医宗金鑑』などに基づき、独自の鼻旱苗法を開発し、天野甚左衛門の二児に人痘種痘を実施し、成功する。
1793 寛政5 緒方春朔が「種痘必順辨」を著す。
1793 寛政5 緒方春朔が長崎で五児に種痘を実施する。
1795 寛政7 緒方春朔が江戸で種痘法を実施し、種痘法を伝授する。
1796 寛政8年5月 イギリスの医師ジェンナ-(Edward Jenner)が初めて牛痘苗による種痘を実施する。
1796 寛政8 緒方春朔が「種痘緊轄」及び「種痘證治録」を著す。
1798 寛政10 幕府が医学館に痘科を創設する。
1820 文政3 蘭学者馬場佐十郎がロシア語の牛痘書を訳す。この「遁花秘訣」(トンカヒケツ )は日本初の牛痘書である。
1823 文政6 シ-ボルトが来日。彼が持参した牛痘苗で日本人に接種するが、成功しなかった。
1849 嘉永2年7月 楢林宗建が牛痘苗を三男と通詞の子二人に接種し、三男のみ善感。牛痘苗による種痘に初めて成功する。
1849 嘉永2年11月 蘭学者緒方洪庵らが大阪で除痘館を開設する。
1849 嘉永2年11月 蘭学者伊東玄朴が佐賀藩より送られた痘苗で、江戸の藩邸で接種を行う。
1858 安政5 江戸の蘭方医が、神田お玉ヶ池に種痘所を開設する。
1861 文久1 種痘所が「西洋医学所」と改称される。
1868 明治1 旧幕府医学館が「種痘館」となる。
1885 明治18 種痘法の制定。
1885~87 明治18~20 天然痘が大流行。死者3万2千人。
1892~94 明治25~27 天然痘が大流行。死者2万4千人。
1896~97 明治29~30 天然痘が大流行。死者1万6千人。
中国の乾隆帝の勅により,呉謙ら医官が乾隆14年(1749)に刊行した『医宗金鑑』には、いわゆる旱苗法を描写した「種痘心法」がある。痘痂を粉末にし、これを銀管中に盛り鼻腔内に吹き入れる方法である。
人痘種痘法は17世紀前半以降、中国から日本に伝わったが、その危険性と不確かな成果のため、普及には至らなかった。
緒方春朔著『種痘必順辨』出版地不明、出版者不明、寛政7(1795)年刊。
〔九州大学附属図書館医学分館蔵〕
寛政元(1789)年、秋月藩の8代藩主長舒に召し抱えられた久留米藩医緒方元斉の養子春朔は、同年秋月で流行していた疱瘡に悩まされた。彼は『医宗金鑑』の第六十巻(「種痘心法要旨」)に見られる鼻旱苗法を改良し、「これを用いるに百発百中、応ぜざるは一つもなし」という独自の種痘法を開発した。翌年の流行でその方法の有用性を確認した春朔は『種痘必順辨』、『種痘緊轄』、『種痘證治録』を発表した。その後、彼の名は全国に知れわたり、九州各地、京都、江戸などから入門を希望する医師が秋月に集まった。春朔流の鼻旱苗法は種痘という概念の普及に大いに貢献し、後の牛痘種痘法が急速に受容される基盤と原動力となった。
種痘医列名(『種痘必順辨』より)
土州侍医 刈谷道悦 江戸芝住 服部玄通
同所侍医 寺田宗仙 江戸芝住 服部玄順
豊後臼杵侍医 北野梅菴 江戸西窪住 村井東養
石州津和野侍医 松尾榮菴 江戸芝住 中山三達
肥前唐津侍医 米津玄丈 肥前今町 平川玄龍
五島侍医 西川玄仙 肥前養父郡 田城春水
江戸西窪住 藤崎宗本 肥前養父郡飯田 高尾東陽
土州侍医 堀塲令仙 肥前長﨑島原町 高木某
備中成葉侍医 渡辺養順 江戸 小川祐軒
同所侍医 笹川周策 播州神道郡 後藤壽軒
肥後人吉侍医 高松耕節 肥前瓜生野驛 原泰民
勢州水口侍医 飯塚玄岱 筑前二日市 村山養性
五島侍医江戸住 大賀宗哲 江戸赤坂 生匕堂
同藩侍医 大賀宗倫
18世紀初頭、トルコ駐在イギリス公使夫人モンタギュ-(Lady Mary Wortley Montague, 1689-1762)は、軍外科医メイトランドに命じ、コンスタンチノ-ブルで観察した人痘種痘を自分の子どもに実施させた。それが成功したので、夫人は帰国後その普及を積極的にすすめ、とりわけ上流階級に大きな影響を与えた。1721年に、メイトランドはウェ-ルズ王女の依頼を受け、死刑を免除するという条件で死刑囚7名に種痘を行った。死亡例はなかったので、ドイツ、フランスなどの医師たちは症状の軽い天然痘患者の膿疱から抽出した液を健康な人に注射するようになった。しかし、予防効果がない、死亡者が出る、小流行が起こるなど、安全性の問題は決して小さくなかった。
牛痘を紹介したジェンナ-の名書『牛痘の原因および作用に関する研究』
An inquiry into the causes and effects of the variolae vaccinae : a disease discovered in some of the western counties of England, particularly Gloucestershire, and known by the name of the cow pox by Edward Jenner. London, Printed, for the author, by Sampson Low, 1798. 限定復刻版、1923年。
〔九州大学附属図書館医学分館蔵〕
イギリスの地方医師ジェンナ-(Edward Jenner, 1749-1823)は、牛痘(cow pox)にかかった者は天然痘にかからないという農民の話を聞き、一連の事例を追究した上で、1796年、健康な少年に牛痘接種を行った。回復した後に天然痘を接種したが、少年は天然痘にはかからなかった。翌年英国学士院に送った報告に対する反応は冷ややかだった。ジェンナ-は事例を増やし1798年に『牛痘の原因および作用に関する研究』という著書を自費で発表した)。このとき、ラテン語のvacca(牛)に基づきvaccine(痘苗、ワクチン)という用語が誕生した。以降、牛痘法は、短期間でヨ-ロッパ中に広まった。ジェンナ-はイギリス議会より賞金を贈られたが、医学界がこの控えめな田舎医師の歴史的功績を認めるまでにはかなり時間がかかった。
楢林宗建著『牛痘小考』出版地不明、出版者不明、嘉永2(1849)年刊(見返しに「得生軒藏」とあり)
〔九州大学附属図書館医学分館蔵〕
保赤牛痘菩薩。桑田和(立齋)著『牛痘發蒙』江戸、岡田屋嘉七、嘉永2(1849)序。
〔九州大学附属図書館医学分館蔵〕
牛に乗っている「保赤牛痘菩薩」は天然痘の悪鬼を踏み抑え、子供に慈悲の手を差し伸べている(「大慈大悲発願、衆生済度為心、従来保赤法如林、牛痘法是甚深」)。生涯に「十万児牛痘接種」を目指した小児医立齋(りゅうさい)は、念願を果たさずに慶応4年病没した。[2]
1823年来日した医師シ-ボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)は人痘種痘の実技を紹介したが、彼が試みた接種はうまくいかなかった。1848年来任した医師モ-ニケ(Otto Mohnike,1814-1887)は、1849年に長崎の阿蘭陀通詞会所に伝習所兼種痘所を置き、持参した牛痘苗で、阿蘭陀通詞兼蘭方医吉雄圭斎、長崎在住の佐賀藩医楢林宗建、長崎遊学中の水戸藩医柴田方庵などの協力を得て同年末までに391人に接種し成功した。先見の明を持つ蘭方医・蘭学者はこの画期的な予防接種に飛びついた。モ-ニケによってもたらされた牛痘は子供の腕から腕へ植えつけられ、短期間で長崎から、佐賀、大村、中津、広島、大阪、京都、江戸、佐倉、函館など全国各地に波及した。後の東京帝国大学医学部に発展する伊東玄朴の玉ヶ池種痘所、緒方洪庵が開設した除痘館などの新しい施設は、国内の医療制度に大きな影響を与えた。また、深川で小児科を開業した越後出身の医師桑田立斎(1811-1868)は、安政4(1857)年、天然痘の流行した蝦夷地に渉り、5150人に日本初の強制種痘を行った。
痲疹・麻疹
麻疹(ましん、はしか)は、Paramyxovirus morbilliというウイルスによる感染症の一種である。史上初の記述はペルシャの名医アル・ラジ(Al Rhazi / Rhazes, 860-925/35)によるものである。バグダッドの病院長を務めたアル・ラジは『痘瘡と痲疹』(al-Judari wa al-Hasbah)というヨ-ロッパでも広く普及した本において、その病状を詳細に描写し、初めて麻疹と痘瘡とを区別している。
日本での流行に関する記録は長徳4(998)年から始まる。史料に見られる赤斑瘡・赤瘡(アカモガサ)は痘瘡を指している場合があり、麻疹に該当する場合もある。江戸時代において麻疹は短い間隔で流行しており、一生に一度はかかる可能性がきわめて高かった。
江戸時代の麻疹流行
慶長12(1607)年 宝暦13(1763)年
元和2(1616)年 安永5(1776)年
慶安2(1649)年 天明2(1782)年
元禄3(1690)年 享和3(1803)年
宝永5(1708)年 文政7(1824)年
享保15(1730) 天保7(1836)年
文久2(1862)年
文久2年には江戸の死者が1万4千人を超えた。生き延びた患者は二度とかからないが、大人が麻疹にかかると症状が重い。
麻疹の疫病神はいなかったが、呪符を書いて家に貼るという麻疹除けが行われた。同様にタラヨウの葉、ひいらぎの葉や麦の穂が門口につるされた。また、百合の根、水飴、黒豆、小豆、アワビ、甘藷、人参、干し大根、焼き塩などを患者に薦める食事療法があり、酒、卵、蕎麦、蒲焼きなどは避けるべきとされた。
麻疹ウイルスが特定されたのは、1954年だった。ワクチンは1963年から市場に出ている。
漢方の湯薬、散薬などを薦める讃岐高松藩医橘尚賢(たちばなしょうけん)(?-1849)の著作。橘尚賢著『麻疹精要方』出版地不明、出版者不明、明和9(1772)年刊。
〔九州大学附属図書館医学分館蔵〕
新らしい区別を試みる18世紀末の医書。長沢良重(良重)著『麻疹療治指南』出版地不明、出版者不明。
〔九州大学附属図書館医学分館蔵〕
コレラ
コレラは、 Vibrio choleraeという菌を病原体とする経口感染症である。その名称は古代ギリシャの体液病理学の黄色胆汁に由来する。古い記録は紀元前300年頃に遡るが、世界的大流行が起こったのは19世紀に入ってからである。1817年以降、計6回にわたるアジア型の大流行があり多数の死者を出した。ドイツの細菌学者ロベルト・コッホ(Robert Koch, 1843-1910)が1884年にコレラ菌を発見し、その後防疫体制も強化されたので、20世紀に入ってから、コレラの発生の世界的拡大は阻止できた。
文政5(1822)年に発生した日本初のコレラは九州から東海道に及んだものの、江戸に達することはなかった。3回目の世界的流行は再び日本に波及し、安政5(1858)年から3年にわたり全国各地を襲った。明治に入っても2~3年間隔でコレラの流行が続き、1879年、1886年には死者が10万人を超えた。
緒方洪庵訳述「虎狼痢治準」書写地不明、書写者不明、書写年不明。
〔九州大学附属図書館医学分館蔵〕
緒方洪庵(1810-1863)は、備中足守藩士の子として生まれ、医学を志した。大坂で中天遊に、江戸で坪井信道、宇田川玄真に学び、また長崎に遊学した。その後大坂で蘭学塾「適塾」を開いて後進の指導に当たった。この適塾から幕末、明治にかけて活躍した大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内、大鳥圭介、長与専斎等が輩出した。一方洪庵は種痘法の導入、普及に尽力し、大坂に除痘館を設け、分苗を行った。
また、コレラ流行の安政5年にはいち早くそれに関する医書を刊行するなどして啓蒙を図った。文久2(1862)年、幕府に召し出され、奥医師兼西洋医学所頭取となり、法眼に叙せられたが在職僅か10ヶ月で死去した。
霍乱は激しい下痢や嘔吐を伴う病気として理解されており、今日の急性腸炎・赤痢などを含む古い名称であるが、19世紀にはコレラの別名として用いられることが多かった。
コレラの漢方治療要綱。
尾臺良作著『霍乱治略』江戸、山城屋佐兵衛梓行、元治元(1864)年刊。
〔九州大学附属図書館医学分館蔵〕