井筒俊彦
https://www.keio.ac.jp/ja/keio-times/features/2021/4/ 【東西の知を操る異才 井筒俊彦】より
イスラーム教の聖典『コーラン』の岩波文庫版の翻訳者として知られる井筒俊彦は、慶應義塾大学で学び、教員も務めた。井筒はイスラーム研究のみならず、東洋思想・神秘主義哲学研究、30以上の言語を使いこなす言語学者・語学の天才として不朽の業績を残している。学問分野と言語を自由に往来しながら膨大な知識を操る知の巨人、井筒俊彦。その足跡をたどる。
学究としての運命を決めた師・西脇順三郎との出会い
欧州で第一次世界大戦が勃発した1914年、井筒俊彦は東京市四谷区(現・新宿区)に生まれた。在家の禅修行者だった父の指導で、子どもの頃から禅に関する書籍を読み、座禅をして瞑想するなど禅思想に親しんだ。
その後、入学した青山学院中等部でキリスト教と出会い、幼少より培われた禅思想を覆すその教えに当初は激しい違和感を覚えながらもやがて関心が芽生える。詩人論を書く批評家でもあった井筒は、この頃から慶應義塾大学文学部教授だった西脇順三郎の作品を愛読していた。
1931年に慶應義塾大学予科に入学。当初は父に従って経済学部に進むが、文学への思いを捨てきれず文学部英文科に転じ、西脇に師事した。井筒は師との初めての出会いを「飄々と歩くその人自身の姿を、三田山上に、はじめて見たとき、私の心は躍った」と語り、「西脇先生を生涯ただひとりの我が師と思っている」と述懐している。
卓越した語学力と知への情熱で慶應義塾から世界に羽ばたく
大学卒業後の井筒は助手として西脇を支えた。卓越した語学力を認められて、西脇らの提唱で1942年に設立された語学研究所(のちに言語文化研究所)研究員、外国語学校主事に就任。イスラーム思想史やギリシア神秘哲学の研究に取り組みながら、文学部でロシア文学を、外国語学校ではギリシア語、ヘブライ語、アラビア語、ヒンドスターニー語など複数の語学を教えていた。
1954年には文学部教授に就任し、それまで西脇が担当していた「言語学概論」を受け持った。その斬新な講義内容は人気が高く、早く行かないと席がなくなってしまうことで有名だった。当時受講生の一人だった文芸評論家の江藤淳は「これほど毎回のように知的昂奮を覚える授業はなかった」と講義の印象を語っている。後年、井筒は講義内容を英文の著作『言語と呪術』としてまとめている。
1959年、井筒は45歳にして初めて海外渡航した。ロックフェラー財団の奨学金を得て、2年間にわたってレバノン、エジプト、ドイツ、フランス、カナダなどのイスラーム研究拠点を訪問。この時、縁ができたカナダ・マギル大学に1961年から客員教授として招聘された。1967年からは東西の哲学、宗教、芸術、科学を包含する学際的な会合「エラノス会議」に参加するようになる。各界を代表する人物が講演者として招聘されるこの会議で、井筒は東洋哲学や宗教に関する多くの講演を行った。
井筒俊彦のスピリットはいまも慶應義塾に息づいている
1969年、井筒は正式にマギル大学教授となり、慶應義塾大学教授を退任。マギル大学がイスラーム学研究所テヘラン支部を開設したことに伴い、イランの首都テヘランに移住した。王立アカデミー教授を経て、1979年のイラン革命によって日本に帰国。井筒の著作はほとんど英文で書かれていたが、帰国後は日本語での著述活動に専念。1993年に自宅があった鎌倉で亡くなるまで、『イスラーム文化-その根柢にあるもの』などの著書を残した。
井筒が鎌倉の家に残した旧蔵書コレクションは、現在、慶應義塾大学三田メディアセンターに移管されている。その数は和漢書と洋書合わせて約1万冊、アラビア語の資料は約3700冊を数え、その中にはイラン国外でめったに見ることができないイラン石版本90点など非常に貴重な資料も含まれている。
慶應義塾大学文学部創設125年の2015年、文学部は西脇順三郎と井筒俊彦の師弟の名を冠した研究奨励賞を設置した。このうち「井筒俊彦学術賞」は、広大な学問分野と言語フィールドで不朽の実績を残した井筒の名にふさわしく哲学、倫理学、歴史学、民族学考古学、図書館・情報学、社会学、心理学、教育学、人間科学に及ぶ幅広いフィールドの新進気鋭の研究者に授与され、井筒俊彦のスピリットを受け継ぐ21世紀の碩学の誕生を応援している。
https://www.keio-up.co.jp/kup/sp/izutsu/doc/x2y5.html 【神秘主義と神秘道】より
しんぴしゅぎとしんぴどう
井筒俊彦の文章は決して難解ではない。論旨は明快である。私たちが踏み留まることを強いられるのは、文脈ではなく、彼独自の術語の前なのである。術語の表記が難しいのではない。コトバ、意識、文化、意味など彼が選ぶ表現もむしろ平易だといっていい。問題は意味の広がりと深さ、あるいは多層的次元に波及する力動性にある。ことに若いときの論考はそうだ。
『神秘哲学』(1949年)はその典型。表現者としての出発点となったと彼自身がいう、この著作を読み始めると読者は、まず鍵概念の反芻を求められる。最重要な術語の一つが「神秘道」である。
この一語を井筒俊彦は「神秘主義」と別に用いる。命題が神秘である以上、別な意味というのは存在の位相もまた異なることを指し示している。
「神秘道」という言葉も見慣れない表現だが、この一語を中核的術語として、最初に、かつ積極的に用いたのは井筒俊彦ではない。柳宗悦だったと私は思う。最初期の作品「即如」で彼はいう。「芸術にとって主義は堕落であった。宗教にとっても流派は凝固であった。形式は生命を拘束する」。
私たちは「総ての手段を絶し介在を破って直ちに即如に触れねばならぬ」、「即如」とは超越的絶対者の呼称。「主義」は超越者との接近を妨げる。また、神秘主義という言葉も、元来は「嘲る者が与えた侮蔑の意に萌した言葉」(「神秘道の弁明」)に過ぎない。「人は自ら神秘家である」、その本来の自己に還る道を「神秘道」と称する、と彼はいうのである。
井筒俊彦が著述で、柳宗悦に触れたのは一度だけ。しかし、蔵書には、若き日に読んだと思われる『宗教的奇跡』、『宗教の理解』、『宗教とその真理』がある。
3冊とも柳宗悦が民芸に出会う以前、世が彼を白樺派の文人、宗教哲学者として認めていたころの著作である。柳宗悦初期の作品を読むと、井筒俊彦の思想的近似に驚く。
もちろん、影響を受容したのは井筒俊彦である。おそらく柳宗悦は井筒俊彦を知らない。
柳宗悦が仏教の卓越した解読者だったことは改めて論じるまでもない。鈴木大拙が後継者に選び、柳宗悦自身もそれを了承していた。彼は古代中国思想、儒教、あるいは老荘にも独自の見解を持つ思想家であり、その筆はスーフィズム、ペルシアの詩人ルーミーやジャーミーまで及んでいる。
柳宗悦がキリスト教、ことに神秘主義の理解において近代日本、屈指の人物だったことはさらに論じられていい。「種々たる宗教的否定」には、アウグスティヌス、エリウゲナ、トマス・アクィナス、中世ドイツの神秘家マイスター・エックハルトとその弟子ゾイゼとタウラーを経て、カルメル会の基盤をつくった十字架上のヨハネに触れている。井筒俊彦が『神秘哲学』で言及したキリスト教思想家に重なり合う。柳宗悦がこれを書いたのは『神秘哲学』刊行の30年以上前である。
二人の間には、時代的精神の共鳴というだけでは済ますことできない影響の受容がある。「神は人に飢え人は神に飢える。あふれ出る霊の叫びは神が神を呼ぶ叫びである」(「種々なる宗教的否定」)。井筒俊彦が、柳宗悦に発見した最も真摯な事実、すなわち、神秘的経験の主体という命題に他ならない。
『神秘哲学』の第一章は「自然神秘主義の主体」と題されている。冒頭、井筒俊彦はいう。
神秘主義的体験は個人的人間の意識現象ではなく、知性の極限に於いて知性が知性自らをも越えた絶空のうちに、忽然として顕現する絶対的超越者の自覚なのである。
神秘体験とは人間が神を見ることではない、神が神を見ることだというのである。柳宗悦の言葉と深遠な符号があるのは偶然ではない。
https://www.keio-up.co.jp/kup/sp/izutsu/doc/x7y3.html 【司馬遼太郎】より
しばりょうたろう
1923(大正12)年-1997(平成8)年大阪府大阪市生まれ。大阪外語大学蒙古語科を卒業。第二次世界大戦(太平洋戦争)には予備士官として満州に従軍。復員後は産経新聞の記者となる。1959(昭和34)年『梟の城』により直木賞を受賞。1966(昭和41)年『竜馬がゆく』などにより菊地寛賞を受賞。1976(昭和51)年『空海の風景』で芸術院恩賜賞。1982(昭和57)年朝日賞を受賞。同じ年、井筒俊彦も同賞を受賞。授賞式で2人ははじめてあった。1988(昭和62)年『韃靼疾風録』で大仏次郎賞。1992(平成4)年文化功労者。同年、井筒俊彦との対談「二十世紀の闇と光」。1994(平成6)年文化勲章受章。日本芸術院会員。小説家としてだけでなく、紀行文『街道をゆく』、『この国のかたち』に代表されるエッセイ、講演では文明、思想、宗教、芸術、歴史、文化を包括的に活写、論究した。
台湾・高雄のホテルの玄関に、いるはずのない人が立っている。「井筒先生がおなくなりになりました」と中央公論社の山形真功はいった。隣にいた陳舜臣の表情がゆがみ、顔色がかわったと司馬遼太郎は書いている。
編集者がわざわざ足を運んだのは、司馬遼太郎に追悼文を依頼するためだった。雑誌『中央公論』の企画で井筒俊彦との対談「二十世紀の闇と光」が行われたのは1992年の晩秋、井筒俊彦が亡くなったのが翌年の1月13日だった。司馬遼太郎は、井筒俊彦が公の場で会った最後の人物になった。井筒俊彦夫人の井筒豊子が書いた小説の題名「アラベスク」をそのまま用いて司馬遼太郎は「誄詞(るいし)」を書いた。
井筒俊彦には9つの対談が残っているが、司馬遼太郎とのそれは最も刺激的なもののひとつである。2人は、対談を予期していたかのように、相互の作品を読んでいた。
司馬遼太郎が相手だから井筒俊彦も口を開いたのだろう。自分を語ることに慎重だった井筒俊彦が、青春の日に見たヴィジョンを思い出すように、イスラームとの機縁とその周辺にいた人々を語った。大川周明との関係に井筒俊彦が言及したものこの対談が初めてだった。
対談は、しばらくすると空海論に至る。司馬遼太郎に長編『空海の風景』があり、井筒俊彦には「言語哲学としての真言」、「意味分節理論と空海」といった論考がある。意識論と存在論が重層的に絡みつつ、井筒俊彦の「コトバ」の哲学が大きく展開を見せ始めるのは、『意識と本質』での空海論からだった。
井筒 私は、空海の真言密教とプラトニズムとのあいだには思想的構造上のメトニミィ関係が成立するだけじゃなくて、実際に歴史的にギリシア思想の影響もあるんじゃないかと考えているんです。
司馬 長安に入った空海は、当然なことですけども、ネストリアンのキリスト教の教会は見たらしいですし、ゾロアスター教の火のお祭りも見たはずです。ですから当然、プラトン的なものが来ていないということはいえませんですね。
井筒 いえません。絶対にいえないと思います。
永年修行していた中国僧を横に、突然日本から来た空海が恵果から真言密教の奥義を伝授されるまで、1年の歳月は必要なかった。そんな彼は、景教、新プラトン主義、拝火教の核たる思想を摂取するのにそんなに時間は必要ない、という互いの認識は双方にとって当然のことだったのだろう。対談での発言は省略されている。
2人に再び、言葉を交える機会があり、空海を巡る対話が行われたなら、私たちは、井筒俊彦における「東洋」の、小説家司馬遼太郎の原体験をさらにつまびらかに目撃したかもしれない。司馬遼太郎初期の小説「兜卒天の巡礼」で彼が書いたのは、景教が日本に伝来していたという話である。空海は登場しないが、語られる歴史に潜んでいる。中国・西安にある景教伝来の事実を刻んだ石碑「大秦景教流行中国碑」を模したものが、何かの機縁を証するように、今も空海が建てた金剛峰寺にある。
私にとってすばらしい体験だったのは、対談がおわっても井筒さんから受けたリズムが体のなかで鳴ることをやめなかったことである。年を越してもなお消えなかった。さらには正月早々、台北から高雄のマイクロバスのなかでふと鳴りはじめ、その果てに、訃を聞いた。
「アラベスク」にある1節である。司馬遼太郎が、井筒俊彦に何を感じていたかを伺わせるだけでなく、井筒俊彦が何故、司馬遼太郎を前に自らの原点を語り始めたのかを感じることができるだろう。司馬遼太郎という小説家は、人間に、歴史に、場所に事実の痕跡を見、洞察するだけでなく、それが放つ波動、声ならぬ声を読み解くことができる人物だった。