日常のある危険な話
その男は名詞も出さなかった。
貴金属を査定する時、電卓も使わなかった。
逃げるように先を急いでいた。「この後行くところがありますから」
彼らが家を辞するときちょうど家人が帰ってきたのだが、ろくに挨拶さえしなかった。
そのとき、片方の男の靴下に穴が開いているのが見えた。
そもそも、家になんて、上げるべきではなかった。
「お家に眠っている切れたネックレスなどはありませんか。高く買い取らせてもらいます」
「シルバーくらいしかないですよ・・シルバーじゃ大した額にならないでしょう」
その男のおどおどとした雰囲気に、彼女は心理的に優位に立ったかに思った。しかし、その男は気弱そうに見えて強引だった。シルバーで構いません、今キャンペーンをやっていて私もポイント制でしているものですから・・・なんとかお願いします、と言いながら、開けてしまった玄関から立ち去る気配を見せなかった。
彼女も、そういえば引き出しに眠っているシルバーの切れちゃったネックレス、持ってってもらうならそのほうがいいかな、とちらと頭を掠めたのがいけなかった。
セールスなんて普段家になど入れないのに、この暑さに汗を噴出させている男が気の毒に思えたのか、その午後は約束していたランチがキャンセルになって、暇を持て余していたのもいけなかったのか。
気弱そうな男が提示したティッシュペーパー3箱につられたわけじゃないのだけど、他にも要らないものがあったかも、とアクセサリーボックスを取りに行く間、
もうひとりの押し出しの強そうな太った男が秤と称するものを持って現れた。
玄関先も暑いからと、彼女は男たちをリビングに上げてしまった。
あれやこれやと見せているうち、シルバーだけのつもりが巧みな話術によって、切れたシルバーのチェーン数点と、そうと気づかぬままうっかりプラチナの指輪を渡してしまった。後から現れた見るからに強引そうな男は、最初、「金はありませんか」と、彼女の夫の結婚指輪に狙いをつけた様子だった。確かに夫は結婚指輪なんて結婚式以来はめた様子がないのだけれど・・流石に出せないわ、と断ると、ボックスの中を物色し、そのプラチナを指差したのだった。そのとき指輪の材質に彼女は思いを至らせず、それはちょっとデザインが気に入らないの、と正直に言ってしまった。男はすぐに手に取り、そそくさと秤に乗せた。それまでシルバーやら金メッキやらの話をしていたのに、この指輪については材質に関することを言わなかった。
その指輪を含めて後は玩具のようなアクセサリーを袋にしまうと、男は数千円を差し出した。思わぬお小遣いだわ、と彼女はのんびり思った。
そこで気弱なほうを残し、太った男は先に行ってしまった。買取の書類にサインをして男を送り出すうちに彼女の頭に、あれは確かだいぶ前に、親戚の知り合いの宝石商からつきあいで買わされた1点ではなかったかと思い当たったが、男は挨拶もそこそこに慌てて辞去してしまった。もう10年以上も使っていなくて、忘れていたのだ。
あー、馬鹿なことをしてしまった、と思ったのも後の祭りで、サインをしている以上契約は成立している。詐欺と言うわけにもいかないし、名刺ももらわず氏素性もわからない相手を探すこともできない。疑えばきりがない。泥棒の下見かもしれないのだ。
まあ、あの指輪が○○万円だったとしても、正規に売るとしたって何万円かだろう。悔しいけれど悔やんでも仕方がない、自分がいけなかったのだ。ひとを呪わば穴二つだけれど彼らにはきっといいこともないだろう。高い勉強をした、と、彼女は思うことにした。
なにかが彼女の警戒心を緩めてしまったのかは別として、教訓。
「知らない人についていってはいけません」