「広い心」
2017年7月23日
「フィリピの信徒への手紙4章2節-9節
教会とは何にか。
キリスト教とは何か。
短い聖書の箇所だが、その要所がここには記されている。
「私に習うものになりなさ」。
自分を手本にしろとパウロは語る。
立派な、自信に満ちた言葉。
なかなか言えるものではないが、これは教会の本質を表している。
教会の使命、伝道。
これはどこかの立派な言葉を宣伝することではない。
生の人間を見せること。
生きている私を見せること。
それが教会の使命となる。
こんな私を見せて何になるのか。
誰しもが思う。
パウロが私を見ろと言う。
その直前、パウロは自分の経歴について語る。
立派なもの、誰もが羨むもの。
それを語り、それは邪魔だと打ち捨てる。
人に見せるものは立派なものではない。
では何を見せるのか。
パウロは喜べと語る。
喜んでいる私、それを見ろと言うことなのであろう。
だが、どうやって人は喜ぶことができるのか。
「思い悩むな」とパウロは言う。
思いを全部、神に打ち明けろと言う。
思い悩みとは何か。
私が直面していながら、私にはどうすることも出にないもの。
私が頑張らなくてはならないのに、私にはどうすることもできない。
解決できないものを無理だ、無理だと思いつつ、抱え込む。
思い悩みとは抱え込みこと、握りしめてしまうこと。
思いを全部神に打ち開けろ。
言葉を変えれば、全部を神に任せてしまえ。
神が仕上げてくれると信じて、ダメならダメでいいではないかと受け入れていく。
あなたが抱え込まなくても、握りしめなくても、世界も、あなたも大丈夫。
立派な経歴、かかえ込むものなどいらない。
パウロはキリストと出会って発見したこと。
律法は元々、そのことを言っていたのだと分かった時、パウロは軽くなれた。
嬉しくなった。
いつも喜んでいられるようになった。
「神の平和」。
繰り返しでてくる。
平和は握りしめて与えられるものではない。
武器に、決まりにすがりついて出来るものではない。
何にも怯えない、信じる広い心が平和をつくる。
平和を実現するものは幸いである。
その人たちは神の子と呼ばれるであろう。
教会とは何か。
広い心を世に現していくもの。