「海洋国家オランダのアジア進出と日本」2 徳川家康
大坂城でアダムスらを引見した五大老首座の徳川家康は、執拗に処刑を要求するポルトガルの宣教師らを黙殺。数回の下問ののちアダムズを外交顧問として重用し、江戸日本橋に屋敷を、また相模三浦郡逸見(へみ)に250石の知行地を与えた。三浦に領地を持つ水先案内人、つまり三浦按針である。家康は幕臣の馬込勘解由(かげゆ)の娘も与えている。アダムズは、主君となった家康に忠義を尽くした。外交問題について助言を行い、求められるままに2隻の西洋船を建造し、数学・幾何学の知識も教えた。リーフデ号の生き残った乗組員の一人、オランダ人航海士のヤン・ヨーステンも家康に仕えた。東南アジア方面との朱印船貿易に活躍し、「耶揚子」(「ヤンヨース」または「ヤヨス」)の通称で呼ばれた。「八重洲」(やえす)の地名は彼の名に由来する。
家康が、商売敵のオランダ人に激しい敵愾心を抱くポルトガル人の讒言を安易に信じて、アダムズやヤン・ヨーステンらを「海賊」として処刑していたら、その後の平戸や長崎での日蘭貿易も、蘭学の隆盛もいっさいなかったかもしれない。日本の西欧化・近代化も様相を異にしていたに違いない。アダムズやヤン・ヨーステンらの異文化への適応力、賢明な身の処し方も要因だったろうが、なんと言っても家康の視野の広さとバランス感覚、アダムズらへの新任の厚さなどが賢明な判断を生んだ。そして、そのことがその後の日本とオランダとの関係を決定づけたのである。永積昭『オランダ東インド会社』には、次のような記述があるが全く同感。
「徳川家康は、全生涯を通じてアングロ=サクソン流の「分割して統治せよ」の原理に忠実だった人物といえる。今やスペインに叛旗をひるがえし、アジア海域ではポルトガルと砲火をまじえるオランダの出現が、いわば絶好の抗毒素として彼の注目をひかなかったはずがない。スペイン人やポルトガル人は日本に会う毎にオランダ人を中傷し、海賊国民だと罵っているが、家康は一向に意に介していない。」
ところで、オランダ東インド会社が設立されたのは、リーフデ号漂着の2年後の1602年。翌年にはマレー半島の東岸のパタニにオランダ商館が開かれた。この知らせはすぐに江戸に伝わり、1605年、リーフデ号の船長だったヤーコプ・ヤンソーン・クワーケルナークは帰国をめざしてマレー半島に至り(この時、彼が乗っていたのは平戸松浦家の鎮信【法印】が派遣した朱印船。松浦家の貿易主義をよく踏襲した鎮信は、1605年、江戸幕府より南洋渡航の朱印状を得てこの朱印船を派遣した。)、設立されたばかりの東インド会社に徳川家康の書簡(日本での貿易開設を許可したい旨書かれていた)を手渡すことに成功する。これはオランダへ送付され、1606年2月、オランダ東インド会社は日本との通商を決定。時のオランダの軍事指導者オラニエ公マウリッツの返書を携えた二隻の船を日本に派遣し、1609年、それが平戸に到着した。
オランダ人使節は、駿府の徳川家康に謁見し、通商許可の朱印状を受け取る。平戸に戻った使節は、平戸にオランダ商館を開設することにし、初代商館長としてジャックス・スペックスを任命(この時24歳。初代長官:1609年~13年、3代目長官:1614年~21年)。この時から長崎出島に移転させられる1641年まで、オランダ商館は平戸で活動する。アダムスは、オランダ商館が活躍しやすいように尽力したようだ。
さて平戸に商館は開かれたものの、オランダ船はその年も翌年も入港しなかった。スペックスはみずからパタニ商館におもむいたりして、オランダ船の誘致に奔走。その尽力の甲斐もあって(駿府の家康もオランダ人に好意を示した)、オランダ本国の「十七人会」(オランダ東インド会社の最高経営会議)は日本貿易に深い関心を示し、日本向けの商品を定期的に送るようになり、その最初の便船が1612年8月に平戸に到着。これ以後貿易は順調に拡大した。しかし、オランダの日本貿易の前に立ちふさがったのがイギリス。家康の側近としてオランダ貿易の便宜を計ってきたアダムズも、実は自国人の日本進出を心から望んでいた。オランダはどうやってイギリスに勝利していったのか?
オランダ東インド会社の事務所だったアムステルダムの「東インド館」(Oost-Indisch Huis)の復元された会議室 17人会は8年周期のうち、6年はアムステルダムで開催
「ジャック・スペックス」アムステルダム国立美術館
「ジャック・スペックス像」歴史の道 平戸
「松浦鎮信(法印)」松浦史料博物館
「徳川家康」