蕪村の俳諧と絵画
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
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これは与謝蕪村の辞世である。天明三年(一七八三)十二月二十五日未明、高井几董らの門弟が見守るなか、京都仏光寺通りの自宅にて蕪村は安らかに息を引き 取った。追悼集『から檜葉』によれば、蕪村は掲句を吟じ終えた後、両目を閉じて「今ぞ世を辞すべきの時なり、夜はまだ深きや」と問うたとされているから、 実際には夜明け前であったらしい。しかし、未だ夜が明けぬ内に蕪村は薄れゆく意識の中で仄仄と明けてゆく暁の光のなかに包まれていたのである。
「梅」は蕪村が好んだ俳諧の季題であるが、池大雅と並んで南画の大家でもあった彼は絵画においても『梅花図』や『紅白梅図屏風』などやはり梅 を描いた傑作を遺している。もっとも、春寒料峭のなか他に先駆けて咲く梅は艱難を克服して自らの信じる道を突き進む君子の象徴として古くから中国や日本の 伝統的芸術の素材となって来た。蕪村が三十歳の時に描いた『梅花図』における梅の木はまさにそのような気概を感じさせる直線的な枝振りを見ることが出来 る。しかし、最晩年に描かれた『紅白梅図屏風』における梅の木には、寒風に撓みながらも、それに身を任せて無為自然に生き抜くしなやかさが感じられる。
さて、蕪村にとっての最初にして最大の艱難は父親の不在であった。口碑によれば、蕪村の母が名主の家に奉公に上がっていたときに主人の子を身 ごもり生まれたのが蕪村であると云う。一方、几董の「夜半翁終焉記」の草稿には、蕪村は難波津近辺の名主の家に生まれたが、間もなく散財し一家離散したこ とが書かれている。また、「堤ヨリ下リテ芳草ヲ摘メバ、荊ト棘ト路ヲ塞グ。荊棘何ゾ無情ナル」という故郷を詠んだ『春風馬堤曲』の情景は、私生児として、 おそらく父親の愛情を十分に受けることがなかったと思われる幼き蕪村の境遇や養父・夜半亭宋阿(早野巴人)に死に別れたあと北関東を放浪した若き日の僧 形・宰鳥(のちの蕪村)が見た鬼怒川河畔の光景とも重なり合う。いずれにしても、父親の不在ということが、終生、蕪村に自らのアイデンティティーの危機を 突きつけることになったのだと思う。
そうした出自への疑問は、必然的に「存在」とは何かという根源的な問題へと結び付く。<葱買て枯木の中を帰りけり>では、まさに空草とも言わ れる「葱」やがらんどうとした「枯木」に「存在」の空しさが、そして<こがらしや覗いて逃る淵の色>では、底なし沼のような「存在」の不可思 議が暗示される。しかし、この空虚へと吸い込まれそうになる精神エネルギーの創造的エネルギーへの転換こそが、実は蕪村における芸術活動の発条であったの だと思う。
闇夜漁舟図・蕪村筆 逸翁美術館蔵
蕪村の名筆『闇夜漁舟図』には、闇夜の川に舟を浮かべて魚を捕る父子が描かれている。そして、舟の真ん中に置かれた篝火からは一条の真っ白い烟が立ち上っ ており、遠方には夫子の帰りを待つ漁師の妻が住むらしき家が窓から燈火を漏らしている。まさに闇夜に吸い込まれそうになりながらも立ち上る一条の白い烟こ そ蕪村が求め続けた父性だったのではないだろうか。そして、この父性の欠如という無限の暗闇に立ち現れる「光」のような白い烟こそが『闇夜漁舟図』という 芸術的昇華を現前させたのである。また『闇夜漁舟図』の烟と同様に『鳶鴉図』や『蛾眉露頂図巻』における塗り残しによる雪月の表現にもまた墨という暗黒に 裏打ちされた真の「存在」としての「光」を見ることが出来る。
さて、蕪村が生まれる約二六〇年前、レオナルド・ダ・ヴィンチもまた私生児として生まれている。ダ・ヴィンチの父セル・ピエーロはイタリア中部にあるヴィ ンチ村の名家出身でありフィレンチェで公証人を務めていた。ダ・ヴィンチの母カテリーナは樵の娘と云われているが詳細は不明である。ダ・ヴィンチは幼い 頃、父方の家に引き取られ代父と代母によって私生児であっても温かく養育されたとされている。しかし、「鳶について詳細に書くことは、私の運命であったよ うな気がする。というのも、これは私の幼年時代の最初の記憶なのだが、私が揺りかごの中にいた時、一羽の鳶がやって来て、尾で私の口を開け、何度も口の内 側をその尾で打ったように思われるからである。」(「アトランティコ手稿」)というダ・ヴィンチが語る「鳶」の尾による打擲は、蕪村が詠んだ「荊の棘」の 痛みに通じるものがあるように思われる。S・フロイトも指摘しているように、ダ・ヴィンチも蕪村と同じく、幼くして両親と離別したことや父母への愛憎が抑圧となり、それが芸術的創造エネルギーとしてブレイク・スルーしたのではないだろうか。
前述した蕪村の『鳶鴉図』は右幅に鳶、左幅に鴉を描いた傑作である。鋭い爪で枝を掴み、きっと眸を見開いて時雨の中に佇む鳶はまさに父性を、一方、降り続 く雪の中に二羽肩を寄せ合うように枝に止まる鴉はまさに母性を示しているかのようである。この「動」と「静」あるいは「父性」と「母性」というアンビバレ ント(両面感情的)な感情はフロイトが言う口唇期の特徴をも示すものである。このことはまさにダ・ヴィンチの口唇を打擲する「鳶」のイメージと重なり合 う。このような無意識的な心的機制が蕪村とダ・ヴィンチの人格形成と芸術的資質に深く関わっていることは間違いないだろう。
鳶鴉図・蕪村筆 (重文) 北村美術館蔵
『鳶鴉図』は、向井去来の〈鳶の羽も刷ぬはつ時雨〉と芭蕉の〈日ころ憎き烏も雪の旦かな〉に影響を受けていることはすでに河野元昭氏によって指摘されてい る。蕪村は芭蕉を崇拝し蕉風の後継を自負していたが、これは蕪村が欠落した父性を蕉風という芸術的創造性という形で回復しようとしたことの表れではないか と思われる。しかし、芭蕉がストイックに俳諧一筋だったのに対して、蕪村は俳諧そして画業において多能多才な芸術的創造を成し遂げるのである。もっとも、 蕪村が生きた時代は、小説家であり国学者、歌人でもあった上田秋成や本草学者、戯作者でありエレキテルで有名な平賀源内など傑出した多能多才な人物が多く いた時期であり、これらの人々の出現は江戸後期という一時代の終焉に近い混沌として爛熟した時代の要請だったのかもしれない。芭蕉が漂白の俳人として旅に 死んだのに対して、蕪村はその後半生を京に定住し、吉野の花を楽しみ、老いらくの恋に身を焦がし、ついに京で死んだのである。こうした蕪村の生き様は、芭 蕉に父性を求めながらも、決してそれの模倣に終わらず、その父性をも超越してエピクロス的芸術性の開花をもたらしたのである。蕪村の辞世における「しら 梅」こそ、俗にあって俗を絶った蕪村が行き着いた無為自然なる境地に咲く絶対肯定という「光」の美学を象徴しているのではないだろうか。芭蕉も蕪村も『荘 子』に傾倒していたことは周知だが、まさにそれは荘子が説く「葆光」つまり明暗という二元論的観念をも包摂して自化自生する「光」によって真実を観照する のである。
一方、ダ・ヴィンチの代表作である『モナ・リザ』において、その背景に描かれた朧気な山岳が東洋思想との交流を忍ばせる超現実的な自然観と深遠な人間観との和合がダ・ヴィンチの芸術精神を集約していると上平貢氏は指摘している。このことはまさに前述した蕪村における老荘思想における一元的な真実の在り方を ダ・ヴィンチも直感していたことを示すものである。例えば、『モナ・リザ』における男女両性や聖と俗の両極的評価あるいはフィリスという娼婦がアリストテ レスに馬乗りになっている寓意画に象徴される欲望と理性など、相矛盾するものを和合させる対位法的手法がダ・ヴィンチの作品にしばしば見られることが知ら れている。ダ・ヴィンチはこうしたアンビバレントな二元論的観念を作品化することによって、それらを俯瞰する超越した視点を獲得していったのではないだろ うか。そうした世の中の善悪、美醜、そして生死までも超越しようとする情熱が、ついに鳥の翼を模した人工翼による「羽ばたき飛行機」の製作といった途方も ない試みへと繋がっていったのかもしれない。これはまさに翼を持った「鳶」に象徴される父性をダ・ヴィンチが追い求めた顛末のように私には思われる。そし て、後年、ダ・ヴィンチは「私は生を学ぶつもりであったのに、死を学んだ」と言っているが、これもまたダ・ヴィンチ流のアイロニーと受け取ることが出来 る。つまり「死」を学び「生死」を超えて真の「生」を知ったということなのではないだろうか。
初出 : 「俳句現代」2001.3 角川春樹事務所
「宰鳥句碑」です。 宰鳥(さいちょう)とは与謝蕪村のことです。
句碑には
「鶏は羽にはつねをうつの宮柱 宰鳥」 と刻んでありました。
<鶏は羽にはつねをうつの宮柱>に続く句は<古庭に鶯啼きぬ日もすがら>です。芭蕉の「古池の蛙」に対して「古庭の鶯」、水の音の刹那に対して鶯の声の常住で対応しています。エピキュロス的な蕪村の特質が顕れていますね。