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蕪村

2023.12.25 02:12

ウィキペディアより              ホーム

摂津国東成郡毛馬村(けまむら)(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。だがそれ以上の詳しいことはわかっていない。 20歳の頃、江戸に下り、早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事し俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。俳諧の祖・松永貞徳から始まり、俳句を作ることへの強い憧れを見る。しかし江戸の俳壇は低俗化していた。 寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。その際の手記で寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。 その後、丹後を歴遊し42歳の頃京都に居を構えた。この頃与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。45歳頃に結婚し一人娘くのを儲けた。51歳には妻子を京都に残して讃岐に赴き、多くの作品を手掛ける[1]。再び京都に戻った後、島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。 京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている[2]。辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。


蕪村筆 俳画 自画賛(岩くらの狂女恋せよほととぎす)

夜色楼台図(国宝)

十宜図のうち宜暁図(国宝)

かわたれの墨の香りや蕪村の忌  高資ー 場所: 京都市


宝暦元年(1751年)「蕪村」は結城を離れ、丹後、讃岐などを歴遊し42歳頃京都に居を構えます。そして「与謝」の姓を名乗り、妻帯し一人娘も生まれ、「画人」としての才を振るい多くの素晴らしい作品を残し、また「俳人」として大きく花開き、その名が広く知れわたります。 俳句と画が渾然一体の 独自の新境地を拓いた与謝蕪村。 生涯の大半を旅に明け暮れ、 漂泊を創作の糧とした蕪村。 天明3年12月25日(1784年1月17日)京都で68歳で亡くなります。


ご存じのように蕪村の生まれは大坂の毛馬村ですが、師の夜半亭巴人が烏山藩出身ということもあり、十年間ほど関東を遊歴しています。

寛保かんぽう2年(1742年)秋、師「夜半亭宗阿」を亡くした27歳の若い「宰鳥」は「砂岡雁宕」を頼り、結城を訪れます。 

これから後約10年間、「砂岡雁宕」宅に寓居し、その後は「弘経寺」内に庵を設けそこに住むのです。こうして結城に住まうようになった「宰鳥」は、その間、結城在住の俳友《(砂岡雁宕)をはじめ「 早見晋我」晋我の子「桃彦」、他》 や下館在住の中村 風篁、 下総国関宿(現・千葉県野田市関宿)在住の俳友と句会を開いたり、「絵」を描いたり、 中国明の画家「 文徴明」の絵「八勝図巻」の模写で明け暮れます。

結城の弘経寺には、客殿襖4枚の表裏に淡彩の梅花、山水両図、帯戸2枚に極彩色の松樹と鳳凰の絵が残されています(茨城県文化財指定)。


俳句を作り絵を描き近郷近在を逍遥し、時として旅に出るというこの結城での暮らし10年間は、蕪村にとっては多感な青年時代。様々な面で「蕪村」という人間を作り上げていった時代だったといえましょう。

同好の士である「砂岡雁宕」をはじめ多くの俳人との関わり合いや、寓居していた弘経寺の住職成誉大元上人との関わり合いの中で、その芸術性と人間性を高めるとともに、その資質を高め・深めていったものと考えられます。 40歳を過ぎてから、大きく花開く蕪村の「画人」として「俳人」としてのその基がこの結城時代にあったといえましょう。  

中でも、「早見晋我」との交遊は、特別大きな関わりを持ったものといえるでしょう。師である「夜半亭宗阿」を67歳で看取った「宰鳥」が江戸を離れ結城に住まいする中で、師の歳に近い「早見晋我」には、その中に「父」や「師」の姿を見ていたのではないでしょうか。  「早見晋我」(号を晋我から素順、後に北寿と改める)は延享2年(1745年)1月75歳で亡くなります。この「北寿」の死に遭っての「蕪村」は悲嘆に掻き暮れたと考えられます。それは、後に「北寿」(早見晋我)没後50回忌追善句集(いそのはな)への追悼寄稿により明確なものとなります。

 

「北寿老仙をいたむ」 

 君あしたに去(さり)ぬ   ゆふべのこころ千々に  何ぞはるかなる    君をおもふて 岡のべに行つ遊ぶ を  かのべ何ぞかく かなしき  蒲公(たんぽぽ)の黄に   薺(なづな)のしろう咲たる   見る人ぞなき  雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴を聞ば 友ありき  河をへだてて住にき   へげ(変化)の  けぶりのはと打(うち)ちれば    西吹風の はげしくて小竹原(おざさはら) 真すげはら のがるべきかたぞなき    友ありき河をへだてて住にき けふは ほろろともなかぬ   君あしたに去ぬゆふべのこころ千々に 何ぞはるかなる 我庵(わがいほ)のあみだ仏ともし火もものせず 花もまゐらせずすごすごと彳(たたず)める今宵は ことにたふとき 



蕪村に<ところてん逆しまに銀河三千尺>あれば、 宇都宮天の川へとさかのぼる  高資  

真言宗智山派宮應山生福寺 蕪村号誕生の地  


古庭に 鶯啼きぬ 日もすがら



古池の埋められて梅雨晴間かな  五島高資

Bright sky during the rainy season -

the old pond was already consumed by landfills  Takatoshi Goto

ー 場所: 生福寺

与謝蕪村は、寛保四年(1744年)正月、宇都宮にて宰鳥を改め、初めて「蕪村」と号しました。

生福寺は、永享十年(1438年)宇都宮等網の開基、清原高盛の祈願所として創建されたのが始まり。関東八十八か所第24番霊場でもあり、鉄筋コンクリートですが本堂も立派です。 参道に与謝蕪村の句碑があって、蕪村はこの地で俳諧師としての道を歩み始めたという内容の説明がありました。