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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

ヴァチカンの野望6-ピピンの寄進と教皇領

2017.07.30 12:24

754年7月28日、教皇ステファヌス3世は初めてアルプスを越え、サンドニ大聖堂で、ピピン3世と2人の息子を聖別した、この息子の一人こそ後のカール大帝であった。そしてその見返りとしてヴァチカンは、ローマを脅かしているランゴバルト王国の討伐を要請した。ピピンはこれに応え、756年にこの王国を攻撃し、その領土を教皇に寄進した。

これが、1870年まで続くイタリアの中央を貫く教皇領の始まりである。これによって、ローマ司教は世俗的権力も得ることになった。そころがこれにクレームがつきかけた、東ローマ帝国である。ランゴバルトの領土はもともとユスティニアヌスが奪還した領土であり、返すなら東ローマが正当だというのである。

当時東ローマのレオン3世が、イコンや聖像への崇敬を禁止したのである。なんとイコンのメッカである東ローマ帝国でイコンや聖像破壊の大波が起こった。原因は、偶像崇敬を厳格に嫌うイスラムの影響とも言われている。

西方教会でも、ギリシャ、ローマ文化の影響で、聖像は普通に使っていた。何のことはない、神々の像がキリスト教の像に代わったのである。この問題で西方教会は反発しており、東ローマに返すなどもっての他。そこで考案されたのが歴史的偽文書「コンスタンティヌスの寄進状」である。

下はピピンの寄進