行きたいところが「変」らしい。
夏になると海の近くへ行きたくなる。ところが、海は家族の哀しい思い出と楽しい思い出の両方をその深く青い中に孕んでいて、わたしの挙げる行きたい旅先にちょっとおかしな理由をつけてしまう。
1.沖縄
戦艦大和が最期を迎えた場所からもほど近い、太平洋戦争激戦地。何度も子供の頃から訪れている場所だが、未だ「白い旗を振る少女」のイメージが色濃い。沖縄は今でも様々な問題を抱えているが、無理矢理「ヤマト」に併合され日本という国が与える恩恵の部分を授かることなく太平洋戦争唯一の地上戦が行われた歴史を紐解くと、どうしても『犠牲』の一言しか思いつかない。あの地は日本になって、本当に良かったのだろうか。
2.グアム
安く手軽に行ける海外旅行先として根強い人気を誇るリゾート地。最近では小さな子供連れでも行けて日本語もある程度通じるらしい、安心感のある海外だが紛れもなく太平洋戦争の激戦地。今でも墜落した飛行機や破壊された戦車など太平洋戦争の爪痕がしっかりと残っている。
3.サイパン
こちらも気軽に行ける海外リゾート地。ハワイやグアムほどではないが、ダイビングやシュノケーリングなどマリンスポーツを楽しみたい方にはピッタリのアクティブな場所だが、一歩深く覗いてみると日本軍が玉砕した「バンザイクリフ」と呼ばれる崖地など、太平洋戦争の名残を留めている。
そして、この地は我が曽祖父の最期の地でもあり、いつか一度は鎮魂のためにも訪れたい場所なのである。曽祖父はとある民間船舶会社に勤務する船乗りであり、戦前の一瞬、良い時代には華のサンフランシスコ航路を往く商船、そして客船にも乗っていた。色あせたセピア色の写真には美しい船員の制服に身を包み誇らしげな笑みを浮かべる彼の姿が写っている。
太平洋戦争が始まり、日本軍の勢いが翳った昭和18年、曽祖父は徴用された船の船長としてサイパンを航行していた。船に米軍の魚雷を命中し、沈没。他の乗組員は全員助かったものの、用船ならぬ民間船であっても『船長は船と命運を共にするもの』というのが常識だった時代。曽祖父はひとり、船と共にサイパンの海に沈んだのだった。
民間船会社の戦後は大変だったらしい。なぜなら有事に駆り出したものの補償は敗戦国のため非常に少なく、船も船員も金銭もなにもない状態からのスタート。それでも曽祖父の勤めていた会社は今、日本で一、二を争う大手として世界の海に出ている。
その後を継ぐような形で、祖父もやはり海の男となったが、あくまで「民間人」だった曽祖父の死にはもちろん国から何の恩賞も与えられず、稼ぎ手を失った一家は非常に苦労したそうだ。
祖父は高度経済成長期をずっと外国航路の貨物で過ごした。おそらく1番良い時代を経験した船乗りだと思う。日本の発展を海の上から眺めてきた祖父の昔語りからも、当時の楽しさがたっぷりと伝わってくる。
「船と競争するイルカの後ろで潮を吹くクジラ」
「インド洋で見た大玉のような汗」
「アフリカから遥々運んだ肉食獣達」
「南十字星をデッキの上で眺めた夜」
「15分程度の微妙な時差が船上生活には嬉しかった話」
「パナマ運河を通るときは船をわざとぶつけた」
「アフリカはちょうど独立したての混乱期」
などなどエピソードは計り知れない。
祖父は88歳になった今も矍鑠としていて、船に乗ると色んな船上作業を教えてくれる。時代は進み、外国航路の船には日本人より外国人が多くなったことで、祖父の勤めていた「事務長(パーサー)」という職は無くなってしまったが、船上生活は50年前も今も、思いの外変わらない部分もあるのかもしれない。
船乗りとして海で亡くなった父親と同じ職業に就いたのは、やはり父親ーわたしの曽祖父の船乗り生活も戦時中を覗いて、憧れるだけの素晴らしさが垣間見えたからではないだろうか。
船乗りとして仕事を全うした我が家系の男たちの裏側には、いつ帰ってくるか分からない、帰って来ないかもしれない夫を待つ、妻たちの苦労がある。
数ヶ月、長ければ一年以上海外に出たまま、毎日夫が帰ってくるような一般的ではない生活の中で子供を育て上げ、時折帰宅する夫のために家を守る、そんな女性達の姿を家族として見たり聞いたりしてきたわたしは、自分自身もやはり「一般的」なサラリーマン家庭に育ったような人とはなんとなく感覚がズレているように思える瞬間がある。
それが良いか悪いかは別にして。