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今との出会い

2018.12.20 11:42

http://www.shinran-bc.higashihonganji.or.jp/message/ 【「こちら側」と「あちら側」——浅い理解と深い共感 】より

 今でこそ出会うことは少なくなったが、私の言うことにすぐに「わかる」と相槌を打ってくれる人が周りに何人かいた。皮肉屋の私は、「自分が苦労して考えてきたことや悩みに対して、そんなすぐに『わかる』という浅い言葉で済ませるとは何事か」と心の中で絶えず思い、未熟なので、ときに口に出した。もちろん、相手に悪気があったわけではないだろうが。とはいえ、こちらの考えていることは、あちらにそうたやすく理解できるわけはないだろうと思わざるを得ないのもまた事実なのである。そうであるからこそ、ときに「こちら」と「あちら」で分断が生じる。これは何も一対一の関係に限ったものではない。政治やジェンダー、人種をめぐっても「こちら」と「あちら」の分断は見られるし、SNSでも分断は生じている。どうやら「こちら」と「あちら」はわかり得ないようだ。にもかかわらず、さもわかったかのように、双方が互いを語ってしまい、双方はその語りを事実ではないと反発して、ますます分断がエスカレートしてしまうのだろう。

 アーリー・ホックシールドという社会学者が『壁の向こうの住人たち』(布施由紀子訳、2018年、岩波書店)という本で、ティーパーティーやトランプ前大統領の支持者にインタビューをして、アメリカ右派の人々が支持する政策の根底にある感情に迫ろうとしている。ホックシールドは、バークレーというアメリカでもリベラルの多い地域に住んでいることもあって、果たして、「壁の向こう」にいる右派の人々は何を心で感じているのか想像しようとした。ホックシールドは、右派の人々が心で感じている物語を「ディープストーリー」と名づけ、それに迫ろうとしている。ホックシールドが立派なのは、ティーパーティー支持者やトランプ支持者の感情を描き出したことに留まらない。決してバークレーという地域に留まることはなく、「壁の向こう」の「あちら」の街へ踏み出そうとしたことである。ホックシールドは、理性に留まらず、理性を揺るがしかねない感情の領域に迫り、深い物語へと迫ろうとしたのである。そして、それを言葉にしようとした。

 私たちは「あちら」を理解しているようで、その理解は浅いものであることが多いのかもしれない。「あちら」には、それぞれの感情に支えられた深い物語がある。その深い物語を理性で理解するのは、至極困難であろう。

 しかし、それでもなお、私たち——少なくとも私——は、「あちら」のことを頭で理解して言葉で語ろうとすることをやめられないし、やめるつもりもないだろう。身近な生活の領域で分断が生じやすい今だからこそ、「あちら側」に深い共感——ただし、安易な同調ではない——をし、その感情により揺らいだものを頭で理解し、言葉にしていく試みに救いの一手を見出したいのだ。(2021年12月)

宮部 峻(親鸞仏教センター嘱託研究員)


http://www.shinran-bc.higashihonganji.or.jp/message/backnumber35.html 【泥に咲く華 伊東 恵深】より

昨冬から猛威を振るったインフルエンザも、春が近づくにつれて次第に沈静化し、いまでは、スギ花粉の毎日の飛散量が、多くの人々の関心事となっているようです。

 ところで今年(2006年)の1月、東京大学と国立感染症研究所の研究者らによって、「都市部で新型インフルエンザが発生した場合、満員電車での通勤・通学が感染の拡大を加速させ、患者数も増加させる」という調査結果が発表されました(1月11日、読売新聞ほか)。その記事によると、新型インフルエンザの拡大について満員電車の影響を調べたのは初めてだそうです。

 しかしこの研究報告は、たんに電車の早期運行停止がインフルエンザの感染者数を減らす効果があることを提示しているだけでなく、都会に住む人々がいかに過酷で劣悪な生活環境を強いられているかを示唆しているのではないでしょうか。ひとたびラッシュ時の電車に乗れば、ほとんど身動きできない「すし詰め」の状態を長時間にわたって余儀なくされる。これは世界でも他に例がないでしょう。そのような超満員の電車を眺(なが)めていると、人ではなくてまるでモノがどこかに運ばれているかのような錯覚さえ覚えてしまいます。ここに都市生活の不自然なありさまが端的に表れていると思います。

 仏典に「譬(たと)えば高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿(ひしつ)の淤泥(おでい)にすなわちこの華を生ずるがごとし」(『維摩経(ゆいまきょう)』)という言葉があります。高原の乾いた陸地はさわやかですが、蓮の華が生じることはありません。蓮華は泥に根を下(おろ)して美しく咲き、しかも泥水のなかにあってその汚れに染(そ)まることがないのです。この蓮華の譬喩(ひゆ)は、現代を生きる私たちに、苦悩と矛盾に満ちた社会のなかにありながらも、その世間の汚れに染まることなく、自分自身を深く見つめていくことの大切さを教えているのではないでしょうか。

 ともすると、世間という汚れた泥水に染まりやすい私たちですが、泥中に咲く真っ白で可憐な蓮の華のように、悩みや苦しみが渦巻く実生活のただなかにあっても、自分自身を見失うことなく真っ直ぐに歩んでいきたいと思います。

伊東恵深(親鸞仏教センター研究員)


http://www.shinran-bc.higashihonganji.or.jp/message/backnumber219.html 【浄土教の現生成仏ということ】より

 「向(さき)に観察荘厳(しょうごん)仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就を説きつ。この三種の成就は願心をして荘厳せりと、知るべし。略説して一法句に入るが故に。一法句とは、いはく清浄句なり。清浄句とは、いはく真実の智慧無為法身なるが故に」(天親『浄土論』)。浄土が「願心」であること、それが「仏」「菩薩」と「清浄」と「真実」「智慧」「無為」「法身」と「一」つであることが分かる。ところで法身とは仏の在り方のことで、「彼仏国土無為自然(じねん)」(『無量寿経』)であるから、「無為法身」とは阿弥陀仏のことである。「願生安楽国といふは、この一句はこれ作願門なり。天親菩薩の帰命の意なり」(曇鸞『浄土論註』)。この「作願」は「本願力回向」(『浄土論』)であるから、「帰命」(南無)は弥陀の願心である。願心は真実智慧であるから、「真実智慧無為法身」とは南無阿弥陀仏のことである。つまり、浄土とは南無阿弥陀仏である。何故に『浄土論』は著されたのか。「彼の安楽世界を観じて、阿弥陀如来を見たてまつり、彼の国に生まれんと願ずることを示現するが故なり。いかんが観じ、いかんが信心を生ずる」(同上)。これで願生の心が「信心」であると分かるから、「真実」は信心である。

 以上、親鸞『顕浄土真実教行証文類』の「浄土真実」とは「願心」であり、「帰命」であり、「信心」である。すべて阿弥陀仏である。この『教行信証』の(『涅槃経』からの)引文、「真実といふは即ちこれ如来なり」、「大信心は即ちこれ仏性なり、仏性は即ちこれ如来なり」。『無量寿経』 に言う、法蔵菩薩は「この願を建て已(おわ)りて[中略]妙土を荘厳す。[中略]建立(こんりゅう)常然(じょうねん)にして、衰なく変なし」。法然は言う、「今、二種の信心を建立して、九品の往生を決定するものなり」(『選択集』)。善導は言う、「彼の仏、今、現に世に在(ましま)して成仏したまへり」(『往生礼讃』)。

 浄土教における、この現生往生論にして現生成仏論を、ある種の死後往生、死後成仏論と対照してみよう。

 一、前者は成仏を成仏土と捉える。それは一切衆生を体とする。成仏とは根本的には「彼仏今現在世成仏」、弥陀成仏以外にない。後者は成仏を個体に付ける。

 二、前者は仏(=浄土)の本体、本性を、南無阿弥陀仏であり信心と捉える。後者は仏及び浄土の本性を、万善万行の円備と捉える。

 三、前者は念仏(南無阿弥陀仏)を究極目的とし、万善万行を(その円備すらも)手段とする。後者は念仏を手段とし、万善万行の成就を究極目的とする。

 四、前者の個体としての成仏(弥陀成仏中に存在する個体。弥陀の化身、化仏)は、他者に存在し、「自身」(他者から化身と見られる)としては罪悪の自覚である(善導の第一深信)。後者の成仏は、罪悪(煩悩)の完全な消滅、断滅の自覚であって、自身に存在する。

 五、前者の仏は、(十劫の昔より)現在仏であると同時に、穢土に対しては本質的に菩薩である(浄土中の個体もそれに同ず)。後者の仏は本質的に菩薩でない。

 浄土の思想は成仏観に革命をもたらし、一切衆生に現生成仏の道を開いてみせた。(2021年7月)

越部 良一(親鸞仏教センター嘱託研究員)