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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 158 (30/12/21) 旧知念村 (6) Yoshitomi Hamlet 吉富集落

2021.12.31 09:02

[2022年1月3日 再訪問 具志堅のミーチバカ、吉富井泉 (ヨシトミガー)]


旧知念村 吉富集落 (よしとみ、フッチリ)


今日は12月30日の晦日で、今年最後の集落巡りになる。前回久手堅集落を訪問した12月24日から連日雨続きで、外出の機会が無かった。ようやく晴れとなり、一週間ぶりの集落巡りとなる。今日は、吉富集落訪問の前に久手堅のナーワンダーグスクを再訪する。



旧知念村 吉富集落 (よしとみ、フッチリ)

フッチリ屋取 (吉富) は斜面に立地し、よく霧がかかる所、霧の多い所で、フッチリはフッキリ (富霧) の訛ったものである。 富貴利と漢字表記されている。

久手堅から1937年 (昭和12年) に分離して字富貴利となり、1947年 (昭和22年) に吉富と改称された。

集落の位置は昔から変わっておらず。平地は海岸沿いにある一部分で全面が畑となっている。丘陵の上部も平地ではあるが、そこは自衛隊知念分屯地となり、現在の集落がある急斜面のみが民家が広がる余地があるのだが、他の地域に比べ居住性はかなり劣り、これ以上の民家の拡大は難しい。

吉富集落は旧知念村では最も人口の少ない地域になっている。これは南城市全体でも最も人口の少ない字になっている。

吉富集落が久手堅集落かあ分離独立した当時は200人を超え、ピーク時の1965年にはは242人まで人口は増えていたが、その後減少が続き、一時期持ち直すかに見られたが、現在は再度減少が続き、ピーク時の半分となっている。

吉富は屋取集落なので琉球国由来記には記載された拝所はないが、久手堅集落の一部だった時代には神社 (佐宇次権現、現在のビジュル洞) が琉球国由来記にでている。また、琉球国由来記の佐宇次根所は寒水殿とも考えられている。だたし、久手堅集落内にも佐宇次根所とされる場所があり、どちらがその場所かは不明。



吉富集落訪問ログ



ナーワンダーグスクを見終わり、久手堅集落の南側、国道331号線の南の急斜面に広がる吉富集落に向かう。民家が密集している地域は無く、民家が斜面に点在している。家取集落の特徴が今でもそのままだ。吉富村以前の昔には、この一角に寒水 (ソージ) という古集落が立地していたが、現在ではその古集落がどの場所だったのかは解っていない。


吉富公民館

自転車を国道331号沿いに停めて、坂道を下り公民館に行く。公民館は崖の上にありちょうど集落全体とその下に広がる畑が一望でき、集落の連絡場所としては良い場所にあったのだろう。


慰霊之塔

公民館から斜面を少し上がったところに慰霊之塔がある。昭和29年に建てられ、沖縄戦で犠牲となった17柱が慰霊されている。毎年6月23日に慰霊祭が行われている。


給水タンク

慰霊之塔の横の石垣の上に給水タンクが置かれている。その下にもコンクリート造りのタンクがある。給水パイプも敷かれており、現在でも使用されている様だ。多分簡易水道が引かれた時もここに給水タンクがあったのだろう。


寒川 (ソージ) グスク

公民館から集落を突っ切り西側の丘陵地にある寒川 (ソージ) グスクを目指す。寒川 (ソージ) グスクは東西40m、南北70mの海に臨んだ石灰岩の岩塊で、地元の人々は寒水グスクと言い伝えてきた。グスクからは太平洋の大海原と知念半島東側の海岸線、海岸線とグスクの間の畑、ウフグスクと知念岬を望むことができる。

グスクの岩塊の東の海側は切り立った断崖で、西側は比較的緩やかな斜面になっている。東の海側の断崖を強引に頂上付近まで登る。グスクは整備されておらず、ジャングル状態だが、頂上は岩の上を削った平場になっている。ここに見張り台があったのだろう。海上の見張りや海岸から上陸する敵の監視には適しているようだ。推測するに、ここはこの地域を支配していた知念按司の居城の知念グスクに近く、その物見台の性格を持った出城だったのでは思う。

年が明け1月3日に知念集落に向かう国道331号線沿いに、 寒川 (ソージ) グスクの西側の入り口があった。西側は比較的緩やかな斜面だそうで、鉄塔が建っているところからグスクの中に入る。やはり崖が切り立っているのだが、登り口らしきものもあり、頂上まで登ることができた。グスク時代当時からの構造なのかは分からないが、所々は小さな踊り場の様になっており、物見台として使われていたように思える。


具志堅のミーチバカ (2022年1月3日 訪問)

寒川 (ソージ) グスクから国道331号線の反対側に、亀甲墓が三つ連なった立派な墓がある。ミーチバカといわれている。半田門中の墓。吉富集落には半田門中という門中は見当たらない。具志堅のミーチバカとなっているので、具志堅集落の門中墓と思われる。


仲里墓 (ナカザトゥバカ)

寒川 (ソージ) グスクの東側斜面に古墓がある。そこへの細い道も設けられている。この古墓は第二尚氏三代尚真王の側室で、四代尚清王の母后である思戸金按司加那志 (号: 華后) の墓と伝わっている。仲里家 (チンジャー門中) が墓を守っているそうだ。


吉富農村公園

自転車を停めた国道331に戻る途中に吉富農村公園がある。この公園の情報は無いのだが、多分集落のサーターヤーが置かれていた場所だろう。ここから先程登った寒水グスクが見えている。


寒水殿 (ソージトゥン、佐宇次殿)

国道331号から北側の道路に入り、ニライカナイ橋方向へ向かう。その道の途中、左側に丘があり、そこに寒水殿 (ソージトゥン) がある。佐宇次殿とも書かれる。かつては現在地より東側50m程の山の麓にあった。この山の中には佐宇次殿按司 (ソージアジ) の墓があったそうだが、現在は所在不明。この寒水殿は佐宇次按司墓への遙拝所といわれ、久手堅のチンジャー門中はウマチーなどで、ここから遥拝している。階段を上るとコンクリート造りの平屋型の拝屋がある。内部には切り石の香炉がり、建物の横には火の神だろう三つの石が置かれた拝所がある。また、敷地内の北東側と南東側の塀沿いに建物に向かってコンクリート製の煉瓦状の物が9個配列されている。 祭祀に参加していた神役の座を表すものとみられる。琉球国由来記の佐宇次根所がこの拝所に相当するのではとも考えられている。 (久手堅集落内にも佐宇次根所と考えられている場所があった。) 現在、この拝所ではチンジャー門中、ナカイズミ門中が2月15日のウマチー、5月15日の五月ウマチー、6月15日の六月ウマチーで祭祀を行っている。


寒水井泉 (ソージガー、佐宇次井泉)

寒水殿の敷地の南側に細い道があり、そこを進むと草が刈られた広場に出る。そこに寒水井泉 (ソージガー、佐宇次井泉) がある。ソージは白水の意で、清水を表わしている。現在でも湧水量は豊富で、川の上流にあたる。吉富集落は、この寒水井泉 (ソージガー) から流れる水をタンクに貯めて使用していたという。先程訪れた公民館にあった石垣の上にタンクがあったのかもしれない。 現在では、農業用水として利用されている。井泉の右手後方には香炉があり、拝まれている。


吉富井泉 (ヨシトミガー) (2022年1月3日 訪問)

カナイ橋より皿の上の丘陵に吉富井泉 (ヨシトミガー) という井戸跡がある。コンクリート製の水槽が置かれて、水が流れている音が聞こえる。この井戸は道の側にあり、この道沿いには、何軒かの民家が建ってる。現在の吉富集落からかなり外れているのだが、この井戸と民家があることを考えると、ここにも小さな集落があったように思える。




ニライカナイ橋

寒水井泉からニライカナイ橋に向かう。2002年に開通したニライカナイ橋はニライ橋とカナイ橋の二つの橋からなり、全長1,200mにも及ぶ長い橋。ニライカナイは琉球神話の神々が住む島や海の向こうにある理想郷のこと。この道は傾斜も緩く、自転車でも楽に登れる。

下から登るとカナイ橋に入る。カナイ橋の歩道は海側にあるので、歩いても景色が楽しめる。

カナイ橋を渡り切ると右側にカーブし、次はニライ橋に入る。歩道は山側になる。ニライ橋を進みトンネルの場所で橋の終点になる。

トンネルの上が展望台になっている。今日は晦日なので次から次へと観光客が訪れていた。


ビジュル洞 (ガマ) (航空自衛隊知念分屯基地内) (未訪問)

ニライカナイ橋展望台の北側はる航空自衛隊知念分屯基地になっており、その基地内に内にビジュル洞 (ガマ) という拝所がある。そこに行こうと基地入り口まで行き、許可をもらおうとしたのだが、今日は晦日で門が閉まっており、隊員も見当たらない。自衛隊員も今日はお休みに入っている様だ。次の機会に来てみよう。沖縄の自衛隊基地内にはいくつもの拝所があり、一般人の訪問には快く案内してくれる。清明祭の時には多くの参拝者が来るそうだ。琉球国由来記の神社 (佐宇次権現) に相当するとみられる。 神社 (佐宇次権現) では、毎年4月、6月に近辺の村々が花五水を供え祈願していた。


宮里春行道翁之像 (与儀公園)

これは吉富集落内にある文化財ではないのだが、吉富出身の宮里春行の銅像が那覇市の与儀公園の側にある。ここには以前訪れていたが、その時には特に関心も無かったのだが、吉富集落を調べていて、この人物が出てきて思い出した。宮里春行は安冨祖流隆盛の礎を築いた人物で、太平洋戦争でシベリア抑留となり、手作りのカンカラ三線で沖縄の歌を歌い、捕虜たちを慰めていた。ソ連兵もやってきて、ソ連兵と捕虜が歌に合わせ踊ったという。宮里は「音楽に国境はない。平和の集いだ」と感じたという。2002年 (平成14年) に、この地に宮里春行道翁之像が建立され、台座には「歌の道学で人の道悟て世間御 万人にかなささりり」と記されている。


吉富集落訪問を終わり、この近くにある未訪問の佐敷手登根の手登根大比屋 (ティドゥグンウフヒヤー) の古墓を訪れる。結局、古墓はみつからず、帰宅となり今年の集落巡りは終わりとなる。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
  • 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)
  • 知念村の御嶽と殿と御願行事 (2006 南城市知念文化協会)
  • 知念村文化財ガイドブック (1994 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第一巻 (1983 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第二巻 知念の文献資料 (1989 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第三巻 知念の文献資料 (1994 知念村史編集委員会)