表現することは生きること
Facebookいい言葉は人生を変える 投稿記事
不幸な人は、相手を操作し、変えようとするが、幸せな人は、相手を変えようとせず自分が変わる 。
面倒なことを後回しにした結果が一番面倒なことになり、面倒なことを 面倒くさがらずにさっさとやってしまえば 面倒は消える。
自分ばかりを守ろうとするから言葉に(行動)できなくなり誰かを守ろうとするから言葉に(行動)できるようになる。
世の中が暗いと不満をもらすなら自らが進んで明かりを灯せばいい。
できないことを悩み考えるなら、できることから行動していけばいい。
生きるとは表現することであり、表現するとは行動すること。
行動しなければ、傷つくことはないけれど、
同時に満たされる喜びもない。間違いのなかった1日は 何も挑戦しなかった1日であり、
どれだけ新しい挑戦ができたかで毎日の充実度は変わってくる。
あなたの人生を豊かにするのは、行動するための少しの勇気と、たくさんの【経験】です
( しみず たいき )
https://note.com/newyorklife/n/n84bbc4f89605 【生きることは表現すること。いかにそのままの自分を表現するか。】より
わたしは「生きることは表現すること」だと思っている。自分という人間を表現するのが人生。ダンサーは自分を表現するために踊る。描くこと得意な人は絵の中に自分を表現する。
歌が好きな人は歌わずにはいられない。写真が好きな人はレンズを通して自分を表現する。
そうやって人は、自分を表現しながら生きている。自分が何者かを世界に知らせている。
わたしにとっての表現は、「英語を教えること」だ。
自分が好きな英語で、自分が考えたメニューで、自分がいいと思うことを教えているからだ。
「英語を話すこと」も表現だし、なんなら「言葉を話すこと」自体も立派な表現だ。言葉づかいや選びかたは人それぞれだからだ。
「書くことも」表現だ。書くことで自分の気持ちや考えを明確にして伝える。ブログじゃなくても、お客さんとのメールのやり取りだって立派な表現だ。あなただから書けること、あなたにしか書けないことがあるからだ。
料理も表現。掃除も表現。仕事の仕方も表現。そう思うと人生の1分1秒、すべてが表現だ。
大切なのは「いかにそのままの自分を表現するか」ということ。
そして自分という人間を100%表現するにはどうしたらいいかを最近よく考えている。
その答えをわたしたちはうっすら気づいている。
それは常識や世間の価値観に合わせないこと。人と違うことを恐れないこと。
自分の感覚に従うこと。自分から生まれるすべての感情や気持ちを信用すること。
気持ちをきちんと口に出すこと。大切だと思うことをやり続けること。
どれも簡単なようでむずかしい。
人と違うということ、自分の感覚に従うこと、気持ちを口にすること、自分を信じることはどれも素晴らしいことだけど、自分らしくいることは、とても怖いことなのだ。
間違ってると否定されるかもしれない。幼稚だとバカにされるかもしれない。
ありえないと一蹴されるかもしれない。ダサいと笑われるかもしれない。
それらの恐怖をふり払って、もしくは怖いままで、それでも自分という人間を表現できるかどうか。
「自分らしく生きてる」って、そういうことなんじゃないだろうか。
結局人生の充実度って、いかに自分を表現して生きているかなんだと思う。
自分を表現しよう。怖いけど。表現して生きていこう。
https://sokokarakoso.hatenablog.com/entry/hyogen 【表現することは、生きること。不完全な自分と向き合うこと。】より
生きづらさを強さに変える日記 アルコールインクアート 自己表現をすること
表現することは色んなことに向き合う。向き合うことで、表れてくるものだと思う。
それがどんなに苦しくてもどんなに逃げ出したくなっても ツルっとはげるくらいに悩んで悩んで悩んでも やっぱり続けられているのは この自分として 私として生まれてきたからだなって思った。
向き合うことが大きければ大きいほど肚が座る感覚がある。
私にしかできない表現がきっとあるから。あきらめてたまるかって、思う。
表現することは生きること。不完全な自分と向き合うこと。
表現したものが自分に教えてくれるものもあれば表現することがもうすでに自分に自分を馴染ませていくプロセスなのだとも思う。
それは、誰かに自分の本音を自分の言葉で伝えるときも、そう。
葛藤すらも、悩みすらも 幸せと、苦しみの両極をも 包み込んで成熟させて生きていこうと改めて思いました。
宝物が、またひとつ、ふたつ、増えた。みどりとあお。今の自分にすごく力をくれた。
https://relight-project.org/report/gengoka/ 【生きることは「言語化」すること】より
第一部:「言語化すること」の大切さ
自分が生きる上でこれがキーワードとなることに気づいたことが、Relight Comiitteeに参加したことによって得た最も価値のある財産だった。
僕は言語化が好きだ。わからないこと、はじめてやること、相手が考えていること。様々なことをイメージでふわふわととらえるのではなく、かっちりとした「言葉」に落とし込む。このプロセスをどんな瞬間も行っている。
言語化できないと苦しいということに気づいたのは、2017年8月25日に行われた第2回の授業がひとつのきっかけだった。はじめて挑戦する粘土デッサン。バックグラウンドを全く知らないモデルの方を、まずは情報が全くない状態でデッサンする。このとき自分はなにも表現することができず、自分でもしっくりこない作品が生まれた。ほかのメンバーは情報がない中、目から入ってきた肉体の質感などを頼りに表現をしていて、歯がゆさがあった。その後、全員でモデルの方を囲み、自己紹介が行われ、略歴、いまどんなことをしているのか、どんな性格なのかといったモデルの方に関する言語情報を与えられ、デッサンに再挑戦。ここで1回目とは打って変わり、表現したいことが湯水のようにあふれてきた。アートをやっているモデルの彼女。映画に出演し相撲の演技に挑戦していること。その意志の強さを表現することに打ち込むことができた。
もう一つ決定的なものがあった。10月にある機会があって、「折り紙でガーベラを折る」ことに挑戦したことだ。Youtubeにおり方の解説動画があがっており、それを見ながら真似して折ればだれでも折れます。と言われ挑戦してみたがさっぱりうまくいかない。3回ほど新しい折り紙を無駄にして、なぜうまくいかないのか一回分析してみようと、真似するのをやめて動画を通してみることにした。すると、いつも詰まっていた紙の頂点を折り返していく部分が「完成形となる花の頂点を8つ作る」ための工程であることに気づいた。それに気づいた瞬間、さっきまでさっぱりうまくいかなかった部分ができるようになったのである。
この2つのきっかけから、自分は「言語化ができること」=「理解し、行動できること」ということに明確に気づくことができた。思い返してみると、いままでできなかったことはすべて言語化がうまくいっておらず、逆にできるようになったときには必ずそばに「うまい言語化」があったのだ。
そしてこの「言語化」というものが自分だ!と表明するようになると、それが面白いと言われることとなる。
この反応がアクションへとつながっていく。
自分が言語化するプロセス。言語化するために誰かの話を聞くプロセス。僕に興味を持ってくれるひとたちからの様々な相談、疑問。これらを対面で行い、直に話すこと。
僕にとってはなんのことはない。毎日行っている行為なのだが、それをすこし大層にしてみる。
「徹子の部屋」ならぬ「日向の部屋」である。
それをもっと広範に行うべく、”ココナラ”、”Timeticket”でサービスをはじめることにした。
僕のアクションは
「あなたのできないこと、聞きます」