攻めない、攻められた方の傷は消えないから
今から12年前に僕が元いた会社を買収しようとしたネット会社とその代表を、僕は今でも嫌い。
そんなこと辞めた後に今さら言う必要もないのに、言っちゃうくらい嫌い。
その事件で社内の雰囲気が俄然悪化したから。
それまではよくも悪くもいい会社だった。ユルイ会社だった。いい番組を作ろうと和気藹々としてた。
その事件以降、コンプラと予算の厳守が第一優先になった。もともと真面目な人が多いから、そのお達しはほぼ守られ、その際、いい番組を作るのは、必然的に優先順位が下がったのだ。
さらに言えば、その業界の中で、ネットアレルギーが蔓延した。そのアレルギーは今も綿々と続いてて、結果日本のメディアを“井の中の蛙”状態にして、日本のメディアを停滞させてしまってると思う。
でもその時、件の会社が買収しようとした行為は別に違法でもないし、経済ルールに則っていたし、別に非難される筋合いのものではないのかもしれない、資本主義世界では。
それは、僕(ら)が、なかなか消えない嫌悪感を植え付けられたという、攻められた側の一方的な思い込みなのかもしれないんだけどね。
つまり人は攻められるとその攻めがどんなにルールに則ってフェアで有効であったとしても、傷が残るんだ。
それは国家でも組織でも個人でもそう。
攻められた嫌悪感は消えない。ずーっと残る。
攻めることは歴史において攻められた側に傷しか残さない。
攻めた方が、後でどんな言い訳しても正当性を主張しても、攻められたという事実の傷は無くならない。
つまり、僕らに攻める理由があったとしたなら、攻める以外の方法で、その理由を達成させるべきなのだ。
僕らはどんな正当性があっても“攻めない”で、だからって泣き寝入りするでなく、解決する方法を目指す方が、結果お得だし早い。
それは、国家でも組織でも個人にとっても、お得だし早い。
そして、それは人類の歴史においても、お得だし早いんじゃないだろうか?