信長の野望・創造・PK・プレイレポート・最上家・37(山形城と最上家の繁栄)
永禄2年12月、北出羽国の本城・山形城では、人口が2万人を超えてきていた。
当主・最上義守は蝦夷地制圧に長らく出征していることもあり、城代の氏家定直は、ひとりしみじみと思うのだった。
氏家定直:殿、見てくだされ。城下に活気が出てきましたぞ。
氏家定直:もののたとえではなく、町には民が溢れております。
:この民が我らの力となるのです。
:次は、我らの住む場所を作りましょう。
「戦国伝 人は石垣達成」
氏家定直:城下に民が集まってきております。
:今なら城下町を広げることが出来ます。
氏家定直:城下町を広げ、そこにどのような者を住まわせるのか。
:米を作る者か、商人か、足軽たちか。
:これにより、新たに広げた区画から得るものが変わります。
:区画ごとに米作りに向いていたり、商いに向いていたりと、
:用途の向き不向きがございます。
:町を広げるときには、お気をつけください。
:特別なものが手に入る区画もございます。
:その方角に城下町を広げるのもよいでしょう。
氏家定直は名実ともに奥州最大となりつつある山形城、そして最上家を思いながら、そうつぶやいた。
「殿、私にお任せあれ」
「戦国伝 城下町を広げよう 発生」
永禄3年1月、最上家の進軍は3方で行われていた。
一方は、蝦夷地侵攻で、北出羽の国・本国より、最上義守や天童頼長らが出征していた。
これは津軽海峡を渡り、今まさに蠣崎家との決戦が行われようとしていた。
もう一方は、南部家との野辺地城をめぐる戦いで、延沢満延や鮭延貞綱らが戦った。
これは南部家当主・南部晴政の強固な抵抗により、最上家は劣勢に立たされ、前線の部隊は壊走や撤退を始めていた。
最後の一方が、陸中国の高水寺城から出征した九戸政実らの部隊で、これは伊達家の傘下にある大崎家の名生城を攻撃するというものだった。
戦上手の九戸政実は瞬く間に城を取り囲み、陥落は時間の問題になっていた。
永禄3年1月、勢いに乗る最上家は気づいていなかった。
伊達家は外交を駆使し、領内を安定させて、兵力を増強させていた。
永禄3年1月、最上家の天童頼長隊は、蠣崎家の下国帥季隊と交戦を始めた。
永禄3年1月、南部家との戦いでは天童頼貞隊が、疲弊する南部晴政隊に襲い掛かった。
永禄3年1月、伊予国では河野家の湯築城をめぐって、長宗我部家と救援にきた三好家の戦が行われていた。
長宗我部家の当主・元親は、四国一の戦上手と言われていたが、三好家は人材の層が厚かった。
十河存春らが、城を攻撃する元親らを背後から挟撃した。
永禄3年1月、櫛崎(くしざき)城をめぐる大内家と大友家の戦いは、益田尹兼隊が最後は大友家の田北鎮周隊を押し返し、大内家の勝利となった。
永禄3年1月、隈本城をめぐる戦では、大友家側が名将・立花道雪だけでなく、大友家の当主・大友宗麟も駆けつけたことにより優勢となったが、島津家も東方・南方・西方と三方より大友家を攻撃し、善戦していた。
島津家は本国より続々と後詰を投入し、戦の趨勢は未だに結してはいなかった。
永禄3年1月、無傷の天童頼貞隊と氏家守棟を前にしては、さすがの南部晴政隊も退却し、野辺地城防衛に、津軽海峡からの最上家の襲来に備えていた石川高信隊が赴いた。
兵力では南部家が総勢1900、最上家が総勢2700となっていた。
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