「彼女を記念して」
2017年8月6日 森下 滋神学生
出エジプト記15章19-21
マルコによる福音書14章3-9節
1945年08月06日午前08時15分。
日本人及び世界中の人類にとっても忘れてはならない日である。
しかし私たちはどこかでこのことを忘れようとしている。
私たちは幕を引いて自己中心的な解決を図る。
非暴力に、寛容に、人権に、自由に対して。
アウシュビッツでのユダヤ人虐殺は、
犠牲者、加害者、傍観者の三者が共通して出来事を目撃しない目撃者であった。
私たちも目撃した記憶を消される。
自ら消そうとさえする。
聖書のテクストもそうである。
私たちに読まれることを待っている。
その時に聖書が語る真実に光がさす。
私たちが読むことによって。
聖書の中で最古の女預言者ミリアムは輝かしい歴史の中に存在していたはずだ。
割れた紅海の中へ太鼓を叩き歌を歌いながら民の先頭に立ち進んでいった。
ミリアムの賛歌はかろうじて旧約聖書の中にかけらほど残ったが、
ミリアムの名前は消し去られた。
次に私たちの前にミリアムが表れるのは、
イエスの母マリア(アラム語でミリアムの意味)の名によってであった。
聖書ですら男性父権的社会の影響を受けているのである。
名前もないある女性がイエスの処へやってきた。
その場に呼ばれてもいない女性。
ただ彼女の意志によって来てイエスに高価な油を注いだ。
そのことを巡って紛糾する男たちを記者マルコは描写する。
「彼らにはできないであろう」。
イエスは死に面していた。
しかし彼女はイエスがガリラヤの地で宣言された「神の国の到来と福音」をイエスが死ぬ前に既に信じていた。
だから彼女は油を注ぐ。
「この方はまことに神の子、神の右に座して私たちを統治する神の国の新しき王」。
彼女は口を開かずとも世界に向けて宣言したのである。
名もない女性によって油注がれたイエス(メシア)は
死を打ち破る事が世に証された瞬間なのである。
死とは記憶を消されること。
イエスは自らの死によって私たちの幕を引き裂いた。
裂かれた幕の向こう側には死はない。
9節 まことにそしてあなた方に言っておく。
もし世界のすべての内で善き知らせ(福音)が伝えられたところではどこでも、
そしてまた彼女のこの行いは(これからも)語られるであろう。
彼女を記念して。