コケコッコーの花
「コケコッコーの花」を見ると、泣けてくる。
比較的古い家の玄関先や、街路、線路脇などに、丈の高い茎にいくつもの鮮やかな花を咲かせるその植物を、日本人であれば見たことがあるだろう。その花の名が「タチアオイ」というものであることを、先日花屋を営む知人から教えてもらい、やっと知った。
それは、今から半世紀近くも昔のこと。小樽で高校教師をしていた父の関係で、わたし達家族は高校の構内の教員住宅に住んでいた。二軒長屋のわたしの家の周りにも狭いながら庭らしきものもあり、路傍にはその花があった。わたしの母も小学校の教師だったが、わたしの幼少期は母の人生では短い専業主婦時代だった。というのも母は高等女学校を卒業した18歳からわたしが生まれる少し前までは教員で、わたしが小学校3年生から30年間続けた学生下宿を75歳で辞めるまで、ずっと働き通しだったから。一回り年の離れた姉が高校へ、父もまた仕事で学校行くと、母とわたしの二人だけになった。近所の子供もいたことはいたが遊べる子供は少なく、おのずと母がわたしの遊び相手となっていた。
のどかな晴れた夏の日の午前は、外に出て遊ぶことも多かった。その一つが、「コケコッコーの花」遊びだった。その花の花びらを摘み、その付け根を割くと花びらが二枚に分かれ、粘り気のある液体がしみ出てくるのだ。それを母とわたしはお互いの顔につけあい、遊んだ。それはネイティブアメリカンの式典の時の飾りのようにも、アフリカの民族の戦の前の化粧のようにも思えるのだけれど、母は「ニワトリのトサカのようでしょう?」と言い、わたし達はその花を「コケコッコーの花」と呼んでいた。
のんびりとした“昭和”の教員宿舎にわたしが住んでいたのは、1歳半から5歳半までだった。両親が新築でマイホームを札幌に建て、わたしの小学校入学前に引っ越したからだ。そんな幼い時分であったにもかかわらず、小樽に対する郷愁はその後も長く続いた。そして、後ほど四半世紀も経った頃に気づくことになるのだが、その郷愁の思いの中に、母との思い出の「コケコッコーの花」が含まれていたのだった。
時が経ち、わたしは成長し、大学を卒業して丸の内の外資系商社で働くようになった。都会の暮らしではほとんど土を見ることはなく(アスファルトの下と、整備された公園の中だけに、土はあったから・・・)友達も少ない中で、地方都市から出たばかりのわたしに居場所などないように感じた。仕事でもスランプで、精神的にどんどん落ちていった。そんな時にふらりと、どこに行くわけでもなく乗った電車の窓からコケコッコーの花が見えた。幼いわたしと母が、二人で顔に花びらをつけて遊んでいる姿が見えた。わたしは電車の中であることも憚らず、ボロボロと泣いた。東京に出てから、人前で泣いたのは、それが初めてだった。 家に帰ってから、母に電話をかけた。母の声を聞くと、先ほどの感情が戻ってきて声を上げてただ泣くばかりになってしまった。母は最初いくばくか驚いたようだったが、そのうち強い語調で言った。「もういいから、帰っておいで。」わたしは鼻水を垂らしながら泣きつつ、初めてその電話で一言だけまともに喋った、「いやだ、絶対、いやだ。まだ帰るわけにはいかない!」必ずなんらかの成果を手にするまで、会社は辞めない、そう誓って札幌を出たのだ、その自分への約束を果たさなければ、帰らない!という思いだけが残っていた。
その電話での母の一言を聞いて、わたしはどこか安心したのかもしれない。その後、色々な人の助けもあり、わたしは25歳にして会社始まって以来の史上最高の年商550億円(当時のレート)をあげる事ができた。そして、26歳で札幌に戻り、最初の会社を立ち上げた。
随分と時が経ち、今は仕事もさることながら、娘を授かり育てている。わたしの娘は、わたしがちょうど母と「コケコッコーの花」遊びをしていた年頃。いつの頃からだろうか、街角で「コケコッコーの花」を見かけると、母を思い出し、涙腺が緩むようになってしまったわたし。困ったことに、今わたしの住んでいる町にはあちこちに、「コケコッコーの花」である、「タチアオイ」が生えています。
今日も人生の扉を開いて出会ってくださり、ありがとうございます。
なぜだか娘には、まだこの遊びを教えていない・・・明日、教えてあげよう。