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Okinawa 沖縄 #2 Day 159 (03/01/22) 旧知念村 (7) Chinen Hamlet 知念集落 (1)

2022.01.04 14:08

旧知念村 知念集落 (ちねん、チニン)


知念集落は1月3日と7日の2日間にわたって訪れた。事前に調べた資料と知念グスク入り口にあったガイドマップにはかなり多くの文化財がある。


旧知念村 知念集落 (ちねん、チニン)

知念は方言でチニン、 おもろさうしでは 「ちへねん」「ちねん」 となっており、 知念間切は聞得大君の領地であったことから、聞得大君を意味する「チヘチン」に由来する。[チへ (聞え、聞得) + チン (君) のチクチン (名高い神女)]  別の説では耕作のはじまった地を意味するチーニーが転訛して地根→地念→知念と誤写されたともいう。 また、知念という地名は焼畑を意味する「きなわ」 から生じたとも考えられている。久手堅と知念という地名がノロの役目と聞得大君に由来する点で独特であり、 久手堅と知念は王国時代の「神の里」としての聖地とされた。

知念集落はかつてシマグヮー (島小) と呼ばれた現在の字具志堅にあった。 そこから集落が広がっていった。シマは故郷を意味し、グワーは愛称。知念集落 (知念村) の古い村名は具志堅だったとも言われている。 反対に、具志堅が知念の村分かれで、シマグワー (島小) と呼ばれたとの説もあり。現在の字知念は、集落の中央から東側は波田真村、西側は現在の字具志堅も含めて知念村が合併してつくられた村。

字知念の人口は旧知念村の中では最も多いのだが、旧知念村は南城市の中の旧佐敷村、旧玉城村、旧大里村と比較して、明治時代から人口はほとんど増えておらず、人口は少ない地域となっている。

現在の字知念の人口は国勢調査が始まった1880年 (明治13年) と同じレベルに低迷している。1923年 (大正12年) には944人まで増加したが、これが人口のピークで、その後、減少、知念県営住宅や自衛隊宿舎で人口は回復するも、 知念県営住宅や自衛隊宿舎とも近年は減少傾向が続き、2005年の半分に減少している。この傾向は今後も続くと予測されている。

集落の変遷を見ると、集落自体は縮小しているように見える。1973年に自衛隊知念分屯地ができ、その後、1995年には県営団地が建設され、集落の人口減少を補っていたが近年は県営団地人口も減少している。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 城内友利之嶽 (神名 : 知念森添 森ノ御イベ)、大川之嶽 (島小御嶽?、神名 : 中森嶽ツカサノ御イベ)、神山之嶽 (神名 : 森司嶽ツカサノイベ)
  • 殿: 知念城御殿 (火ヌ神)知念城内之殿、長堂之殿、越地之殿、平等原之殿、具志堅之殿、コカルケンヌ殿、波田真殿
  • 拝所: 知念巫火神、知念里主所火神、波田真巫火神 (新屋)大川



知念グスク入り口に置かれていたガイドマップ


知念集落走行ログ


知念公民館、知念農村公園

知念集落は急な斜面に集落が形成されており、自転車で文化財を巡るのは辛そうなので、公民館に自転車を停めて徒歩にて巡ることにした。公民館は丘陵の海側に面した所にある。公民館の前はかなり広い広場となっていた。正月休みということもあり、子供達が凧揚げをして楽しんでいた。この公民館がある場所が以前は何だったのかは分からないが、村屋はここではなく、国道331号線沿いにあったそうだ。

この広場では旧暦6月25日に5年毎に大綱引きが行われている。この大綱引き昭和30年代に大干ばつが発生した事や、農業の中心が稲作からサトウキビ栽培へと移行した事で、綱の材料となる藁が入手困難となり、昭和33年を最後に綱引きは実施されなっていたが、2003年に「ふるさと文化再興事業」の助成で、「与那原大綱曳き」の関係者からの協力を得て、材料の藁は金武町から調達し、45年ぶりにこの農村公園 (以前は現在の国道331号線の大道) で復活した。道ジュネーやガーエー、棒術などに続き、綱引きが行われた。知念の綱引きは「ケンカ綱」ともよばれ、綱を上下に持ち上げ、地面に叩きつける。西と東にわかれて綱を引き、西が勝つと豊年を、東が勝つと平和を招くといわれており、それは東西組それぞれの旗頭に描かれている。


児童公園

公民館の裏手側は児童公園になっていた。遊戯具などが置かれている。ここからは先日訪れた久手堅の知念岬の海岸が綺麗に臨める。


ノロ墓

農村公園のすぐ北の畑の中に大岩があり、その根元にノロの墓がある。知念区ではかつては知念ノロと波田真ノロの二人がいたのだが、どちらのノロの墓かは書かれていなかっが、この直ぐ側には波田真殿やノロの屋敷跡の新屋があるので波田真ノロの墓ではと思う。


波田真殿 (ハダマトゥン)

公民館のすぐ北側にハダマタイと呼ばれる広場があり、その奥に波田真殿 (ハダマトゥン) の拝所がある。ハダマ御殿とも呼ばれている。寄せ棟風のコンクリート造りの祠が置かれている。ウマチーの時には祠の前に、四隅に竹を柱にして1m四方の地を囲み、そこに筵を敷いて波田真ノロの座敷を造り、御願の儀式がなされていた。現在はそこに新屋から持ってきたノロの幻玉を飾るという。 琉球国由来記の「波田真殿」にあたり、稲の二祭 (初穂祭と大祭) の時の供物と波田真巫 (ノロ) が祭祀を行ったことが記されている。現在は、東門門中 (アガリジョームンチュウ) の惣領が司祭を務めて、5月15日の五月ウマチー、6月15日の六月ウマチーで拝まれている。知念集落には知念ノロと波田真ノロがいた。これは、昔は二つの集落が存在していた事を表している。東門門中が波田真村の根人で、一方、大屋門中が内間大親 (知念按司) を祖とする知念村の根人になる。五月ウマチー、六月ウマチーでは東門門中は知念グスクの祭祀には参加せず、知念グスクで祭祀をする大屋門中はハダマタイの祭祀に参加しないそうだ。この様に村は同族門中組織でありあ、御願する拝所もその一族で個別に決まっているのが沖縄集落の特徴。


和魂之塔

ハダマタイの広場の波田真殿 (ハダマトゥン)と反対側に戦没者の慰霊碑である和魂之塔が昭和28年に造られ置かれている。沖縄戦で犠牲となった集落の55柱を慰霊している。


タンチブラ、タンチブラガー

波田真殿 (ハダマトゥン) の北側、国道331号から集落内を海へ下りる道沿いに大岩があり、その上にタンチブラと呼ばれる拝所がある。 ニつの祠が立っており、そのうちの一つは、昔は厨子甕で、大岩の下にあったそうだ。その後、もう一つの祠が久高島への遥拝所として、大岩の上に新たに造られ、元々あった厨子甕の拝所もコンクリート造りとなり、大岩の上に移された。現在では岩の形が変わってしまっているのだろうが、昭和19年末頃は、知念集落に駐留していた石部隊 (第62師団独立歩兵第21大隊) が、タンチブラの岩山と岩山の間の洞窟を馬の避難所として使用していた。その後、沖縄戦の初め頃には、知念の住民17戸と軍人の同居壕として使用されたそうだ。

大岩の下にはタンチブラガー跡があり香炉が置かれている。タンチブラ拝所のグサイガーだろう。


サーターヤー跡

タンチブラのすぐ側にはサーターヤーがあったそうだ。今は何もなく木々が生い茂っていた。


新屋 (ミーヤ、波田真巫火神)

国道331号を渡り、知念グスクへの古道になる大道 (ウフミチ) の始まる場所に波田真ノロの屋敷と言われている新屋 (ミーヤ) がある。現在でも住民がいる民家の屋敷内の母屋に接して東側に造られたコンクリート平屋が神屋になっており、波田真ノロの勾玉を保管しているという。琉球国由来記の波田真巫火神と考えられ、二祭 (初穂祭と大祭) の三日への時の供物と波田真巫 (ノロ) が祭祀を行うことが記されている。現在は、三月ウマチー、4月のアブシバレーの前日のミチシマ、5月14日の五月ウマチーの三日崇べ、6月14日の六月ウマチーの三日崇べ、6月24日のアミシヌ御願、7月7日の七夕が行われている。


産井泉 (ウブガー、新屋の前)

新屋 (ミーヤ) の屋敷の石垣に接して産井泉 (ウブガー) がある。ノロ屋敷に隣接していることからノロ井泉とも呼ばれている。知念集落では産水は各家庭の近くの井泉から汲まれた事から、産井泉 (ウブガー) と呼ばれる井泉は多くあるそうだ。


東門 (アガリジョー) の根屋 (ニーヤ)

新屋の西側の1ブロック登った所に東門 (アガリジョー) の根屋 (ニーヤ) がある。琉球石灰岩の巨岩の横にコンクリートブロック造りの神屋が置かれている。ここは知念邑発祥の家といわれ、祭壇上の3つの香炉は全て根神を祀っている。伝承ではここは波田真村の根神を祀っているという。現在は、2月15日の二月ウマチー、4月のアブシバレーの前日のミチシマ、5月14日の五月ウマチーの三日崇べ、6月14日の六月ウマチーの三日崇べ、6月24日のアミシヌ御願が行われている。


大道井泉 (ウフミチガー)

新屋から知念グスクへ上がる道沿いには大道井泉 (ウフミチガー) がある。池沼だったが、泉地の前面は埋められ、コンクリートが張られている。綱引のカヌチ棒はここにあった池沼の底土に埋めて保管されていた。大道 (ウフミチ) の側にある井戸という事でこう呼ばれている。古くは生活用水として利用されていた。


大道 (ウフミチ)

大道井泉 (ウフミチガー) の前に通っている道は大道 (ウフミチ) と呼ばれ、集落の幹線道路だった。

ウフミチガーの後方の駐車場の隅に拝所がある。


川溝殿

大道を知念グスクに向かい登っていくと、途中に神屋がある。川溝殿と呼ばれ、南風原町与那覇宮城 (ナーグスク) の関係の拝所で、知念集落では拝まれていない。琉球王統時代に

川溝という人が住んでおり、知念グスクに仕えていた。人格者で、徳もあり、人のためによく尽くし、民からは尊敬され、有能な人物だった。その評判から首里王府は川溝を首里に呼びよせ、王府に勤めるようになった。知念から首里は遠く、南風原町与那覇宮城 (ナーグスク) に移り住んだ。元々住んでいた場所に祖先の霊を供養し祭祀行事を行なうために稲福門中の人達が川溝殿を造ったそうだ。 稲福門中が正月、五月ウマチー、 六月ウマチー、 七月の盆にはここを訪れ御願している。


知念の石獅子

知念部落の入口に北々東に向けて置かれ、魔除け、サンゲーシの役をはたしている。


胴道 (ルミチ) 壕

上クルク原のかつての登城口であった古道の坂道を登ると右手側に岩崖がありその下にいくつもの拝所が置かれている。

戦前に知念集落の屋号 門小 (ジョーグヮー) の班が探りあてた水源地で、沖縄戦当時は岩陰がそのまま門小の近所の八世帯住民の避難壕として使用されていた。奥に洞窟への通路がありそこにも祠が置かれている。

洞窟の上には、大きな祠もあり、その横にも小さな祠が置かれ、まだ新しい水が供えられていた。香炉がそれぞれ何を祀っているのかは調べ切れなかった。水の神、火の神、避難壕として住民を守った感謝なのだろうか?


更に古道の坂道を登ると、知念グスクへの表示が出て来た。表示板の道を下ると、入り口がある。


ウェーンガマ

知念グスクへの表示板がある坂を少し上に上った所にも、ガマ跡があった。これが、案内板のウェーンガマではないかと思う。写真がないので、確信はないのだが、ガマの岩壁が黒く焼け焦げている。これは沖縄戦当時使われた避難壕でよく見かける。ここの坂道を通る人がこの岩陰で涼をとったり雨宿りをしていた。このガマは洞窟ではないのだが、沖縄戦当時は


ノロ屋敷跡

知念グスクの案内板があるところから道を下り知念グスクに向かう。知念グスクの手前、城外にはノロ屋敷跡がある。知念ノロの屋敷だろう。この屋敷がいつ建てられたかは不明だが、おそらく琉球王国時代と思われる。入り口が二箇所あり、現在でも石積みが綺麗に残っている。

屋敷跡には礎石が残り、建物の縄張りが推測できる。一画には香炉がいくつか置かれており、拝所になっている。


知念グスク

知念の集落の西方、標高約90mの山の中に知念グスクがある。このグスクは中山世鑑の琉球開闢之事では、天帝から国造りを命じられたアマミキヨが 「先ヅ一番二、 国頭二、辺土ノ安須森、次二今鬼神ノ、カナヒヤブ、次二、知念森、斉場嶽、藪薩ノ浦原、次二玉城アマツヾ、次二 久高コバウ森、次二 首里森、真玉森」云々と、島造りをするその最初に挙げられ、開闘神話以来の聖地だった。知念グスクは東部の古城 (クーグスク) とその後に築かれた新城 (ミーグスク) がある。琉球国由来記には城内友利之嶽 (神名: 知念森添森ノ御イベ)、知念城御殿 (遺老説伝では知念御殿)、知念城内之殿の3つの拝所が新城 (ミーグスク) 城内にあったと記載されている。城跡内には1761年から1903年までの間、知念間切の番所が置かれていた。


新城 (ミーグスク)

新城 (ミーグスク) は尚真王 (1477年 - 1527年) の異母兄弟 (尚円王と内間ノロとの子) で西原間切内間村にいた内間大親が築いたと伝わっている。内間大親が知名グスクの守護役 (この守護役がどの職を意味するのかは書かれていない) への任命され、知名グスクに住んでいた。(別の伝承では、当時知名集落大掟であった知念村大屋の元祖の古根という人の養子となったとされる) その期間で、知念グスクを改修したと言われ、それが新城 (ミーグスク) という。内間大親の死後、尚豊王の時代には、彼が守っていた屋」を知名グスクから知念城内に移して「知念御殿」としたという。


表門

知念グスクの石碑の場所は、かつての表門だった場所で、石段を登り、表門を入る。表門としては比較的小さな門。


池の跡

表門を入った所にある仕切りの石垣の向こう側にはかつては池があったとされる場所がある。池の縁石なの四角く囲んだ石が置かれている。奥には拝所がある。


火ヌ神 (知念城御殿)

表門と池の跡の前は、広場になっており、その中にトタン小屋がある。グスクの発掘調査以前はグスク内中央部にコンクリートブロックで壁を造った瓦葺きの拝所があり、これが琉球国由来記の知念城御殿にあたるものだった。発掘調査のため取り壊され、現在のトタン小屋になり、そこに火ヌ神が祀られているっている。このトタン小屋は仮屋だそうだが、新しい祠が建つのかは不明。中には三つの石が竈の形を作った火の神が祀られている。知念城御殿 (知念御殿) では稲穂祭の時、総地頭や百姓等が供物を捧げ、知念(ノロ) 波田真巫 (ノロ) が祭祀を行っていた。現在の火ヌ神は番所が移動した後に知念集落の人々が祠をつくり祀ったもの。


知念城内之殿

火の神と岩山の間の広場は、稲大祭の時だけ四本の竹を立て縄で結び拝所として特設された知念城内之殿の場所。この四本の竹を立て縄で結ぶ拝所は、時々出くわす。祠も香炉もない空き地に建てられていることが多い。知念城内之殿は知念集落の宗家の根屋である屋号知念大屋の根人の管理で、知念ノロが波田真ノロと共に知念城内の祭祀行事を司っていた。 琉球国由来記では「知念城内之殿御殿前之庭に席を設ける 稲大祭 (六月ウマチー) の時、五水一沸六合、花米一升八合 (惣地頭で) 供える。 麦 神酒二 (同村百姓で) 供える。 知念巫、波田真巫、祭祀である。 知念村に一田がある。 内川 (大川) と言う。故に、根人も川内と名が付く。しかるに、今誤って、幸地と言う。この田に昔、阿摩美久、稲を蒔き始めたと言われている。根人で、穂祭の日に、右の田から穂を取ってきて、播り砕き、水に混ぜて、半分は、根神並びに、家庭 (世帯) 人数で飲む。 半分は 煮て、イノエガナシと言うイベに祭るのである。 又、この田から穂をとって、殿に備えるのである」と、当時の祭祀の様子が記されている。現在では五月ウマチーと六月ウマチーで御願されている。


裏門

知念グスクへの入り口は二つあり、表門ともう一つの裏門。裏門は表門より小さくできている。この二つの門はそれ程距離が離れておらず、同じ道に面しているので、表門は、按司や来賓の正式門で、裏門は緊急避難用の紋ではなく、グスクの使用人の通用門のように思える。


焚字炉

裏門の横には焚字炉が置かれている。知念グスクは明治時代初期までは知念間切の番所が置かれており、この焚字炉で多くの文書が焼かれていたのだろう。

城内は石垣に囲まれている。現在でもそのほとんどは復元整備されており、一部では改修中だった。


友利之嶽 (トモリヌタキ)

知念グスク内の南西部の城壁近くの平地は石垣で囲まれて (現在では石垣は壊れているが礎石は残っている) 一画を形成しているのだが、ここが友利之嶽 (トモリヌタキ) という御嶽の場所。御嶽敷地の奥の方に幾つかの切り石が積まれ祭壇となり、香炉が数個置かれている。 琉球国由来記には城内友利之嶽 (神名 知念森添森ノ御イベ)」とある。由来記によると、正月には大勢頭部あるいは当職を派遣しての祈願、 4月の稲のミシキョマ (御初穂祭) の時、隔年に一次、当職を派遣しての祈願、 毎年9月の麦初種子・ミヤ種子の時には当職を派遣しての祈願、 毎年12月には大勢頭部を派遣しての祈願、 毎年3月と8月の四度御物参の祈願、旱魃の時には国王親祭の雨乞いの祈願など、 六つの王府祭祀が行われた。知念巫の司る祭祀で、国の繁栄、国王家族の安念などの趣旨のオタカベ (祈願詞、祝詞) が唱えられたそうで、知念村の拝所というよりは、首里王府の拝所の意味合いが強かった。この御嶽は久高島への遥拝所でもあり、この祭壇からは石垣の先に見える海に久高島がはっきりと臨める。

これで知念グスクの新城 (ミーグスク) を見終わり、次に新城の隣にある古城 (クーグスク) に移る。


古城(知念森グスク)

知念グスクの古城 (クーグスク) は知念城跡表門の左手の山にあった。遺構としては城壁も僅かに残っているが、整備はされておらず、深い木々に覆われている。いつも通り、強引に林の中に入り、頂上まで登ってみた。かつての古城の状態が残っているのかは定かではないのだが、所々に踊り場のようになっており、これはかつての縄張り跡なのかとも思う。古城頂上は新城より高い位置にあり、見晴らしは新城より良かったと思われる。ただ、この古城がどのような性格を持ったグスクかは明確でなっておらず、久高島への遙拝所だったという説などもある。新城は第二尚氏時代初期に造られており、古城はグスク時代のグスクになり、その時代の知念按司の拠点だったが、知念按司の住居があったとは思われず、物見台の役割を果たしていたグスクと思われ、住居は現在の新城やノロ屋敷、近くの古屋敷のあたりであったのではないだろうか。グスク時代の知念按司についての情報は、ほとんど見当たらなかったのだが、知念按司の妻は大城按司の妹、南山の八重瀬按司の達勃期の三男 新グスク大親の妻は知念按司の娘、垣花按司 (桃原大主) の長男 垣花若按司の妻は知念按司の娘ともあり、グスク時代には南山国の知念間切は知念按司の勢力下にあった。

古城と新城との通路は資料には無いのだが、知念城内之殿が臨時に設置される場所の奥に続く道があった。行き止まりだったのだが、ここがかつての古城への通路だったのかもしれないが、新城ができた後は古城は使われなくなったことから、はっきりと残る通路もなくなってしまったと推測する。


ワカチバナー

知念グスクの南東100メートルほどのところにワカチバナーと呼ばれる丘陵がある。知念グスクの出城と考えられている。


古屋敷跡

知念グスクから西側に向かって遊歩道がある。ウファカルや知念大川 (チニンウッカー) に向かう道だ。東御廻い (アガリウマーイ) では知念グスクの後は知念大川 (チニンウッカー) を巡るので、この遊歩道がその巡礼古道だった。道を入った所に古屋敷跡があり、敷地には石積みの祠が置かれていた。この古屋敷がどの時代の誰の屋敷なのかは見当たらなかった。

古屋敷から遊歩道に戻り、先に進む。この遊歩道は古道で石畳が所々に残っている。途中に分かれ道があり、知念按司の墓とウファカルの案内板に従って右の道に入る。


ウファカル

ウファカルは御穂田 (ミフーダ) ともいわれる。多くの集落には稲作が盛んだった時代にはこの御穂田 (ミフーダ) があった。ここの御穂田 (ミフーダ) は特別な場所で、稲作発祥の地と伝わっている。遺老説伝には阿摩美久が稲の種を播いた田を田内川 (知念邑に在り)」と名付けたとある。知念大川 (チネンウッカー) の後背地にあり、玉城百名の受水・走水 (うきんじゅ・はいんじゅ) とともに稲作発祥地と伝えられている。琉球国由来記ではニライカナイからアマミク神が稲の種子を持って来たと記されている。数十年前までは、辺り一面に水田が広がっていたそうだ。


知念按司の墓

ウファカルから山に入る道がある。この先に知念按司の墓がある。道はかなり急で女性には辛いだろう。知念グスクに観光に訪れた人もウファカルまでで、この按司墓までは訪れない様で、この道では誰とも出会わなかった。

岩盤絶壁の中腹に墓があった。知念按司の墓と伝わっている。現在、知念按司の子孫と伝わる大屋門中が拝んでいる。按司の家族もこの墓に埋葬されていると伝えられている。資料ではノロのウコールが三つあると書かれていた。 ウサチ世のノロのウコー ル (大昔の, 村はじめのノロのウコール)、 中ガイ世のノロのウコ ール (村がおちついた一昔前のノロのウコール)、 今世(イマユー) のノロのウコール (現在のノロのウコール) だそうだ。ノロとは知念ノロのことだろう。

按司墓からみた上クルク原の断崖は黒く焼けている。この上クルク原には沖縄戦当時には避難壕があったそうで、この黒焦げは戦火の跡かもしれない。


知念門中当世墓 (チニンムンチュウトウシバカ)

知念按司墓から更に森の奥への道があり、行き止まりには知念門中墓が置かれていた。知念門中とは現在の大屋門中のことだろう。知念家はいつの時代かは不明だが玉城村から知念集落の土地に移住してきた。知念門中からは代々知念ノロを出しており、ウマチーの時には知念ノロが七つの殿を祭祀する時に馬の手綱を引いて案内する役目を務めていたという。


知念大川 (チニンウッカー)

ウファカル、知念按司の墓から元の遊歩道に戻り、古い石畳道を下ると知念大川 (チネンウッカー) に通じていた。

井泉の周囲はコンクリートで固められている。現在も湧き出ており、農業用水として使用されている。知念大川の水源地は先程訪れたウファカルだそうだ。この知念大川 (チニンウッカー) は東御廻り (アガリウマーイ) の巡礼地の一つとなっている。これで東御廻りの14の巡礼地全てを見終わった。井泉の後方の岩の前にコンクリートで壇を設け、その上に香炉が4つ置かれている。ある資料ではこれが大川之嶽と書かれていた。琉球国由来記の大川 (神名: 松嶺川ミネノイ べ) にあたるとされ、4月の稲のミシキヨマの時に当職を派遣して祭祀を行う、旱魃の時には国王が行幸して祭礼が行われると王府の祭祀が記されている。現在は知念集落では祭祀は行われていないが、集落内の各門中が1月1日に初水御願を行なっている。


大川之嶽 (ウッカーヌタキ)

知念大川の後方の森の中に大川之嶽 (ウッカーヌタキ) があったと資料には載っていたが、御嶽の写真は後方の森の写真で、拝所自体のものは見当たらない。先程の知念大川にあった香炉がそれにあたるという資料もあったが、御嶽の場所が特定できず遥拝所としてそこから拝むようになっているのでは無いだろうか? 琉球国由来記には「大川之嶽 (神名 中森嶽ツカサノ御イベ 知念村 知念巫崇所」 とある。大川之嶽と大川之殿は知念大川から飲料水、生活用水、農業用水として多くの恩恵を受けていた事から、その水に感謝し、幸せと生活の安寧、五穀豊穣を祈願し、知念大川をも守るために造られたと考えられる。


大川之殿 (ウッカーヌトゥン)

大川之嶽と同様に大川への感謝の為に大川之殿が造られたとされているが、現在でも残っているのかがよくわからない。この大川之殿跡の写真 (写真右上)が一つの資料に掲載されていた。四方開いた瓦葺きの約3坪ぐらいの殿であったが、殿は、いつ頃かに壊れてしまったそうだ。どのような祭祀行事があったかもよく分かっていない。写真を頼りに、大川之嶽の東側を探すと、写真に近い場所があったが、ここが大川之殿があった場所なのかは分からない。


島小御嶽 (シマーグヮーウグヮン) (未訪問)

知念大川の道向かいの少し高くなっている畑地に島小御嶽 (シマーグヮーウグヮン) があると書かれていた。知念村は元々は具志堅の島小 (シマグヮー) にあったとされているので、この辺りに村が造られ、その後現在地に移動したのだろう。

島小御嶽 (シマーグヮーウグヮン) は「御名付け御嶽」「御名付け」「長堂御願」 とも呼ばれ、「ウナージキ神」が祀られ、神人になった際は必ずこの御嶽を拝んだという。ある資料ではここが大川之嶽と書かれていた。どうも、大川之嶽、島小御嶽、大川之殿、御名付け殿、長堂之殿については名称や所在地などが明確ではないようで、資料によってかなりの解釈の違いがある。ある資料では、ここにある拝所は御名付け殿 (写真左) とし、御嶽はその奥の山の中にあるとなっていた。ここに祠の拝所があることは確からしいのだが、私有地で金網でフェンスがあり中にははいれない。その祠の写真が資料に掲載されていた。また、この辺りには御願井泉、産井泉 (写真右) の二つの井戸跡もあるそうなのだが、辺りを歩き探すが見つからなかった。


この時点で、午後4時を過ぎており、今日 (1月3日) ですべては見終わらなかった。残りは直に回すことにする。ここで、休憩をして帰途に着こうとしていたら、野良猫が近寄ってきた。毛並みの良い猫だ。沖縄は猫に寛大なのか、至る所に野良猫がいる。それもブランド猫と思えるような見栄えの良い猫が多い。子供の頃はまだ近所に野良猫が多くいたのだが、代替は三毛猫かトラ猫で、ブランド猫の様な種類はいなかった。沖縄の野良猫は人懐っこい猫が多い。多分近所の人たちが、それなりに世話をしているから、人を恐れないようだ。この猫の相手を暫くして家に向かう。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
  • 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)
  • 知念村の御嶽と殿と御願行事 (2006 南城市知念文化協会)
  • 知念村文化財ガイドブック (1994 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第一巻 (1983 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第二巻 知念の文献資料 (1989 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第三巻 知念の文献資料 (1994 知念村史編集委員会)