クリスマスと松尾芭蕉
https://plaza.rakuten.co.jp/hukanouwachousen/diary/201312230000/ 【クリスマスと松尾芭蕉】より
蚤(のみ)虱(しらみ)馬の尿する枕もと 芭蕉
芭蕉の「おくのほそ道」について調べていて、クリスマスに関連して気になった俳句です。
尿をシトと読むか、バリと読むかはそれぞれ説があるそうです。
芭蕉とともに旅をした曾良によるとバリ。しかし、紀行文として地名の尿前に掛けたととると「シト」。どちらにしても、人が馬とともに住んでいた東北地方の家に、芭蕉が慣れずに泊まったことが述べられています。
ヨセフとマリアの旅はナザレからヨセフの先祖の生まれ故郷、ベツレヘムへの旅。ベツレヘムの宿はどこも人であふれ、二人は家畜小屋にとまらざるをえませんでした。身重のマリアはそこで出産したのです。
ベツレヘムの星や天使に彩られた美しい夜です。しかし、家畜小屋は必ずしもそうではなかったのです。
主イエスが人としてお生まれになったことへの感謝はつきません。
メリークリスマス!!
https://tsurukita-church.org/%E3%80%8C%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%B0%E3%81%8A%E3%81%91%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AB%E3%80%8D%E3%80%80%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B82%E7%AB%A0120%E7%AF%80.html 【「かいばおけの中に」 ルカによる福音書2章1~20節】より
クリスマスイヴ礼拝
クリスマスおめでとう。皆さんと共に、今年もクリスマスを迎えられたことを感謝した、い。暖かく、灯りのともった部屋で、ひとりぼっちでなく、誰かといっしょに、安心して、ひと時を過ごせる場所がある。これは当たり前のことではなく、とても貴重なことだ。とりわけ現代では、なお一層そうであろう。
クリスマスとは、主イエス・キリストの誕生を祝う日である。神のひとり子が、赤ん坊として、この世にお生まれになった。私たちもかつて、世に生まれ出た誕生の日があった。それと同じように、ひとりの女から、神の子が誕生したのである。
聖書が記す、初めてのクリスマスの様子を、先ほど読んでいただいた。主イエスの誕生の次第はこうである。「彼ら(マリアとヨセフ)がベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで、飼い葉桶に寝かせた」。「かいばおけ」とは、牛や馬が食べる「えさ(わら)」を入れる桶のことである。木や石でできている。皆さんが誕生した時に、初めて寝かされた場所はどこか。「かいばおけ」に寝かされた人はいるだろうか。うちは貧乏だったから、と言っても、皆あたたかな、ベッドや布団に寝かされただろう。なぜ「かいばおけ」なのか。こうその理由が記されている。「宿屋には彼らの泊る所がなかったからである」。
松尾芭蕉の紀行文『奥の細道』にこうした句がある「蚤虱馬の尿する枕もと」。ある宿屋に泊った体験が、生き生きと描かれている。芭蕉が泊ったその宿屋、そこら中にノミやシラミがわいており、さらに馬がおしっこをひっかけてくる、今でならとんでもない宿屋である。聞いているだけで、体中、かゆくなるような気がする。しかし、その時代の宿屋とは、そんな程度だったのだろう。
聖書の国も同じ、旅人は普通、親戚、知り合いや友人の家に宿を借りた。宿屋には泊まろうとはしなかった。なぜなら「蚤虱馬の尿する枕もと」という次第だったからである。宿屋は不潔で物騒な場所、知り合いもいないから、仕方なく泊まる場所であった。しかしマリアとヨセフはその宿屋すら泊れなかった、というのである。「宿屋には彼らの泊る所がなかったからである」。
こういう話を聞いた。ある子どもの施設での出来事。事情があって親と一緒に暮らせない子どもたちが生活している。クリスマスの少し前に、ボランティアたちがやってきて、子どもたちに、初めてのクリスマスの物語を話した。多くの子どもたちは、その話を聞くのが初めてだった。マリアとヨセフがベツレヘムの町に着いても、宿屋はどこもいっぱいだったので、結局、馬小屋に泊まって、マリアがイエスを産み、飼い葉桶の中に寝かせた話を、子どもたちは驚きながら、夢中で聴き入った。
お話の後は、工作の時間だった。飼い葉桶の材料として、子どもたち一人一人が小さな厚紙をもらい、黄色い折り紙を細かく切ってわらに見立て、ベージュ色のフェルトの布を切って赤ん坊のイエスの顔を作り、はぎれでおくるみを作った。ボランティアたちは、一生懸命作っている子どもたちに話しかけ、助けが必要な子には手を貸した。
その一人が6歳の男の子のところに来ると、もう工作は出来上がっていた。しかし、よく見ると、飼い葉桶には赤ん坊が二人いるではないか。そのわけをきいてみると、その子は腕組みをして、真剣な表情で説明を始めた。まだ幼く、クリスマスの物語を一度しか聞いたことがないというのに、物語のほとんどをかなり正確に言うことができた。そして、マリアが赤ん坊のイエスを、飼い葉桶に寝かせる場面に来ると、自分の物語を語り始めた。
「赤ん坊のイエス様が、僕を見て、『泊まるところはある?』って聞いたんだ。だから、『ぼく、お父さんもお母さんもいないから、ないよ』って言ったの。そうしたら、イエス様が、『一緒に泊まったら』って言ったんだ。だけど、『できないよ』って言ったんだ。だって、他の人たちみたいに、イエス様にあげるものが何もなかったから。
だけど、イエス様と一緒にいたくてたまらなかったから、何かプレゼントにできるものないかな、って考えたの。それで、『イエス様をあったかくしてあげるなら、プレゼントになるかな?』って聞いたら、イエス様は言ったんだ。『そうだね、それは何よりもすてきなプレゼントだね』って。だから、飼い葉桶の中に入ったんだ。そうしたら、イエス様がぼくを見て、『ずっと一緒にいていいよ』って言ったの。」なぜ「飼い葉おけの中に」赤ちゃんが二人いたのか、その理由である。
話し終わった男の子の目に涙が光り、その頬に涙がつたった。それから手で顔をおおい、テーブルの上に突っ伏してすすり泣いたのだった。この男の子は、自分を捨てたり、虐待することのない誰かを見つけたのだ。「ずっと」一緒にいてくれる誰かを。
https://catholic-i.net/koramu/%E3%83%BB%E7%AB%B9%E5%86%85%E7%A5%9E%E7%88%B6%E3%81%AE%E5%8D%88%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%95%A3%E6%AD%A9%E9%81%93%E3%80%80%E2%91%A5%E3%80%8C%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%91%BD%E3%81%AE%E5%87%BA%E4%BC%9A/ 【・竹内神父の午後の散歩道 ⑥「二つの命の出会い」-聖母マリアの月に】より
「命二つの中に生きたる桜かな」(『野ざらし紀行』)――松尾芭蕉が、同郷の弟子・服部土芳と二十年ぶりに再会した時の感懐を綴ったものです。場所は、桜の下。生きていればこそ、の再会です。二人の命が、こぼれ落ちるような桜の命に包まれている、そのような情景が浮かびます。人と人との出会いとは、本来、このような命と命の出会いなのではないか、とそう思います。出会いは、一見 当たり前のようでいて、実は、その背後には、本人同士にも分からない不思議な縁があるのではないでしょうか。
神の母
マリアの中で 二つの命が出会います。一つは人間の命、そしてもう一つは神の命。この二つの命が一つとなって、私たちに与えられましたーイエス・キリスト。時は満ちました(ガラテヤの信徒への手紙4章4節参照)。永遠が時間の世界に入ります。慎ましい一人の「シオンの娘」(ゼカリヤ書2章14節)が、「神の母」(テオトコス)となります。生まれてくる子は「インマヌエル (イザヤ書7章14節)と呼ばれ、「いと高き方の子」(ルカ福音書1章32節 と言われます。彼は、ダビデの子孫として人間の子であり、神の霊によって神の子です。神の母となること、それが マリアに与えられた神からの使命です。それゆえ、彼女は 「恵まれた方」(ケカリトーメネー)と言われます (同書1章28節参照)。
恵まれた方
「恵まれた方」ーこれが 天使ガブリエルのマリアに対するあいさつです。聖書において、この言葉が使われるのは、ここだけだそうです。「マリア」ではなく、「恵まれた方」と呼びかけられます。あたかもそれが、マリアの名前であるかのようです。マリアが そのように呼ばれる理由として、次の二つのことが考えられます。
一つは、彼女が、聖霊によって神の子を胎内に宿したから。 すなわち、霊的祝福を受けたからです。 聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む (ルカ福音書1章35)。「包む」は、「影を落とす」という意味であり、旧約聖書において、それは、雲の中の幕屋における神の現存を表わします。つまり、「神の霊がマリアの中に降り、彼女を守る」ということでしょうか。
もう一つは、戸惑いながらも 神の御旨を素直に受け入れ、それによって神の救いの業に参与したからです。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身に成りますように 」(ルカ福音書1章38節 )。それによって、「秘められた計画」(ローマの信徒への手紙16章25節)が明らかにされます。
私たちは、まったく同じ意味で、恵まれた者となることはできないでしょう 。しかし、「恵まれた方」という名に与ることなら、できるかもしれません。神の言葉に心を開き素直にそれを受け入れ、それを深く静かに味わいたい、とそう願います( ルカ福音書11章28節、 詩編95章7 8節参照)。
神の子は、確かに 私たちに与えられました。彼は、神と人間の唯一の仲介者であり(テモテへの手紙1・2章5節)、たった一点を除いて、私たちとまったく同じ人間となりました。その一点とは、彼の中に「まったく罪がない」 ということです(ヘブライ人への手紙4章15節)。
マリアの中で 二つの命が一つとなりました。そのように、私たちの中でも、神の命と自分の命が出会い 一つとなります。なぜなら、この神の子が、御父との交わりの中に私たちを招いているからです(ヨハネ福音書17章21節)。
(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」による)