預言者イザヤの息子が先導して立国の為東方へ旅立つ→日本「神武天皇即位」
https://blog.goo.ne.jp/syouryou5155/e/a472ca5a74ef36003da24b39263e0207 【預言者イザヤの息子が先導して立国の為東方へ旅立つ→日本「神武天皇即位」】より
イスラエル10支族のエフライム族が(●西暦前660年~)立国の為 東方へ旅立つ→
・ 旅立つ→日本「神武天皇即位●西暦前600年」
●預言者イザヤの息子について●「神のお告げ」
・BC722年(西暦前722年)、●南北イスラエルが崩壊●するとき、神のお告げを授けられた預言者イザヤが、エルサレム神殿から「契約の箱と神宝」を持ち出し、弟子たちのうちに封じました。
イザヤ書第8章16節
・弟子たちはこの教えを(時が来るまで) 封印せよ。
その後、イスラエルの奇跡となる「●「約束の子」が現れ●彼に望みを託せよと「神のお告げ」・ダビデ王朝は復活し、民は大いなる光を見出す」●イザヤ書第9章6節
神が約束されたダビデの王座は、新天地(日本)においても継続することになりました。神の王国はとこしえまで絶えることがないのです。イザヤ書第9章7節
・主は、間もなく男の子が生まれるとイザヤに告げました。
その子の名前は「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」にするようにと●「神のお告げ」
●イザヤの息子
「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と云う意味」
「僕の名前は、分捕りは早く、略奪は速やかに来る、です
・● 神武天皇をはじめ 皇族が日本の支配的階級におさまったという説は、さまざまな状況証拠 によって認められてきている。(残念ながら未だ決め手がない) さらに、●AD4c(西暦300年~)、 景教(ネストリウス派)に改宗したユダヤ人のグループである ●秦氏一族が、キルギス、 朝鮮半島を経て、2万人も大挙して日本にやってきたとされている。
・このあたりの歴史的経緯の真相は、後の仏教徒らによってかなり歪められている。
出雲大社の近辺に、ルベン、ガド、マナセの半部族が来たと言われている。
BC660年(西暦前660年)にアッシリア捕囚となった北イスラエルの離散した末裔の●エフライム族●が日本に来て、支配階級に就いた事は十分考えられることである。
日本人の人種は基本的に中国・モンゴル系で、従来の通説で アジア系はセムの子孫と
考えられてきたが、実は ヤペテ系であるとするのが正しいようである。
(中国の苗(ミャオ)族の伝承によると、漢族と苗族はヤペテの末裔である。
”ヤペテ”とは”広がった”の意味で、実際 モンゴル、中国、エスキモー、アメリカインディアン、南米まで最も広く分布している。)
日本人は、これに、朝鮮系、南方系(一部、ハム系)、ツングース、ヨーロッパ系などが
入り混じった「異邦人」であり、さらに一部にユダヤ系が入り混じった混合人種である。
日本には初めからの先住民族というものは存在せず、中国系、モンゴル系、朝鮮系、
東南アジア系、中東系、ヨーロッパ系などが移り住んだ混血の民族である。その中で、
高い文化水準を持った大陸からの民として、●サマリヤの血筋を引くイスラエル10部族の内の●エフライム族●が日本にやってきて、支配階級に就いた事は十分考えられることである。
日本の伝説的な初代天皇と言われている、●神武天皇は「サマリヤの王と自称している」(*1)
日本人がすべてイスラエルの末裔というわけではないが、状況証拠(*2)から、
少なくとも皇族にはその血が流れている、という説は非常に有望であり、今後の発見が
待たれるところである。
卑弥呼の時代にもあるように、サマリヤの偶像崇拝(太陽神崇拝)や占いの伝統は、
本来のヤーウエ信仰と共に並行して、初期からそのまま日本に引き継がれていたと考えられる。
イスラエルからはるばる中央アジアのキルギスを経て、マナセ族と分かれた●エフライム族●の一部は、このように日本に移り住んできたのである。逆に、聖書預言によるならば、終わりの時、再びシルクロードを通ってイスラエルに向かう事も十分考えられる。
・ かつての明治天皇をはじめ、皇族の人たちは日本人のユダヤ性を信じる傾向にある。
明治天皇のこと
・ ヤタガラス ・・・ 天皇家の祭儀、日本各地の神道を仕切っているグループ(秦氏系の人々)
・ 皇族エフライム説の決め手となる 証拠が明らかにされる時、イスラエル国からの何らかの働きかけが来ると考えられる
・ 伊勢神宮の謎 ・ ヤタの鏡に古代ヘブル文字(昭和天皇の弟の三笠宮殿下が確認 )・・ヤハウエ信仰
・内宮の地下殿に十字架(”羽田竿(ハタザオ)”) ・・・ インリ信仰
・外宮の地下殿に青銅の蛇があるらしい ・・・ ユダでなく●北イスラエルの証拠 ●
・天皇の墓(古墳) ・・・ 今まで一度も内部調査されたことがない
BC660(西暦前660年)にアッシリア捕囚となった北イスラエルの離散した末裔の●エフライム族●が日本に来て、・ 天皇の墓(古墳) ・・・ 今まで一度も内部調査されたことがない
4. イスラエル十部族の帰還について
(1) 日本人のユダヤ性:
エルサレムには、イスラエルの失われた支族を調査する機関 『アミシャブ』がある。そのトップであるラビ・エリヤフ・アビハイル氏(著書:『イスラエルの失われた、 また離散した部族たち』)・によると、失われた10支族の末裔が現在も、アフガニスタン、パキスタン、インド、カシミール、ミャンマー、中国にいるとされている。日本についての結論は、”日本と古代イスラエルとを結びつけるさまざまな証拠は説得力に富んでいる。
いくつかの支族と日本人との結びつきを否定することは難しい”となっている。
また、多くのユダヤ人たちが日本に興味を持ち始めている。
・第14章日本人とは何かを考える・・・・資料・BIGLOBE・「日本とユダヤのハーモニー」
●弥生時代の日本人像が、おぼろげながら見えてきました。アジア大陸や南方諸島をルーツに持つ原日本人の自然増加に加え、紀元前10世紀頃には西アジアからの来訪者が船で日本列島に渡り、その後も継続してイスラエルから渡来者が訪れ、これが●紀元前7世紀以降●第1波目の人口増加のきっかけとなりました。実際に渡来したのは、ユダ王朝の王系を継続し、聖櫃を祀る使命を抱いていたイスラエルの南ユダ王国の民を中心とした集団であり、その数は、紀元3世紀までに20万人にも達したと考えられます。
イスラエル人の存在なくして、弥生初期の人口増加を説明する術がありません。 紀元3世紀の日本人像とは、原日本人からなる縄文人とイスラエル人からなる弥生人のミックスが主体であり、世界でも類をみない民族ルーツであると言えます。その日本人の姿が紀元3世紀から7世紀にかけて更に進化します。
ちょうどその頃、第2波となる渡来人が、今度は朝鮮半島を中心に日本に押し寄せてきたのです。その多くは日本書記を始め、
多くの古文書に記載されている●秦氏を中心とした大群衆です。秦氏のルーツはイスラエル南ユダ王国のユダ族であり、弥生初期の渡来人とは異なり、彼らの祖先はイスラエル国家を脱出した後、アジア大陸に留まり、長い年月を経て現地で同化したと考えられます。
やがて秦氏はイスラエル系中国人として、その優れた文化や経済力を背景に、アジア大陸において政治経済の黒幕として活躍しました。そして秦国が滅びた際には朝鮮半島に移住し、今度は辰韓の地においても大きな勢力となり、次第に朝鮮半島の文化に染まり、朝鮮語を語るようになりました。
●この秦氏が、他のイスラエル系部族らと渡来を開始したのが紀元3世紀以降です。その頃既に、日本の人口のおよそ6割がイスラエル系であると考えられ、更に150万人にもなる膨大な人数の渡来者が日本に渡り、最終的に奈良時代初期の日本の人口は450万人にまで増大します。 こうしたことから、奈良時代初期の全人口に占める縄文系人の割合が13%程度にしかすぎない実態が見えてきます。これまで日本人のルーツは弥生人と縄文人の混血と言われてきましたが●実際には渡来系の血統が殆どを占めていたのです。また、紀元3世紀以降の渡来人の内、3分の1がユダ族、3分の1がその他イスラエル部族、残り3分の1が朝鮮半島の住民とするならば、日本人のルーツ
とはおよそ●縄文人系が1割強、ユダ族が3割強、他のイスラエル部族が3割強、そして朝鮮・中国系の渡来人が2割強と考えられます。
人骨からの形態研究において、これまでの学説では、渡来人の形質を色濃く受け継いでいることを認めるものの、日本全体を見た場合には、縄文人の形質を一斉に変化させるほど多数の移住者が渡来したとは考えられない、と結論づけられていました。
ところが最近の研究にあるように、発掘人骨の頭蓋骨の測定から、北アジア系の人々が弥生時代以降に数多く渡来したに違いないと結論づける方向に変化してきています。
・
その主旨は驚くことに、本論と同じく、弥生時代初期から奈良時代までに150万人程度の渡来があり●北アジアからの渡来系が8割、
それに対して原日本人とも呼ばれる●縄文系が2割、もしくはそれ以下の比率で交わったのが今の日本人のルーツであると説明しています。
今後、遺伝子の分析や、ウィルス感染に関する疫学の研究、考古学的リサーチ等、様々な裏付け調査を基に、日本人の起源がより明確になっていくと考えられます。
日本歴史リバイバル
・日本の歴史から見たリバイバルの展望
1. 神話時代から聖徳太子まで:
日本国の成り立ちを考える時、大陸からやってきた2つの大きなトピックスが挙げられる。
一つは、BC660?(西暦前660年)神武天皇が●北イスラエル王国の末裔●(エフライム族)であることであり、・もう一つは、AD4c(西暦300年)に大陸から東方キリスト教信者でユダヤ系民族の秦(はた)氏一族が来て、キリスト教を伝え、また日本に日本らしい文化を伝えた事である。この時キリシタンの時代よりも遥か昔にキリスト教が伝来し、神話時代からのサマリヤのユダヤ的一神教と融合して、・本来の唯一神道(キリスト教的神道)が形成され、一種のリバイバルが起こっていた。
日本には初めからの先住民族というものは存在せず、中国系、モンゴル系、朝鮮系、
東南アジア系、中東系、ヨーロッパ系などが移り住んだ混血の民族である。その中で、高い文化水準を持った大陸からの民として、サマリヤの血筋を引くイスラエル10部族の内のエフライム族が日本にやってきて、支配階級に就いた事は十分考えられることである。
日本の伝説的な初代天皇と言われている、神武天皇は、サマリヤの王と自称している。(*1)・「神武天皇(BC660?)はサマリヤの王と自称。(カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト→→ カム・ヤマトゥ・イヴリ・ベコ・シュメロン・マクト = サマリヤの王、ヤハウェのヘブル民族の高尚な創設者)」へブル語解釈:ヨセフ・アイデルバーグ『日本・ユダヤ封印の古代史』日本人がすべてイスラエルの末裔というわけではないが、状況証拠(*2)から、少なくとも・皇族にはその血が流れている、という説は非常に有望であり、今後の発見が待たれるところである。
・卑弥呼の時代にもあるように、サマリヤの偶像崇拝(太陽神崇拝)や占いの伝統は、・本来のヤーウエ信仰と共に並行して、初期からそのまま日本に引き継がれていたと考えられる。
イスラエルからはるばる中央アジアのキルギスを経て、マナセ族と分かれたエフライム族の一部は、・このように日本に移り住んできたのである。逆に、聖書預言によるならば、終わりの時、・再びシルクロードを通ってイスラエルに向かう事も十分考えられる。(**)
一方、4世紀の古墳時代の初期に、秦氏一族は、2万人もの人々が大挙して、朝鮮半島から
・日本に移り住む事を●天皇から許された。
・秦氏はユダヤ人の東方キリスト教信者であり、バルハシ湖南部の弓月(クンユエ)国の民で・あったが、万里の長城建設の苦役から逃れて、朝鮮半島を経由して日本に流れてきたのである。
中東やアジアに離散したユダヤ人にとってユダヤ性を色濃く有する東方キリスト教は受け入れやす・かったと考えられる。東方キリスト教は●ローマ・カトリックから異端として非難されているが・異端ではない。秦氏一族は日本に来て、多くのイエス・キリストの神社(*3)を設立したのみならず、いわゆる日本らしい文化(*4)を伝えた人々である。
・秦氏とその末裔が作ったイナリ(INRI)神社は、6世紀から8世紀初頭までは、何らかの形で・イエス・キリストを祭った神社で、その霊験あらたかな御利益(病気が治った、命拾いした、田畑に水・が湧いた、など)のゆえに、たちまち庶民の間に広まり、全国一多い神社になった。すなわち、いわば・しるしと不思議によるリバイバルが起こって いたと考えられる。●空海によって仏教に捻じ曲げられ、・キツネが祭られるようになったのは後の 9世紀になってからの事である。(*5)
・日本の歴史から見たリバイバルの展望 1. 2. キリシタン・リバイバルから明治維新まで: 明治政府は、政府内部の話し合いで、日本も欧米に倣ってキリスト教を国教にしようという話まで出たが、 結局、新たに設立する新形式の神道を国教にする事にし、国家神道の構築が進められ、天皇も仏教から 神道に改宗させられることになった。(和魂洋才) 欧米の列強がもっと強ければ、キリスト教国になっていたかもしれない。
しかし、明治天皇個人はキリスト教を重要視し、日本の古代神道を調べさせ、多少の行き過ぎもあったが、多くの状況証拠によって日本人のルーツがユダヤ人である可能性が高い(日ユ同祖論)とみなしていた。
そして、明治天皇の内親王・仁(しのぶ)妃殿下の長男である(すなわち孫の)小林隆利(たかとし)氏を、キリスト教の牧師にした。ある雑誌への小林氏へのインタビューによると、●明治天皇は彼の母親に、”私は天皇の権限で日本という国を調べた結果、日本は神道である。●しかし神道は本来ユダヤ教である。”と言ったそうである。(*)
・
・・資料・BIGLOBE・「日本とユダヤのハーモニー」
・・資料・BIGLOBE・日本の歴史から見たリバイバルの展望
・・参考・ラビ・エリヤフ・アビハイル氏(著書:『イスラエルの失われた、また離散した部族たち』)
・・参考・ラビ・マーヴイン・トケイヤー氏(著書:『日本・ユダヤ封印の古代史』発行・)(株)徳間書店
・・・関連参考・飛島昭雄(著書:地球『超』シークレットゾーン、第2Ⅱ部3~10章)発行・(株)ヒカルランド
資料・BIGLOBE・ブログテーマ「シークレットガバメント」
雑雑談談古代日本史7(1) ●モーゼ、キリストは有色ユダヤ人
アブラハム、ヤコブ、モーゼ、キリストは白人ではない有色ユダヤ人
古代日本史7、日本人とユダヤ人2
みなさんは、アーサー・ケストラーと言うユダヤ人を知っていますか?彼は、ハンガリー生まれでジャーナリストととしても、科学者としても名を馳せた人物です。そのケストラーが残した書物に「ユダヤ人とは誰か(原題第13支族)」があります。この書物ですが、題名を見れば分かるとおりユダヤ人とは何者なのか?というテーマで書かれていますが、
どこにでもあるような題名とは裏腹に、とんでもない問題作なのです。何が問題作なのかと言えば、余りに衝撃的な内容ゆえに1983年にロンドンで彼が服毒自殺を遂げるに至った事でもこの書物がただものではないことを伝えています。(彼は殺された可能性が高いと思います。)
●みなさんに、著名なユダヤ人を挙げてくださいと言ったら、どんな人の名前が挙がるでしょうか?アルベルト・アインシュタイン、カール・マルクス、ヘンリー・キッシンジャー、かのフロイト。まだまだあるでしょう。全人類に対してのユダヤ人の割合からしても、歴史に名前を残している人にユダヤ人が多い事は実に驚くべき事です。しかし・・・彼たちは、すべて白人です。
●いま名前を挙げた人物の全ては、実はユダヤ人ではありません。言い方を変えると、本当の
ユダヤ人ではないのです。彼たちは、すべて白人です。
●本当のユダヤ人は、白人ではありません。現に、旧約聖書に登場するユダヤ人には白人は1人もいません。モーゼ・ダビデ・ソロモン・そしてイエスキリストさえも非白人です。肌の浅黒い人達でした。
●白人系のユダヤ人を「アシュケナジー系」
ヨーロッパの宗教がや、今日目にする多くのキリスト画は、金髪で青い目ですが全くのデタラメです。中世で有名な、コロンブスやノストラダムスが非白人のユダヤ人です。ユダヤ社会では、白人系のユダヤ人を「アシュケナジー系」、●非白人系のユダヤ人を「スファラディー系」非白人系のユダヤ人を「スファラディー系」と分けています。先にあげた※アーサー・ケストラーは、この世の中のユダヤ人にはどうして白人系のユダヤ人が多く存在しているのか?※これを研究したのです。彼自体がアシュケナジー系ユダヤ人だった事も背景にはあると思われます。
●ユダヤ教に改宗しただけの民
彼によると、白人系のユダヤ人が大量に登場してくるのは8~9世紀を境に突然登場してきた事を突き止めます。つまり、アシュケナジー系ユダヤ人とは?ユダヤ教に改宗した民、つまりユダヤ教徒がユダヤ人と呼ばれているに過ぎないのです。簡潔に言えば、祖国無きハザール人ユダヤ教徒=ユダヤ人と言う事です。アーサー・ケストラーは、この結論に到達してしまったのです。
●つまり、旧約聖書に出てくる民族としてのユダヤ人は有色人種なのです。旧約聖書において生き残ったとされるノアの家族は、ノアの息子である「セム」「ハム」「ヤペテ」であり、現在の人類は全て彼らの子孫です。ハムは黒人系、ヤペテは白人のアーリア系、そして、セムはその他の有色人種となります。世界をこの3つの人種に大別するなら、●ユダヤ人はなんと日本人なのです。
失われたユダヤ10支族の一派「秦氏」から発したセム系の人種になりそして、セムはその他の有色人種となります。そして、ユダヤ人の祖と言うとアブラハムになるわけですが、
このアブラハムは紀元前2000年にはユダヤ人とはなっていません。アブラハムは、創世記によるとアブラハムから発して、イスラエル人・ユダヤ人・アラブ人が生まれる事になっている事から、・アブラハムはユダヤ人とアラブ人両方の太祖と呼ばれているのです。
(ここでのイスラエル人については後記参照)
●そして、このアブラハムはヘブライ人(さまよえる人)と呼ばれていました。太祖アブラハムには、イシュマルとイサクという名前の子供がいました。旧約聖書によれば、神の預言者の系譜はアブラハムからイサクの方へと受け継がれてゆきます。そして、イサクから子供のヤコブへ。
●イスラエルの名前のルーツ
このヤコブですが、ある夜に神の御使いに出会い格闘を始めます。結果、ヤコブが勝ち、御使いは「お前の名はヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」と祝福されます。以後、ヤコブはイスラエルと名乗り以後彼の子孫は全てイスラエル人と称しました。これが、現在のイスラエルの名前のルーツになっているのです。
●そして、このイスラエルには12人の息子がいました。これが、ユダヤ12支族になるわけです。
●つまり、ユダヤ人とユダヤ教徒とは雲泥の差があると言う事。
そして、ユダヤ人は、とどのつまり我々日本人なのです。そして、1番覚えておいて欲しい事は「ユダヤ人の太祖である、※アブラハムは※ヘブライ人であると、シュメールの粘土版にしっかりと残されている」という点です。(シュメール人については後日詳しくします)
・ もうひとつ、日本では旧暦の5月5日に、大山祇神社で行われる「御田植祭」という
祭りがあります。
● 「一人角力」ヤコブ⇒「イスラエル」という名前をもらった
このとき、「一人角力(ひとりすもう)」という奇妙な儀式が行われます。二人で相撲をとるのではなく、ひとりで行うのです。実は、相手は神様であり、目に見えない相手に相撲をとるので、ひとり相撲と呼ばれるのです。前記事で書いた、イスラエル人の祖といわれるヤコブはあるとき神の御使いと格闘し、最後に勝って●「イスラエル」という名前をもらったと書きました。つまり、これは神の御使いと人間との相撲と言う意味になり、『旧約聖書』に載っているのです。
今でこそ八百長(意味あり・既に書きました)だのと言われていますが、相撲が日本の国技なのはここから来ているのです。
● 「鴨ねぎ」⇒神社を乗っ取ること
賀茂氏は裏神道の儀式の一切を取り仕切る祭祀人の役割をしています。したがって、あえて秦氏とは名乗らず、賀茂氏、または鴨氏の名称を使っているとも書きました。賀茂氏が裏神道の祭祀人の役割を果たしていたとすると、賀茂氏は全国の神社に絶大な権力で支配していたことになります。この間の事情を物語るあることばがあります。それは、『鴨ねぎ』ということばです。
通常は、鴨鍋をしようと思ったら、鴨がねぎを背負ってやって来たという事をさすのですが、意味が違うのです。「鴨」は鴨氏のことであり、「ねぎ」は禰宜。(禰宜(ねぎ)とは、神職の職称(職名)の一つである。今日では、一般神社では宮司の下位、権禰宜の上位に置かれ、宮司を補佐する者の職称となっている。)鴨氏が禰宜を背負って来る。これは鴨氏が全国の神社に鴨氏の息のかかった禰宜を送り込むという意味なのです。いくら賀茂氏といえども、最初から全国の神社を仕切っていたのではなく、神職の人間を強制的に送り込んで、もともとあった神社を次々と乗っ取っていったのです。(大和から日本への移行)
これに従わない場合は、おそらく武力をもって神官を追い出し追放するということもやったと思われます。