キリスト教の伝来
https://www.toyoseikico.co.jp/blog/2964/ 【キリスト教の伝来は奈良時代だったかもしれない話】より
学校の歴史で、キリスト教の伝来は戦国時代と習います。
しかし、実際には奈良時代にはキリスト教が入っていたという説が有力になってきています。
ところで西暦700年代には唐では既にキリスト教徒がいました。
キリスト教の宗派の1つで、ネストリウス派と呼ばれる宗派です。景教とも言います。
313年のミラノ勅令で、ローマ帝国でキリスト教が公認になりました。
324年、キリスト教の教義を決めるニケーア公会議がローマ皇帝主催で行われました。
イエス・キリストが亡くなって300年が経過し、イエスの教えを生で聞いた人は誰もいません。
色々な解釈が生まれ、宗派もできていました。ニケーア公会議で、イエスに神格性があるかどうかで大論争になりました。
そして神格性があるという結論になりました。「神と子と精霊」の三位一体です。神格性を否定したネストリウス派、グノーシス派等は異端扱いされました。
ネストリウス派の異端認定は、一旦は取り消されたものの、その後もイエスの神格性について論争が続き、最終的には異端扱いされ、ローマ帝国内では迫害されるようになりました。
そのためネストリウス派は迫害から逃れるべく、彼らの中には東方へ逃げる事になりました。ペルシャを経由して中国大陸まで伝わりました。
今の感覚ですとペルシャ(イラン)はイスラム教ですが、当時はイスラム教はまだありませんでした。そのためペルシャでネストリウス派は広がりました。
そして600年代に唐に伝わり都・長安では既にネストリウス派が存在していました。中国大陸では景教と呼ばれて、長安で流行しました。
ただ、中国で展開していましたネストリウス派(景教)は、宋時代に衰退しはじめ、今では跡形もなくなりました。
700年代の日本では都があった平城京には外国人が闊歩していたといわれています。中国系、インド系、ペルシャ系などなどです。
そのためネストリウス派(景教)の信者が日本に来ていた可能性は十分考えられます上、布教活動をしていた可能性も捨て切れません。
もし、ネストリウス派(景教)が日本で布教活動していた確固たる証拠が出てきますと、歴史の教科書が大きく書き変わりそうですね。
http://www.aa.tufs.ac.jp/~masato/mechrist.html 【キリスト教の発生と中東に残った宗派】より
1. キリスト教の成立(三位一体論・キリスト論の正統化)まで
1イエスを神の子キリストと信じる人々の宗教
2律法ではなく信仰による救済(十戒のみの遵守、神と人への愛)を説く
4B.C.~30A.D.頃 ナザレのイエスの活動「神の国は近づいた。悔い改めよ」☆イエスの死後~イエスの復活信仰(cf.「イザヤ書」53・3-8)人間の罪の贖いとしてのキリストの死
キリストの復活にあずかる義人の復活――→ 福音の伝道、ローマ帝国による迫害の時代へ
313 ミラノ勅令におけるキリスト教の承認(322公認)
325 ニケーア公会議:アリウス派の弾劾(三位一体論の公認)
380 東ローマ帝国テオドシウス帝によるキリスト教の国教化
392 異教禁止令(キリスト教が唯一の国教に)
431 エフェソス公会議:ネストリウス派異端に(主として政治的要因による)
451 カルケドン公会議:単性論派異端へ(キリスト論の確立)
注1)三位一体論
神は父と子と聖霊という3つの位格(ペルソナ)の中に、自らを同時に示す1つの神。3つの位格はそれぞれ完全に神性を持つが3つの神があるのではなく、存在するのは1つの実体、1つの神。
(神の子=「言葉」が受肉したキリストは霊に導かれ、キリストが地上を去った後、キリストは聖霊という形で信者の心に宿る)。
注2)キリスト論
完全な神であり、完全な人であるキリスト。神性と人性は別個に存在しつつも、1つの人格、1つの本質の中に併存する
2. 中東に残ったキリスト教「異端」(現在では、教義問題で非難し合うことはない)
ネストリウス派(アッシリア教会)~キリストの人性を重視。聖母崇拝否定(マリアは「神の母」ではなく、キリストの母である)
単性論派~キリストの神性を重視(ただし、人性を認めないわけではない)
アルメニア教会、エチオピア教会、コプト教会、シリア(ヤコブ派)教会
☆東方典礼カトリック教会(十字軍時代以降に成立)
レバノンのマロン派、シリアのカルデア教会、ギリシャ・カトリックなど
http://yohane.natsu.gs/00%200%20nihon%20kuiaratame.htm 【1. 聖徳太子時代以前:】より
未だ証明されたわけではないが、状況証拠はたくさん存在する。日本は明らかに 秦人の影響を受け、ユダヤ教、キリスト教文化(=原始キリスト教と 景教の一部)を、日本文化の最も古い部分に持つことになった。日本人の目から見て、「キリスト教」とは、西洋の宗教、アメリカの宗教、あるいは、カトリック、というイメージが強いが、実は、中東という”アジアの宗教”だった。 中国に流行した「景教(ネストリウス派)」も、アジアでは、アジアらしい礼拝形態(現在の仏教のように木魚のようなもので伴奏する)をとっていた。
天皇家は多くの秦人の協力を得たので、天皇家自身がユダヤ文化の影響を最も受けているはずである。(ただし、DNAについては、まだ証拠が表われていない)
しかし、その後の仏教・儒教の伝来により、残されている文献はすべて藤原氏によって書き換えられたものであり、聖徳太子こと 厩戸皇子(うまやどのおうじ)は、ペルシャ系渡来人のおそらく景教徒だった。(2015 4/30追加: → 聖徳太子の謎)
現在、日本の文化の一部としてユダヤ教的な片鱗は残るが、他はすべて 仏教・神道、あるいは儒教に改ざんされてしまったという可能性が大きい。