聖書と日本フォーラム
http://www.shima.mctv.ne.jp/~newlife/ikanisite.htm 【聖書と日本フォーラム】1部
こうして始まった
「聖書と日本フォーラム」によせて
初代会長 小 石 豊
「荒野に呼ばわる者の声がする。主の道を整えよ。私たちの神のために、大路を平らにせよ。」イザヤ40章3節
「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」ルカ19章40節
1932年というと、ちょうど私が生まれた年。ホーリネス教団聖会において、中田重治監督が「聖書より見たる日本」というメッセージをされ、これをきっかけに教団は分裂し、第2次世界大戦勃発の時期とも重なって信徒も牧師たちも非常な痛手を被った。
以来ホーリネス系を中心とする教会では、どんな内容にせよ、「日本ユダヤ問題」はご法度となった。
私の両親はプレマス・ブレズレン派に属していたが、私は戦後新しく始まった「日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団浜松教会」に加わり、中央聖書神学校を卒業。中央福音教会副牧師、豊川教会、吉祥寺福音教会、熊本聖書教会牧師を歴任し、1978年以降、現在の豊橋キリスト教会牧師を勤めさせて頂いている。
私が本格的に「10部族回復預言研究」に取り組み始めたのは26年前、注解書にはこの問題の注解がないので、ひたすら聖書のみを読み直し、隠された真理に触れた感動で、毎日が夢見るような思いになった。
それでガリ版刷りで論文をまとめ、有志の方々に配布した。
するとほどなくホーリネス教団の千代崎秀雄牧師がわざわざお出でくださり、中田重治全集第2巻から、「聖書より見たる日本」というメッセージを見せてくださった。
それでホーリネス教団分裂の事情がここにあったことを始めて知ったのである。
1.『失われたイスラエル10部族の回復』
1982年。いのちのことば社から『失われたイスラエル10部族の回復』を出版した。
この本は、彼らが帰ってくると言う聖書預言を解釈したものであり、出版に当たって千代崎師が、「測りがたい神の奥義」と題して、12頁に及ぶ序文を贈ってくださった。
ところがほどなく森山諭牧師より、「ホーリネスの痛みを知らないものが、今更イスラエル問題を提唱するとは何事か。
あなたが書いたようなことは、とうの昔に知り尽くしている。
あのように狭いパレスチナに、誰が戻って行って何処に住もうというのか。」といったような手厳しい手紙が送られてきた。
そのほかにも批判的な手紙が数通あり、いかにホーリネス系の方々が傷んで来られたかを改めて知った。
そして、これがネックになって、日本のキリスト教会が聖書預言のイスラエルの回復そのものを避けておられるように思われた。
2.『日本人とユダヤ人の連合を世界が怖れる理由』
このような問題は、教会側では受け入れられにくいことを聖霊によって示され、むしろ一般社会を対象に発表することを決心して論文をまとめた。
しかし一体どこの出版社が受けてくれるのか、皆目見当がつかなかった。
丁度その頃、教区の子供キャンプが浜名福音荘であり、私は教区長として責任を負う立場だった。
その最中にアメリカから参加していた高校生が免許証や現金の入った財布をなくす事件が起こった。
まさか盗むような子がいるわけがないと信じながら、とりあえずキャンプが終わって帰宅した。
その夜、「もし財布が発見されたなら、私の論文を受けてくれる出版社が起きることを信じます。」と祈った。
すると夜中に夢を見た。キャンプ場のお風呂場に行く途中の右側の草むらに茶色の財布が夜露に濡れて落ちている幻だった。
翌日、早速キャンプ場に行ってあちこち探したがなかった。
その時、昨夜見た夢を思い出して、お風呂場に行く細い道を探しているとまさに正夢。
夜露に濡れた茶色の財布を発見。大喜びで家内に「あったぞー。」と叫んだことを思い出す。
自分の人生でこのような正夢を見ることなど一度もなかった。
そしてその日の午後、光文社カッパブックスの編集長から「採用したい」と電話があったのである。
こうして1987年『日本人とユダヤ人の連合を世界が怖れる理由』が発刊され、始めて世に問うたにしては良く売れて、17刷り10万部に達した。
3.季刊誌『声石』の発刊
日本人とユダヤ人問題に対する一般社会の反応は大きく、多くの読者から励ましの手紙や電話、自作の原稿を見てほしいと幾つもの原稿が送られて来たり、毎日手紙が届いた。
それで、読者との連絡の場を用意したいと願い、1990年5月、季刊誌発刊に踏み切った。
名前は本文最初に掲げたみことばから、『声石(せいせき)』とし、自由献金で続けることにした。
以来『声石』は私と読者を結ぶ大きな絆となり、17年間、現在第69号にまで続いている。本当にありがたいことである。
4.『ヨハネの黙示録が分かりますか』
私は自分の聖書研究が単なる推論ではなく、未来まで見つめた預言研究であることを認識していただきたいと願い、黙示録の構造分析を中心とする『ヨハネの黙示録が分かりますか』を、いのちのことば社から1992年に出版した。
これは今までにない分析というので、多くの牧師先生をはじめ信徒の方が読んでくださり、神学校のテキストに用いられる先生もおられて、大変励まされた。
5.『日本・ユダヤ連合超大国』
続いて1994年には光文社カッパビジネスから第2弾『日本・ユダヤ連合超大国』が出版された。
内容的には前回を補充する2つの国家の存在理由と未来の展開を述べたが、そろそろ全国的に「ユダヤ・日本問題」を取り上げる思想が増えてきて、以前ほどは出なかったが、それでも3万部を越えることができた。
それまで教団の代議員として教団行政に携わっていたが、自分の使命がこの問題にあることを悟り、1995年を最後に教団の治面から引退させてもらった。
そして第1回「声石交友聖会」を浜名福音荘で開催した。
40人あまりの参加者があり、聖会も生き生きとしていて、希望の持てる集いとなったが、後で大阪の畠田秀生牧師夫妻がお出でくださり、「この働きを個人ではなく新しい組織的な活動として日本全国に呼びかけて進めたい。
自分も今までの教会の牧師を止め、これに命がけで当たりたい。」と、素晴らしい情熱でお語りくださった。
もちろん私も、1人では限界があることを十分分かっていたので、これこそ主の導きであることを確信し、2組の夫婦の祈りで「聖書と日本フォーラム」の組織化が進められることとなったのである。
こうして第3回からは「聖書と日本フォーラム聖会」(または大会)として、今日まで続くこととなった。
これは日本各地の古代史にかかわる観光地を中心に会場が設定されて来ている。
6.『古代ユダヤの大預言』
1997年、こんどは日本文芸社から『古代ユダヤの大預言』を発刊。今までの思想をさらに展開した内容である。
その出版記念会を豊橋ホリデイインで65人出席で開いたが、それにはヘブライ大学のベン・アミ・シロニー教授がお出でくださり、「天皇制存続の謎」と題して講演してくださった。
その後、「聖書と日本フォーラム」は次第に組織が固まり、大会のほかにラビ・トケイヤー講演会や春の総会も特別講師をお招きして研鑽が積まれるようになってきた。
2002年2月、アッセンブリー教団を指導して来られた弓山喜代馬先生が101歳で、4月には私の出身教会の菊地隆之助先生が91歳で共に天に帰られた。
そのショックの最中に、8月今度は私が心筋梗塞で死の直前まで行ってしまい、神の御手の中に生かされているに過ぎない自分の命を改めて自覚することとなった。
すでに20年近く糖尿病を患っているのでいわば合併症である。
多くの方々の熱い祈りのお陰で今はすっかり元気になり、活躍できることを感謝している。
またその年、家内崎子が教団正教師の資格を採ってくれたので私はずい分力づけられている。
7.『古代出雲イスラエル王国の謎』
2004年の大会は出雲で開かれ、そこで古事記以前の古代史のロマンを見せられた。
特に出雲大社の高層神殿の柱の跡地を見たとき、ヨシュア記にあるヨルダン東側の3部族がヨルダン川沿いに建立した高層神殿の技術をそのまま継承していることを直感。
これは今まで誰も気づかなかったことで、まさにイスラエル10部族が出雲に渡来した、確かな証拠であることを確信した。
それを題材の中心に、学研から『古代出雲イスラエル王国の謎』を、2005年に出版することができた。
8.『神国日本・そのルーツと展望』
さらに2006年には学研から第2弾『神国日本・そのルーツと展望』の出版を予定している。
日本とイスラエル・ユダヤ人とは、過去に何かがあっただけではない。
むしろこれからの未来に大きな国際的かかわりを持つようになることは確かである。
今回の本はその主題に立って論じている。
「携挙」とか「出土」とか黙示録の「14万4千人」とか、聞きなれないことばが中心になっているが、日本には「隠されたイスラエル12支族」がおり、その人たちによって驚嘆すべき大維新がやってくることをご理解いただきたいと心から願っている。
さて、この度大会が沖縄で開催となった。
沖縄ほど10部族の原型を保持している地域は他にはない。
貴重な島を神が残して置いてくださったことを感謝しながら、沖縄の皆様と語り合いたいと願っている。
以上、「聖書と日本フォーラム」は、新しい事務所の開設という神様の不思議なご配慮を頂いて、今日まで来ることができた。
問題はいつでも起こってくる。
しかし、私たちは主を見上げて進みたいのである。皆様のお祈りとご協力を願い期待している。
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。
ただ捕らえようとして追求しているのです。
そしてそれを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
兄弟たち、私は自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。
ただこの一事に励んでいます。
すなわち後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。・・・それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」(ピリピ3章12~16節)
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新しい旅路の経緯
副会長 畠田 秀生
それは1995年3月19日のことである。私が大阪から奥浜名湖にひとり車を走らせて浜名福音荘に着いたそのとき、その後の私の歩む道を決定的に変えてしまう人々と遭遇してしまった。その人々は、「聖書と日本フォーラム」をその次の年に正式に発足させたのである。それまでの、私の旅路を少し書かせてもらうことにする。
私は、1963年23才で無銭旅行の世界1周を試みて、友人2人で神戸港を貨物船に乗り、着いた最初の国がニュージーランドであった。
日本を世界に紹介する名目を掲げて、パスポートに「日本親善使節」と銘記された肩書きをもらった。
金のない貧乏な家庭に生まれた1人の学生が、時の外務大臣大平正芳氏の自筆のサインをもらうまでの筋書きは省くことにするが、皮製のパスポートは、私の将来をバラ色に染め、世界をかけめぐる保証でもあった。
ニュージーランド最大の都市、オークランドの港に着いて2ヶ月目、私は自分の罪を認めイエスを主と心の中に受け入れた。
そして、それからの私は、ただひたすらに聖書の虜になってしまった。
アメリカに行くビザも手に入れて、フロリダに着く豪華客船の船底の客室の切符を手に入れていた。
しかし、神は私に明確に人生の目的と意味を示されたのが、日本に帰ることであった。
賛美歌1つ日本語で歌ったこともない者が、日本に帰国して神戸の本田弘慈牧師の下でクルセードのお供をし、塩屋の関西聖書神学校に数ヶ月聴講生として出席させてもらい、私は大阪出身のため大阪中ノ島中央公会堂の1室で、開拓伝道を開始した。
そして、10年の借り部屋での教会活動の年月の後、土地を入手し自前の教会堂を建設、着実にその働きは成長した。
西洋式の礼拝形式に没頭するその最中に、1人の若い未信者女性が「この教会は日本ではない。」と言ったその一言が、私の胸を打った。
30年の牧師として1つの教会成長をのみ考えていた私は、何か間違っているのではないか?
日本人による日本人として、日本人のためのキリスト教に強く関心をもつようになった、のである。
私の始めさせてもらった教会の成長をのみ考えるのではなく、日本全体のキリスト教の低迷さに心が向くようにもなった。
なぜ私の国でのキリストの名は、人気がないのか、などに心をはせているとき、日本にある風習、習慣、伝統、そして神道、仏教の中に見え隠れする聖書の国イスラエルとの類似に目がとまった。
日本人はどこから来て、どこに行くのか。
またそのルーツはイスラエルにあるのではないか、古代日本にイスラエル12部族が来ていたのではないかを試行錯誤しているとき、現時点での日本の宣教情勢、霊的空気ともいうべき霊性の冷凍が凍解していく感があった。
私にとって胸踊る日々が続いた。夜中に起きて妻と語りあう日々が続いた。
そして同じ思いを抱いて「日本の立ち直り・霊的覚醒」を夢見る人々を探し始めた。
大阪の西区で隔月に1度、日本とイスラエルの関連を学ぶ集会を始めたのもその頃であった。
時は1994年であった。
そのときに、小石豊牧師の著書に出会い、そして浜名湖山荘に出かけたのである。
片手に「日本人よ」という執筆途中の原稿をもって。
1995年、その大会は、「声石交友聖会」と名づけられていた。
その時同室になったのが、「聖書と日本フォーラム」の活動の理論と聖書歴史と日本本来の文化研究の第一人者であった淵江淳一牧師であった。
しばらくして私が長年温め、書きとめた「日本人よ」とタイトルをつけた本(後に文芸社刊行、「古代ユダヤから21世紀の日本へ」)のコピーをもって東京府中のお宅を訪問したおり、
「君はいくつになったのですか?」と問われたのを今でもはっきりと覚えている。
「53才です。」
私は妻の同意も得たので、教会を去ることにした。
そして、豊橋の小石先生ご夫妻を訪ねた。
「日本の全国的な働きとして、私たちの活動をまとめましょう、私が事務局を引き受けます。」
そして、会を発足するに当たり、前述した世界的に伝道者として活躍しておられた私の日本での恩師でもあり、ニュージーランドから帰国して何も分からない私を一から教えてくださった本田先生を訪ねた。
彼は、私の教会に毎年、母の日やクリスマスの特別集会に来てくださっていた。来会される度に、
「君はいつ1人立ち上がるのか。」と問われるようになっていた。
「教会を離れることなどできません。」と何度言ったことか。
しかし、私の内に強くもたげてくる日本への思いはもう断ち切れなくなり、私は彼の忠言のまま、独立した。
「発起人の1人になってくれませんか。」
「すまん。私は君に協力できない。」
その日はイースターの前日、明石の教会の献堂式の御用に来ておられた先生は、ホテルのロビーで私に申し訳なさそうに首を横に振った。
私の書いた本「古代ユダヤから21世紀の日本へ」の下書きを朝の4時までかかり、一気に読んでくださって、朝一番に電話で励まし、喜んでくださったのにもかかわらず、である。
失意のうちに、私はイースターの朝を迎えた。
朝の8時電話が鳴った。「本田だが、今日の朝イエス様が私に現れて言われた。畠田の申し出を受けなさい。」
私は、この働きが主の御心であることを固く信じている。
日本を愛して特別の「あがないの賜物」を備えてくださっているのだと。
この働きは、神様が始められた。人はどうしてそれを止めることができるのだろうか。
そして10の年月が流れた。63 才になった私は、大阪で天幕伝道者(テントメーカー)としての、私の生活の糧を得る学習塾を閉めた。
そして、この働きの事務所兼研修センターを伊勢志摩の国立公園登茂山に開き、赴任することになった。
2004年夏からこの2年間で、7回の研修会を開き現在に至っている。
そして、2006年11月、沖縄で全島挙げての13回大会が開かれる。日本人はどこから来て、どこへ行くのか?これは、天からの呼びかけである。
(略)