鏡の中の世界
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耕知塾の千田周平です。耕知塾は金町、日暮里にある地域密着の、そして少人数責任指導の集団塾です。
先月の夏期講習において、私は小学5年生の中学受験クラスの理科を教える機会がありました。分野は「光と音」。光も音も、実体のない抽象的な概念であり、小学生にとっては難しい分野でしょう。私自身も、小学5年生に光と音を教えるのは初めての経験でしたので、事前に入念な準備をしました。
どんな授業でもそうですが、授業準備の際には「生徒はどのように感じるだろうか?」と、生徒の立場をイメージすることが肝要です。そのため、生徒ならどんな疑問を持つだろうかと考えながら、教科書を読みこんでいきました。
例えば、光の分野では、教科書にはこんな記述がありました。
「鏡に映る像は、左右が逆になります。」
教科書には、鏡に映った時計がどのように見えるかのイラストも描いてあります。確かにその通りで、鏡の中の世界は左右が逆です。当たり前のことです。
しかし、相手は感性豊かな小学生。きっとこんな疑問を持つ生徒もいるのではないかと、私は想定しました。
「左右は逆になるのに、なぜ上下は逆にならないの?」
確かに、私たちの世界で、「左・右」と「上・下」は同次元の概念ですから、上下だけ逆にならないのは疑問です。私は、生徒が納得するような答えを考えました。
ところが、ここで不思議なことが起こります。分からないのです。
なぜ上下は逆にならないのか、というか、そもそもなぜ鏡に映る像は左右が逆になるのか、真剣に考えれば考えるほど、分からない。何かがおかしい。
確かに上下は逆にならない。それは確かだ。では、なぜ左右だけ逆になるのか・・・。本当に左右は逆になるのか?
そこで私は実際に家の鏡の前に立ってみることになります。左腕に時計をした状態で鏡の前に立ち、鏡の中の自分をしげしげと眺めたわけです。確かに、鏡に映った自分は、右腕に時計をしているように見えます。しかし、普段基本的に上側に存在している顔は上に映っているし、下側に存在している足は下に映っています。なんだか、わけが分かりません。
しばらく鏡に映った自分を眺めたのち、以下のような考えに行き着きます。
「確かに鏡の中の自分は右腕に時計をしているように見えるが、いま自分がいる方向から客観的に見れば、鏡に映った自分がしている時計は(右腕にされているように見えるものの)左側にある。だから、結局左右は逆になどなっていないのではないか・・・?」
・・・。
私は、ここで頭がショートしました。
なぜ左右は逆になるのに上下は逆にならないかの理由を探していたのに、結論が「左右も逆になどなっていない」になってしまいました。なんという矛盾。
後から落ち着いて色々調べてみると、この鏡に映る世界がどのように反転しているのかという問題は、遥か昔、少なくとも古代ギリシアの頃から人々を悩ませてきた難問だということを知りました。
例えば、上下は逆にはならないと言いつつ、湖面に映った富士山は上下反転しています。また、車のバックミラーに映った後ろの車のウインカーの向きは左右逆には思えません。
そもそも、研究者の実験によると、鏡に映った自分の姿という状況に限ってみれば、「鏡の中の自分が左右が逆に映っている」と認識するかどうかは人によるといいます。つまり、先ほど私が実際にやってみたように、左腕に時計をした状態で鏡の前に立ったとき、鏡の中の自分を基準にして考えると右腕に時計をしているように見えますが、いまここにいる自分を基準にして考えると左(側)の腕に時計をしているわけで、左右が逆になっているわけではありません。要は、心理的な問題も絡まっているということですね。
さて、教科書のたった一行の記述から、こんなに長々と訳の分からない堂々巡りをしてしまいました。
でも、こんなたった一行の記述からも、先人たちが一生をかけても理解し切れないような世界に入っていけると考えると、改めてこんなことを思います。「勉強って楽しい。」
【参考文献】高野陽太郎(2015)『鏡映反転――紀元前からの難問を解く』.岩波書店.