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ゴッホの生涯について

2017.08.17 15:25

 

 1853年3月30日生まれ。父はオランダプロテスタントの牧師。ゴッホ自身も信仰心は篤かった。6人兄弟の長男。不思議なことだったが、ゴッホの誕生一年前に、全く同日に生まれて、直ぐに亡くなったヴィンセント(勝利者)という同名の兄がいた。因みに,祖父,伯父も同名だった。ゴッホの家はオランダの名門で、大蔵大臣、ブラジル総領事、イギリスへの全権を勤めた外交官を輩出し、伯父達は海軍将官,王室御用達の大画商だった。また、母方祖父は当時権威のあった宮廷の製本職人だった。一方、父親だけが、貧しい田舎の牧師だった。

 ゴッホは顔が母親似で,読書家で描画に親しんだ面も母親譲りと言われている。しかし,母は「あまり可愛げが無い」と手を焼いて,よくゴッホを罰していたと言う関係者の証言が残されている。ゴッホと母親の相性は良くなく、愛され可愛がられた様子は窺うことが出来ない。従って、母が愛着基地となり得ていたかは疑問である。

少年期,ゴッホは無口で頑固強情であって強制されるのを嫌ったと伝えられている。気性が激しく無愛想で人付き合いが悪く、自然の中で一人でいることを好んだとされる。他人にも自分にも厳しく、怒りっぽく、後に,妹のエリザベスが「てんかん症の現れ」と述べた様に,突然癇癪を爆発させ友人と喧嘩して、先生や両親を困らせた。遂に、理由については明確で無いが、寄宿していた中学校を退学させられた記録が残されている。

 1869年7月16歳に、画商見習いとなった。絵を描くのが好きで,大画商として成功した伯父の勧めであった。この頃の大きな失敗の記録にない。しかし,バウム分析より、画面上部を突き抜けるスケッチ風の長細い樹木画:2)から,環境への不適応状態,神経症傾向が窺われる。ゴッホがストレスを溜めていた事が推測される。

 20歳の頃になると、ロンドンで下宿屋の娘に激しい失恋をし、長期にわたる鬱状態に陥り、「何年にも及ぶ屈辱感」を味わった、ゴッホの記述資料がある。

 1876年23歳で,画商を解雇された。その後も語学教師,書店勤務等、いずれも長続きせず以後経済的に困窮した。「僕の家には福音を説いた者がいつも<中略>いた。父と祖父の魂が僕の中にも宿り<中略>僕の熱烈な祈り<略>」(書簡89)と聖職者への思いから,24歳で,アムステルダム大学神学校の受験勉強を始めた。しかし挫折、神学の勉強も放棄した。次に伝道師見習いになったが、問題を起こして、聖職者の道は完全に断たれた。母親は「どこへ行っても何をしても、あの子の変人ぶりと人生についてのあの子の奇妙な考えやものの見方によって、すべてを台無しにしてしまうのではないかといつでも心配です」と語ったとされる。また、父親は「あれはまるでわざわざ一番困難な道を選んでいるみたいだ」と語ったと伝えられている。

 伯父の援助による画商の仕事も、父を崇拝した聖職者の仕事も挫折してしまった。しかし、社会的な成功者を輩出している家族は、長男ゴッホを何とか一人前にしようと支えた事が書簡に残されている。一家の困り者になったゴッホは、「自分の精力がよみがえっているのを感じ」、「ぼくはまた立ち上がろう,大きな落胆の中で捨ててしまった鉛筆をもう一度取りあげよう。またデッサンを始めよう(No 136. 1879年9月24日)」と、絵に取り組む心情を残している。

 1880年7月、画家となる決心を固めたことを、ゴッホの後に画商になった弟に書き送っている。小林 (2004)は、「画家の魂と聖者の魂との不思議な混淆は彼の生涯を通して見られるように思われる」と、述べている。


 1880年27歳、画家になる決心をした。しかし,その後も家族、近隣との摩擦は       絶えなかった。                      

 1886年 33歳 パリに移り,印象派と出会うが、パリにも不適応。

 1888年 35歳 2月20日南仏アルルに到着

    10月20日より,ゴーガンと同居。

    12 月23日自分の左耳を切り落とし、病院へ収容される。

 退院出来たがアルルの町民達が、市長にゴッホを投獄する嘆願書を提出した新聞記事が残されている。そのため、監禁命令が出された。ゴッホはテオに宛て、「僕は狂人として書くのではない。自分の能力に充分自信を持って、兄として書くのだ。<中略>僕がどんな悪事をしたかの証明もせず<中略>僕が怒りを抑えていなければたちまち危険な狂人と見なされよう。希望を持ち忍耐しよう。<中略>病人一人に対して、あれほどの人間が卑怯にも団結したと知った時<中略>この事件は恥辱だ<中略>君の未来の奥さんによろしく伝えて下さい。それからお母さんにも、妹にも」(No.579)と書き送っている。

一方、医者から一種のてんかん症と知らされ、一人で生活する自信を喪失した。

 1889 年36歳 サン・レミの精神病院へ、自ら再入院。制作は発作の小康状態の時にされた。 ゴッホは、「人生は、こうして過ぎて行く。時は再び還らない。ところが、僕は飽くまで仕事に没頭している、仕事の機会は再び来ないと承知している。<中略>僕が南に来て仕事に熱中したのは沢山の理由がある。先ず違った光が見たかった、<中略>もっといい観念が得られるだろうと考えた」と、テオに書き送っている。(No.607)

 1890 年37歳 ゴッホは拳銃で自らの腹を撃った。弟テオが駆けつけ、彼に看取られてゴッホは、「さて、もう死ねそうだよ」と言ったと伝えられている。7月29日死去。

 一方、最大の理解者だった弟テオも梅毒で翌年1月、精神病院で死亡した。ゴッホと仲が良かったとされる4番目の妹も、中年期、精神病院に入っている。

 母親は息子ゴッホの人となりも、彼の絵も、理解出来なかった。しかし、母親は80歳代まで長生きして、息子が有名になったのを知り得た。因みにゴッホが死後有名になり得たのは、弟テオの嫁がゴッホの作品と書簡を発表し続けた事からである。

 ゴッホがテオへ書いた最後の書簡は,ゴッホの遺骸のポケットから発見された。「1890年7月29日に発見された」と,テオ自身がその上に記入している。ゴッホの手紙には「ともあれ,僕は,僕自身の作品に対して人生を賭け、そのために僕の理性は半ば壊れてしまった<中略>それもよい<略>」と、記されていた。

 

 ゴッホは画家になる決心をしてから亡くなる前迄の約8年間に、800枚を超える描画を制作した。しかし、少年時代の興味深い描画も残されており、多くの素描をしていた事が伝えられている。その描画からは、少年ゴッホの精神状態を推測できる。現存する犬の写実画は、9歳の時に記憶にそって描かれたというが、犬は攻撃的に吠え、生き生きと表情や動勢が描かれている。

 その素描は、動き回る犬という対象を相当な集中力で凝視し観察したことが推測される。犬の瞬間の造形的な特徴を把握し記憶し再現した事、強い運筆線や全体的に把握するバランス感覚などから、自我と客体の関係性、距離感や客体に対する視座の確かさ、成人のレベルまで客観視出来る確かな自我の存在が描画の中から感じ取れる。次いで、そこから逆に少年時代のゴッホと生活環境の関係が推測出来る。子供にとっては普通、遊ぶ対象であるはずの犬が、敵対的に吠える犬の姿になって描かれている。その犬にはゴッホ自身が投影され、早い子供の時期からゴッホが意識せざるを得なかった厳しい環境が推測される。

 ゴッホの母は30過ぎに結婚し、夫より3歳年上だった。ゴッホの出産時には1年前の同月同日に産んだ長男を亡くしたトラウマがあったとされている。また、ゴッホの母は複雑な性格だったようである。(「テオ、もう一人のゴッホ」より)優しい性格であったが、突然怒り出すところがあったので、周囲はいつ何時彼女の逆鱗に触れて怒りを買うのでないかと恐れていたとされている。ゴッホの書簡によると、「僕の少年時代は陰気で冷たく不毛だった・・・」「種は酷寒の風に晒してはならない-僕の人生の最初の時期に当てはまる」(No341)と、自らが母性愛を享受したことが無いことを記述している。ルービン(1979年)は、鬱状態に頻繁に陥る性癖は、幼児期の母親の育児に欠陥があったのではないかと推測している。それらの記述は、少年ゴッホの大人びた描画に見られる暖かい情感の欠如と不安感と緊張感、攻撃性に対応する様に思われる。暖かい母子関係で育まれる関係性の欠如から、ゴッホは安定した信頼関係が築けず、常に不安で、苛立ちをしばしば抱えていた事が推測される。特に繰り返し描かれた自画像と樹木画にはゴッホのパーソナリテイがよく投映されている様に思われる。ゴッホは本当に多くの自画像を描いたが、その描かれた目は、突き刺すような不信感を持って自分を見詰めている。あるいは、ゴッホは幼少から膨大な読書をしていた事を考慮に入れると、近代的自我論についても通じていたことも考えられる。そして、「われわれはいったい何者なのか」「わたしはだれ」「わたしはなぜわたしなのか」という根源的な問いを持っていたことが、自画像から窺える。孤独で、自己に対し厳しく、問い詰める様な自我収縮状態とも窺える。