「全部ある」
2017年8月 13日
フィリピの信徒への手紙4章10-23節
パウロはこの手紙で特徴的な言い方をする。
「どちらでも良い」。
投げやりな、責任を放棄したような言葉にも聞こえる。
だが、パウロはこれを大切な言葉として語っている。
パウロを応援する気持ちから、伝道をする者がいる。
それと反対にパウロを貶めるために伝道に励む者もいる。
それを見てパウロは「どちらでも良い」と言う。
生きるも死ぬも「どちらでも良い」。
富んでいても貧しくても「どちらでも良い」と言う。
「どちらでも良い」
それはパウロの体験から生まれた言葉でもあろう。
パウロは熱心なユダヤ教徒であり、教会を迫害するものであった。
それが主イエスと出会うことにより、伝道者へと変えられる。
だがそれは教会全体から歓迎されたことではなかったであろう。
そのためユダヤ人のいない地域、異邦人世界がパウロの活躍の舞台となった。
異邦人、言葉も違い、常識も違う。
聖書の神の言葉が通じる相手とは思えない。
ユダヤ社会と違う所。
違うはずの所だった。
それが福音が通じる。
教会が生まれる。
こちらとあちらは違うと思っていた。
ところが現実はこちらもあちらも同じ。
どちらも同じ。
どちらでも良い。
こちらでなければならない。
私たちが持っている常識。
間違ったものに惑わされることなく、正しいものを選択しよう。
「こちらは正しく、あちらは間違っている」。
間違ったものは制圧しよう。
戦争の言葉。
「こちらもあちらも同じ」。
平和の言葉。
だが、私たちはそんなことが現実にあるとは思えない。
そんなのんびりしたことをしていては負けてしまうと思ってしまう。
「同じ」なんて信じられない。
経験からは正しいとは思えない。
だから、信じる。
信仰が必要とされている。
パウロは親愛なるフィリピの教会への最後に
「キリストの恵みがあなたたちの霊とともにあるように」と語る。
パウロにはすでに確信がある。
キリストの恵みはあそことここ、今といつかで変わるようなか弱いものではない。
どこでも、いつでも溢れ出る変わらないもの。
こちらもあちらもない。
それがあなた方の霊と共にあるように。
体と共にではない。
霊と共に。
この世のことだけを考えているのではない。
体が朽ちても、なくなっても
キリストの恵みがあなたの霊と共ににように
この世も、あの世も同じ。
恵みは、喜びは、どこでも溢れている。
「どちらでもいい」。
どちらに行っても
どこに行っても
いつでも
何も不足はない。
全部ある。
信じる。
平和のために最も必要なものを私たちは知っている。
それを体現していく。
その使命が教会にはある。