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粋なカエサル

「海洋国家オランダのアジア進出と日本」7 交易のメリット

2021.12.24 12:01

 オランダ船は日本で需要の大きい中国産の生糸を台湾経由で日本に持ち込み、その対価として大量の銀や銅を日本から持ち出し、それを使って東南アジアやインドで、香辛料や綿布、硝石などを買い、本国に持ち帰った。日本が鎖国体制に入った1640年代以降はオランダ東インド会社の経営は安定し、毎年高額の配当をしており、年によっては60パーセントという高配当もあった。1650年代から70年代の長崎貿易は、オランダ東インド会社にとってアジア各地の商館の中でもトップクラスの高収益をもたらした。

 日本はオランダのもたらす商品に見合うほどの輸出商品を持たなかったので、地金や貨幣を支払いにあてたのであり、その意味で日蘭貿易は全くの片貿易であった。幕府は豊富な産出量にまかせて、最初には銀、次いで金、最後に銅の正貨や地金を順々に喰いつぶしていったと考えてよい。そして、逆にオランダが日本に対して金、銀、銅などの貨幣で支払うことは絶無であった。17世紀初頭には年間20万キログラムというボリビアのポトシ銀山に迫る程の産出額を誇ったとみられる銀や、18世紀には世界最大の算出を見たと伝えられる銅の濫掘の結果、日本を現在のような鉱物資源に乏しい国にしてしまったのである。この海外流出の量があまりに多いことが、次第に新井白石などの識者の注意をひき、遂に18世紀初頭以後、金、銀、銅の流出は厳しい制限を受けるようになる。1715年には、新井白石が一般に正徳新例として知られる新しい対外貿易制限条例を制定し、唐船の長崎来航は年間30隻、取引額は銀3000貫、オランダ船の来航は年間2隻、取引額は銀3000貫に制限された。白石は、慶長以降107年間に日本で算出した金の4分の1、銀の4分の3が貿易の支払いで国外に流出したとの調査結果を将軍徳川家宣に提出し、このままではあと100年もすれば金は半分となり、銀は100年も経たないうちに底をついてしまうことを懸念して、貿易制限を提案したのである。

 日本との交易による利益の大きさは、1639年にわが国との通商を禁止されたポルトガルが、その後も交易再開をあきらめなかったことからもうかがえる。ポルトガルは、島原の乱の後に江戸幕府が、100年近く(1543年の鉄砲伝来以来)続いた自国との交易を急に制限しようとしたことについて、納得できなかったようだ。特にポルトガルの拠点であったマカオは、わが国との貿易で繁栄していて、わが国との交易が禁止されると経済的に大打撃を蒙ることが確実であった。そこでマカオの当局は1640年に貿易再開の嘆願のため使節を派遣。長崎に到着したが、日本の警備船がその船を取り囲み、一切の船具、武器などは取り去られ、使節のメンバーはほとんどが出島に監禁された後、将軍の命令により彼らを使節としては扱わず、13人をマカオに帰して、残りの61人は全員が斬首された。

 こんな事件にあったにもかかわらず、ポルトガル王ジョアン4世は、名目上はポルトガルのスペインからの独立(1640年)を告げるため、実際には貿易再開を願うために、日本に使節を送ることを決めた。1644年2月に使節は2隻の船で出発し、何度も暴風雨でひき返すことを繰り返しながら1647年7月、ようやく長崎に到着した。しかし幕府はこのポルトガル船も、九州の大名から徴発した5万人の兵で包囲させて追い払った。こうしてポルトガルとの貿易は、幕末における開国迄、200年以上閉ざされることになる。

 それでは、日本側にオランダと貿易を続けるメリットはどこにあったか?医術、砲術などの蘭学ももちろん大きな影響をもたらしたが、最大の貢献は海外情報だっただろう。江戸幕府はオランダ人に貿易を認める代わりに、世界を見る目をオランダ人に託したと言える。毎年オランダ船が長崎に入港すると、すぐに世界の情報を提供させ、出島の通詞を総動員して『オランダ風説書』を作成させ、幕府に届けさせた。これにより江戸幕府は鎖国体制を守りながら、最新の世界情勢をオランダ人の目を通して知ることができた。オランダはジャーナリズムの先進国であっただけに、それだけ効率よく最大の情報を入手することができたといってもいい。もちろん、オランダ人にとって都合の悪い情報はカットされていたが。

「棹銅の計量と箱詰め」(川原慶賀『蘭館絵巻』より)

「棹銅(さおどう)」

 銅は江戸時代の日蘭貿易で最も重要な輸出品で、棒状に加工した「棹銅」として輸出された。これらの胴はオランダ船でアジア各地に広められたほか、貨幣の鋳造や軍需品(銃器)、寺院の装飾や仏像、その他家庭用品などに使われた。 (1)

「棹銅の計量」(『長崎古今集覧名勝図絵稿本』所収)

 主たる輸出品だった棹銅の計量の様子。オランダ人・日本人双方の立ち合いのもとに計量された棹銅は、人足らによって箱詰めされて、釘で封印された後、順次オランダ船に積み込まれていった。

鳥高斎栄昌「オランダ人と丸山遊女」部分 オランダ人が鬼のように描かれている 

新井白石

ヴェローゾ・サルガド「ジョアン4世の即位」リスボン軍事博物館

「ポルトガル王ジョアン4世」