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サッコとバンゼッティ

2018.08.23 11:00

1927年8月23日、アメリカ移民のイタリア人靴職人サッコと魚行商人バンゼッテイが無実の罪をきせらて逮捕されたました。強盗殺人事件で死刑になった有名な事件です。

アナーキストであるとか共産主義に対する嫌悪を持つ多くの人や裁判官、そして、検事は偽の目撃証言者をも作ったりして、死刑判決がなされました。

思想の自由はありませんでした。物的証拠もなく、公正な裁判でないこの判決に、アインシュタインも抗議したり、ムッソリ-二も助命嘆願をしたと言います。

50年後、免罪であったとして、この日を「サッコとバンゼッテイの日」としました。

映画『死刑台のエレベーター』としても有名になりました。


日本でも、免罪事件は多いのです。

免罪でも、メディアにより一層悪人としての存在を報道、非難されることで、社会からもひどい非難を受ける、挙句の果てには自殺に追い込まれたりもします。

捜査関係者の不正な追及により、犯罪者にされてしまう。後に無罪となってもそれによってなされた被害は取り戻せない。


ヨーロッパをはじめ多くの国が、『死刑制度』を無くしている中でも、日本にはあります。これはあまりにも難し過ぎる問題です。

本当の犯罪者を死刑ではなく無期懲役等にすることで、被害者やその家族に報いられるのか、また逆に、いくら犯罪人と雖も、人が人を裁けるのかと言った、「罪を憎んで、人を憎まづ」のような考え方があり、これがどこまでできるのか。

ただ、死刑制度がなければ、免罪であっても、まだ、救われる可能性があるかもしれませんが。

「疑わしきは罰せず」という論理が、どこまで通せるのか。えそらごとなのか。

免罪は、軽い犯罪でも、人の一生までも変えてしまいます。その責任を誰も問わない。国家賠償を勝ち得ても、一度着せられた汚名は永遠に残る。


人は真実を知ろうとしない。知っても、考えない。悲劇を忘れるだけではない。考えない、自分事ではないから。・・でしょうか


再度、おなじ事を言えば・・・

「あなたの愛する人が殺されても、相手を死刑にしないことが出来るのか?」

「免罪であったのなら、誰がそれを償えるのか?」

全く盾と矛です。


本当の犯罪者を処断できるのは、国家に許された、というより、国家が持つ権利と義務とも言われます。