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Okinawa 沖縄 #2 Day 157 (24/12/21) 旧知念村 (5) Kudeken Hamlet 久手堅集落 (2) 集落文化財

2021.12.25 12:57

旧知念村 久手堅 (くでけん、クディキン)


先日 (12月20日)、斎場御嶽 (セーファーウタキ) を見学した後は、知念岬の海岸線を巡った。久手堅集落内の文化財をみる時間はなく、今日、集落内の文化財を見る事にした。2日に渡った訪問記をまとめて記載する。(ナーワンダーグスクは更に確認した井場所もあり12月30日に再訪している。)



旧知念村 久手堅 (くでけん、クディキン)

久手堅は方言ではクディキンで、琉球国高究帳 (1635~1646年) には 「くでけん村」、琉球国由来記には「久手堅村」と表記され、その時代には村があった。 クディは一族を代表する神官を意味し、キンはもともとは「堅」ではなくチンやチミと同じで、首里や地方の王家筋の宗教をつかさどるキミ (君、神女) を表し、キミがキンに変化しクディキンとなったと考えられる。この様に、久手堅という村名は斎場御嶽をめぐる信仰上枢要なノ口 ( 神女) の神職に基づいた役目に由来していると思われる。別の説では、久手堅は沼や沢のような水草の生えた低い湿地である湫 (くて) の義とも言われ、クディキンのキンは石灰岩台地上の「ギザギザした野」とする考えもある。

字久手堅は、寒水 (ソージ) 村と久手堅村が合併してできた。 その合併がいつ頃なのか、またその経緯についても不明だが、17世紀中にはこの二つの村が文献で出ているので、合併はそれ以降と思われる。この様な経緯で、この久手堅村にはノロが二人いた。ノロが二人いたのは知念と久手堅だけ。 知念には知念ノロと波田真ノロ、久手堅には寒水 (ソージ) ノロと久手堅ノロがいた。 寒水ノロは佐宇次 (ソージ) 殿の祭祀を司っていた。 また、佐宇次 (ソージ) 按司の住居は吉富集落の北側の高所の山にあった。この旧寒水村はそれ以降、久手堅の屋取集落として発展し、1937年 (昭和12年) に富貴利村として分離し、1947年 (昭和22年) 吉富村と名を変えて現在の字吉富となっている。佐宇次 (ソージ) 家の門中が中心になって、佐宇次殿を作り祭祀行事を行ったと考えられる。 當間ヌヒヤーを村の守護神 (祖霊神) とし、その麓の當間殿中心に下茂 (スム、シム) 家の門中が集落を形成していた。

クディキンは神話の多い神の里と言われた。斎場御嶽 (セーファウタキ) は久手堅ノロの崇べ所であり、久手堅ノロはセーファノロとも言われている。 久手堅ノロは王府祭祀の時には、斎場御嶽と當間之ヒヤ火神 (當間殿) で祈願している。このように、久手堅ノロはクディとキンの両方の役目を果たしている。 歴代の聞得大君の神名は、御新下りの時に斎場御嶽で、久手堅ノロによって献られ、この神名は本人と久手堅ノロ以外に知る者はいなかったと言われている。この久手堅ノロの聖職は古い前型で、場天ノロによって行われていたが、宮廷と関係の深い久手堅ノロの手に移ったとされている。

久手堅集落は1919年に比べて、大きくは変化していないが、国道331号線沿いと斎場御嶽への参道に民家が増えている。

久手堅の人口は現在では旧知念村の中では、真ん中ぐらいで432人と小さな字。

人口の推移については、明治時代国勢調査が始まった1880年には534人でその後1923年には618人まで増え、現在よりも約二倍弱の人口がいたが、それ以降人口減少となり更に、1937年には吉富集落が分離し330人までに減少、その人口レベルが現在まで続いている。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: サイハヌ嶽 (斎場御嶽)
  • 殿: 当間之ヒヤ火神 (當間殿)、佐宇次根所、神社 (佐宇次権現 於吉富)

斎場御嶽が久手堅集落の拝所には含まれていない。これは斎場御嶽は琉球王府の霊場でい庶民は中に入ることが許されていなかった。現在では、唯一、安座真集落が御門口で遙拝している。

久手堅公民館の前庭にあるガイドマップ。


久手堅集落訪問ログ


南城市地域物産館、がんじゅう駅南城

斎場御嶽を見終わり、ウローカーまで戻り、里道を抜け、自転車を停めている国道331号線まで戻り、知念岬を目指して坂道を登る。坂を登りきると、賑やかな交差点に出る。土産物店が交差点に集中している。一画には南城市地域物産館、がんじゅう駅南城がある。観光地らしい場所は久しぶりだ。観光客も多くいる。さすが、世界遺産になった斎場御嶽だけある。斎場御嶽の入場券は、ここで購入て、500m程歩かなければならない。斎場御嶽への観光客が必ずここを訪れる仕組みになっているのだ。

南城市地域物産館の裏の崖上は展望台になっており、知名、安座真方面が臨める。眼下には久手堅海岸の砂浜が伸びている。この後、この海岸に降りる予定。


大城 (ウフグスク)

南城市地域物産館から知念岬に向かう途中には、かつては大城 (ウフグスク) があった。知念岬にかけて切り立った岩壁になっている地形を利用したグスク。写真左は南側の久手堅ビーチから、右は北側国道331号線から見たグスク跡。

北側の丘の頂上部を中心に平場があり、周辺には石積が巡らされていたそうだが、石積遺構は破壊され、残存状況は極めて悪い。頂上部以外は、鬱蒼たる森で侵入を妨げている。 平場からは北に広がる海岸線と太平洋が一望できただろう。丘の北側は断崖絶壁となって海岸低地へと落ち、東側は緩い斜面となって知念岬の方角へと伸びている。この東側斜面には数段の削平段が置かれ、西側は平地面へと続いている。 南側は岬へと通じる現在の道路に面しているが、かつてもここに細い道があったのではないだろうか?ここが虎口だったのだろうか?道路を挟んで向かい合うもう一つの南側の丘も、ウフグスクの一部だということが判明している。ここも頂上部が平場になっており、周囲には石積が部分的に残っている。こちらも丘全体が鬱蒼とした森に覆われている。このウフグスクは知念間切の北側の海と海岸線、南側の海と海岸線を確保する位置にあるため、当時の海外貿易の船を監視していたと思われる。このウフグスクから近距離に知念グスクが立地し、その間の海岸は干潟となり、港として利用できる場所だったので、知念グスクの出城の可能性もある。

グスクは戦後の開発でかつての姿は失われてしまい、知念体育館が建っている。道路の両脇に二つ小高い丘があり、この丘がかつてのグスクの一部だった。(写真左上: 二つの丘、左下: 南の丘、右下: 北の丘) ウフグスクと判明している二つの丘の東側の知念体育館の場所がグスク領域とは資料には書かれていないのだが、海野貿易船の監視であれば、この場所に監視所を置くのが自然と思える。この部分もグスクの一部で、何等かに利用されていたのではないだろうか?二つの丘はその入り口の防備施設ではなかっただろうか? (あくまで私見)

久手堅海岸側の斜面には、グスクへの登り口だったのだろうか、山道と石垣があった。グスク時代からのものかはわからない。

北側の丘の斜面には沖縄戦当時の戦争遺構が残っていた。重砲兵第7連隊第2中隊の吉岡隊が1942から45年頃に使用していたとされる人工壕があり、ウローカー砲台の着弾観測をしていたと考えられている。第2中隊は1942年中城湾警備の任務で、ウローカーと知名に砲座を構築し、第1小隊は知名、第2小隊はこのチンジ原に駐屯していた。

この陣地壕は丘を北の崖まで伸びており、その内部にはいくつもの分岐壕があり、部屋もあるそうだ。崩壊の恐れがあるので侵入禁止となっているそうだが、注意書きなどは無かった。時々ニュースなどで沖縄戦当時の陣地号や避難壕の崩壊や取り壊すなどを目にするので、中に入るのは断念。


知念岬

知念体育館を過ぎると、知念岬にでる。ここ一帯は知念岬公園となっており、綺麗に芝生が刈り揃えられ、多くの観光客が訪れている。芝生を刈っていた青年は、夏は一日三回も刈っている。夏は草がすぐに伸びるので、綺麗な公園を見てもらいたいので、頻繁に行っていると言っていた。今年からは、公園の周りの斜面の眺望の妨げになる草も刈り廃めたそうだ。

岬から久手堅ビーチ (前ヌ浜) に降りる道がある。道があれば行ってみたくなるので、降りてみた。久手堅船溜への道は石垣が続いている。


久手堅船溜

海岸には以前の漁港だった久手堅船溜がある。昔ながらの石垣で港の防波堤が築かれている。現在は使われておらず、船は一艘も停泊していない。南城市の管理下にあり、使用には許可がいると入り口に書かれていた。


竜宮 (リューグー)

久手堅船溜から久手堅ビーチ (前ヌ浜) に向かう道端に竜宮 (リューグー) の拝所がある。先程訪れた久手堅船溜の船着き場を作った時に、漁師たちにより航海安全と豊漁を祈願する拝所として造られたという。


久手堅ビーチ (前ヌ浜)

海岸に出ると、砂浜が南西方向に知念漁港近くまで長く続いている。


久手堅海岸

知念岬に戻り、久手堅ビーチ (前ヌ浜) とは岬を挟んで北側にある久手堅海岸を訪れる。

久手堅ビーチ (前ヌ浜) から海岸線で直接には行けず、知念岬の崖を上がり国道331号まで戻り、ウフグスクの北側の道で海岸に降りる。

この海岸も長い砂浜が伸びている。海の向こうには久高島がはっきりと見える。

砂浜の木々の茂みの枝に蝶の大群がとまっている。近寄ると一斉に舞い上がり、木の周りを飛びまわる。これ程、多くの蝶の大群に遭遇するのは初めてだ。あまり警戒心がないのか、体スレスレにも飛んでいる。暫く飛んでまた同じ枝に戻りとまっている。12月でも蝶が大量発生する事があるのには驚いた。


キノコ岩

海岸の知念岬の下側に奇岩がある。キノコ岩と呼ばれ、隆起サンゴの根元の部分が波に侵食されてこの様な形で立っている。

近くにも砂浜北側、安座真の知念海洋レジャーセンターの奇岩が海の中に立っている。


慰霊之塔

国道331号線に戻り、久手堅集落に向かう。道の途中の丘の上に慰霊之塔が置かれている。久手堅集落では、毎年旧盆のウークイ翌日のヌーバレー (旧7月16日) の際に慰霊祭を行っている。今年は型コロナウイルス感染防止のため、ヌーバレーは中止だったが慰霊祭は小規模で行われた。この慰霊之塔は昭和30年に久手堅集落住民により建てられ、太平洋戦争で亡くなった住民や兵隊ら42人を慰霊している。知念の各集落で慰霊碑があるが、旧知念村域の11の区で具志堅と久高区 (久高島) を除くすべての区に慰霊碑が建立されている。沖縄戦では、昭和20年6月には米軍は久手堅集落に到達し、住民は捕虜となり、屋比久の収容所に送られていた。この知念は沖縄戦末期には、米軍が具志頭、糸満方面侵攻する段階で多くの捕虜収容所が置かれていた。屋比久に収容された住民達はその後、久手堅集落に作られた収容所に戻されている。


久手堅公民館、神の庭 (カナナー)

集落に入り、まずは公民館に向かう。公民館の前の広場は神の庭 (カナナー) と呼ばれている。村屋の前の広場がこのように神の庭という神聖な場所になっている集落は初めてで、だいたいは、池や井戸、アシビナーなど集落住民の日常生活に直結したところだった。調べると、公民館がある場所は、元々は、神の庭 (カナナー) と呼ばれる屋敷があったそうだ。少し不思議の思ったのだが、この後、その理由が分かることになる。


ボーザー石

この神の庭 (カナナー) の広場の中に琉球石灰岩のボーザー石と呼ばれるものが大切に残されている。これは聞得大君が馬から乗り降りするときに使っていた踏み台といわれている。琉球王統時代から戦前までは、久手堅集落が斎場御嶽への入り口で、俗にいう門前町の様なものだった。久手堅集落では琉球王朝の斎場御嶽での神事の手伝いで生計を立てていたという。御新下りの際、この久手堅に到着した聞得大君や琉球王朝の役人を斎場御嶽までの案内や世話をしていたそうだ。久手堅が「神の里」などと紹介されているものもあったが、これで合点がいった。


サーターヤー跡 (久手堅共同製糖所)

公民館の西側、国道331号線沿いにサーターヤー跡がある。吉富集落も含めてかつての久手堅集落にはソージ組、仲泉 (ナカジン) 組、下茂組、富貴利下ヤーマ、富貴利上ヤーマ、上原組の6つのサーターヤーがあった。昭和三年に久手健のソージ組、仲泉 (ナカジン) 組、下茂組の三つの組が合併して、下茂組製糖場があったこの場所に、補助金を使用して、共同製糖所が建てられ、吉田式七馬力石油発動機の原動力を備え、武久式圧搾機 (横臥式五転子一座) を取付け、三カマ四連式のカマを設置していた。富貴利下ヤーマ、富貴利上ヤーマ、上原組は名前から見ると吉富屋取集落のサーターヤーと思われる。


くんぶちガーラ跡

サーターヤー跡から集落に少し入った所にくんぶちガーラ跡がある。ガーラとあるので川があった場所だろう。資料では詳細不明となっているのだが、文化財として表示まで置かれているので、集落にとっては何か由来のある場所なのだろう。


久手堅石獅子

くんぶちガーラ跡の前の道の反対側には石獅子が残っている。以前は南東方面を向いていたそうだが、なぜ南東方面に向いていたのだろう。石獅子は通常は集落の境に置かれて、邪気が集落に入るのを防ぐ役割を果たしていたが、ここは集落の西側で、西に向けて置かれていたならば理解できるのだが。また、石獅子は敵対する集落や火山 (ヒーサン) など災害をもたらす方向に向けての事もあるが、南東は知念岬の方行で、やはり不可解な置かれ方の様な気がする。現在は方向が変わり鍛冶屋ガマに向いている。久手堅集落には以前は3体の石獅子があったが北と東の石獅子は消滅している。


鍛冶屋ガマ

久手堅石獅子の前の大岩にはガマ跡があり、古墓が残っている。鍛冶屋ガマと呼ばれているので、このあたりに鍛冶屋があったのだろうか?



知念役場跡

1907年 (明治40年) には、 琉球王統時代から知念グスクに置かれていた知念役場 (知念間切番所) がこの場所に移転している。この北側には、知念尋常小学校もあり、戦前は久手堅が知念地域の教育と行政の中心地となっていた。

戦争時は知念役場の道路を挟んだところには慰安所が設けられていた。昭和19年12月中旬から石部隊 (第六十二師団) が駐留にともなって軍人倶楽部 (慰安所) が設けられていた。知念村役場の西隣りの知念村診療所のセメン瓦葺建物がそのまま慰安所として利用されていた。

知念村診療所の建物はすぐ近くに知念国民学校があり、風紀上好ましからぬ場所にあった。国民学校の生徒が帰りに慰安所の周囲に物珍しそうに集っていた。業婦は沖縄出身の那覇市辻町の遊郭から来た女性で、当時辻の女性たちは10月10日の那覇大空襲で焼け出され、各地に分散していた。知念村内の慰安所も辻の女が8~10名ぐらいいた。大隊長は専ら1人の慰安婦をもち、日夜宿舎に同居していた。昭和20年2月頃、石部隊が球部隊 (混成第四十四旅団) と交代後は慰安所も中部の方へ移転していった。


知念尋常小学校

旧藩時代は首里、那覇に士族の子弟に対し村学校、平等学校、国学等があったが、地方の間切、村にはほとんど学校はなく、一部の村に筆算稽古所や、村の格式のある家の子弟のみが、御殿殿内 (地頭の家) 奉公で読み書き算盤の稽古をするぐらいで、百姓、庶民の教育はおろそかにされた。廃藩置県により、明治13年に教育制度が施行され、島尻地方には10校が新 設された。知念間切では、明治16年に知念間切番所内に知念小学校が創設された。明治21年に知念尋常小学校と改称され、島尻郡では唯一の高等小学校が兼城間切座波村に設立され、各間切から選抜された者が入学した。明治22年に、番所内学校から佐敷/知念両間切合併の佐知尋常小学校となる。番所内の建物の老朽化により、明治23年、佐敷間切与那嶺村に佐知尋常小学校 (古小学校跡) が建てられた。新築間もなく明治24年に台風によって倒壊し、合併校だった佐知尋常小学校は分離し、明治25年に久手堅村ソージ原に茅葺校舎が建てられた。明治39年には、知念尋常高等小学校となり、大正10年に現在地の久手堅ワンジン原の現在地に移転してきている。


當間井泉 (トーマガー)

久手堅集落の南端を走る国道331号線から、坂道を南に降りていくとかつては、集落住民が飲料水や産水を汲む井泉だったという當間井泉 (トーマガー) がある。 井泉は二つあり、一つは祭祀を行う御願井泉 (ウガンガ-) で、もう一つが日常生活用水使われた井泉だ。


アジシー墓

當間井泉の西方に続く道があり、そこには古墓がある。墓がどこにあったのかは正確な位置は不明で、彼岸、清明、御願解き (ウグァンブトゥチ) の御願の際には、拝所入口の階段から遥拝されているそうだ。


當間殿 (トーマトゥン)

久手堅公民館に戻り、次は集落東側を巡る。公民館の後方には、當間殿 (トーマトゥン) がある。広場の奥にコンクリートブロック造りの拝屋がある。拝屋の内部には二つの香炉が置かれ、右側は石灰岩の石が3つ並べて置かれているので火の神が祀られている。琉球国由来記にある 「当間之ヒヤ火神」に相当すると考えられている。 琉球国由来記によると、正月、4月の稲のミシキョマ (御初穂祭)、9月「麦初種子 ミヤ種子」、毎年12月の御結願には首里王府から、大勢頭部、あるいは当職が派遣され、久手堅ノロの司る祭祀が行われていた。また、 旱魃時には、国王親祭の雨乞いの祈願など王府祭祀が行われた。 現在は5月15日に五月ウマチー、6月15日に六月ウマチー、6月24日にカシチー、7月16日にヌーバ レーが行われている。


當間の比屋 (トーマヌヒャー)

當問殿の後ろは森になっており、その林の中には當間の比屋 (トーマヌヒャー) と呼ばれた拝所があるそうだ。 久手堅集落の守護神が鎮座すると言われている。現在は、祭祀の時は當間殿の側から遥拝されている。 當間又比屋は、中城村当間集落から来て久手堅を開拓した人物という。林の中に入って拝所があるか探すが、木々が深く、探すのは困難で、結局は見つからなかった。


下茂 (シム) 根所 (ニードゥクル) 

當間殿 (トーマトゥン) の北側には下茂 (シム) 門中の根所 (ニードゥクル) がある。スムとも呼ばれている。根所内の祭壇には下茂門中の祖霊等を祀る香炉が並べられている。 下茂門中は代々、久手堅ノロを出す嶽元 (タキムトゥ) で、久手堅集落の祭祀を司っていた。 


古道

下茂 (シム) の神屋から山の中に入る道があった。ガイドマップでは古道と書かれているが、この道は公民館前の神の庭 (カナナー) で聞得大君が馬を降りて、斎場御嶽に向かった道といわれている。戦前までこの道が斎場御嶽への入り口にあたっていた。古道は県道で出てそこから斎場御嶽に降り緑の館に通じるようになっている。佐敷からユックイヌビラを登り、アカバンダーを経由してこの道に入ったのだろう。戦後は斎場御嶽へは、先日訪れた国道331号線のウローカーへの里道が使われていたそうだ。

古道は丘陵の尾根を通っており、そこからは中城湾が一望できる。


汲井泉 (クミガー)

古道を通り言動に出て、斎場御嶽方面と反対側、西に向かった所に汲井泉 (クミガー) という井泉跡があった。この井戸の詳細は見つからなかった。


大アカギ

汲井泉 (クミガー) の前にはアカギの大木がある。百数十年前に首里城改修時に切り倒され、献木されたという。 その後、切り株から芽を出し、大きな木になったそうで、南城市指定文化財となっている。


佐宇次根所 (ソージニードゥクル) 跡

下茂 (シム) 根所 (ニードゥクル) と並ぶ、佐宇次根所 (ソージヤー、ソージニードゥクル) の屋敷跡で、現在は石柱が残っている。ウマチーなど年中行事で拝まれている。佐宇次根所 (ソージニードゥクル) と呼ばれる場所は、吉富集落の寒水殿ともあり、どちらがそうだったのかは不明。


井泉 (カー)

大アカギの側にも井泉跡がある。ここも詳細は見つからなかったが、香炉がいくつも置かれているので、集落にとっては大切な井泉だったのだろう。



ノロ墓

汲井泉 (クミガー) の奥の山はテラ山と呼ばれており、その中にノロが葬られていると伝えられている古墓が二つある。いつの時代のノロの墓かは不明だが、両方ともノロの墓と言われている。

古墓がある大岩の上部は広い空洞となっている。大岩が別の岩が柱となって支えられている。このテラ山には沖縄戦当時、集落住民の避難壕があったそうだ。


アジシー墓

大アカギの北側にもアジシー墓と伝えられていつ古墓がある。岩を利用した墓で、その前には香炉が置かれていた。


久手堅根人田

更に北側には久手堅根人田跡と書かれた表示柱が立っている。この文化財についての詳細は見つからなかったが、名前からすると久手堅集落のリーダーであった根人 (ニーチュ) の稲の田があったのだろう。沖縄でも戦前は稲作が盛んに行われていた。


上の井泉 (ウィーヌガー)

更に道を森に向かうともう一つ井泉跡がある。上の井泉 (ウィーヌガー) と呼ばれ、文字通り、集落の上部、北方に位置する場所にある。御新下りの時に使う水はここから汲んだという。 1970年代まで飲み水として利用されていたそうだ。


ナーワンダーグスク

先日 (12月20日) に斎場御嶽を訪れた際には、寄満から、森の中にあるナーワンダーグスクへ続く道が立ち入り禁止だった。

それで、今日は別の道でナーワンダーグスクに向かう。上の井泉 (ウィーヌガー) の道を北に行くと行き止まりとなり、そこから階段を登り、山道がナーワンダーグスクへ通じている。道は整備されているようで、集落の人たちが御願に音連れているのだろう。現在、字久手堅ではナーワンダーはこの階段前から遥拝されている。

道を進むと、登坂になる。ここがナーワンダーグスクの入り口の虎口になる。横には大岩があり、そこから侵入する敵を攻撃できるようになっている。


ナーワンダーとは「なでるわ」の転語で「守護霊の霊力」という意味だそうだ。調査で貿易陶磁器が発見されており、その年代からグスク時代(13〜15世紀)以前に築かれたと考えられている。当初は守護霊の祭祀場で、聞得大君が国家祭祀のために崇める以前は、村の聖地だったとされている。その後城塞としての性格も持ったのではと考えられている。地元ではグスクと呼ばずにナーワンダーの名で呼ばれている。

虎口を入ると小さな広場があり、その東側には大岩が聳え、そこには古墓があった。

この広場の先には二の郭があり、片隅の岩の下には拝所が置かれている。女神、川神、火神と書かれて石が置かれている。

二の郭と主郭にまたがって、ヰナグナーワンダーがあり、城壁の石垣が広範囲に残っている。ヰナグとは女性の意味で、女陰を表し、ヰナグナーワンダーと呼ばれているという。ここがグスクの主体部となる。

二の郭から主郭へは、石垣で仕切られている。石垣は平場部分は残っていないが、かつてはもっと高い石垣だったと思われる。

主郭は広場になっており、昔は何があったのだろう。住居があったのだろうか?

主郭からヰナグナーワンダーへの登り口がある。ここにも石垣が残っている。

ヰナグナーワンダーの上部は平場になっており、石垣で囲まれている。その平場の一画に拝所が置かれている。何を祀っているのかは、調べられなかった。

ヰナグナーワンダーの登り道の北側には、ヰキガナーワンーダーの岩山がつながっている。ヰキガは男性の意味で、男根を表しているという。昔、戦争があり、そのときヰナグナーワンーダーとヰキガナーワンダーの間に布橋をかけ、ヰナグ ナーワンーダーからヰキガナーワンーダーに食べものを持って行ったという。グスクはこの二つの岩塊を中心に、周辺の岩塊などを巧みに利用して築かれている。このグスクが何のために築かれたのかははっきりとはしないのだが、岩山には立派な高い石垣が築かれていることから、単なる拝所としてのグスクではなく、城塞としてのグスクでもあったと思われる。ここは標高120m程で、かつてはグスクの上からは、太平洋や中城湾が見通せたので、物見台の役割もあったと考えられている。

主郭の反対側にも岸壁の山があり、底にも主郭から道が通じている。ここにも石垣が築かれ、岸壁には古墓がある。

この岩山は岩肌がはっきりと見える、キノコ状の山になっている。周囲には道が通ており、裏からは、岩の中腹まで登れるようになっていた。

この岩の斜面にも古墓が設けられている。

この岩山の奥には先日訪れた大神宮 (ウフジチュー) の墓がある。

大神宮 (ウフジチュー) の墓から道が北東方面に分岐していた。道を進むと、斎場御嶽の寄満にでた。ここが先日訪れたが、立ち入り禁止となっていた道だった。

道の途中には、人工的に掘られた跡が残る洞窟があった。沖縄戦当時の避難壕だろう。

避難壕の近くには、小さな洞窟があった。覗いてみると頭蓋骨が転がっている。ここは古墓だったのか?いつの時代に葬られたのか?それとも沖縄戦の犠牲者なのか?多分古墓だったのだろう。沖縄ではこのように骨が散乱した古墓によく出会う。当初は、人骨を見ると戸惑ったのだが、何度も見ていると特に恐れとか、気味悪さはなくなっている。当時は風葬で手厚く葬られ、拝まれていたのだろうが、時代が過ぎていくにつれ、墓を守る子孫が絶え、忘れ去られ、このように人骨が散乱している。東京で人骨を発見すると警察沙汰だろうが、沖縄ではこのような光景に出くわすことは多くある。特にグスクなどがある森の中ではよくあることだ。薄暗く、木々で覆われた森の中を一人で歩いているときに出くわすのだが、今では不思議と気味悪さはなく、ただ冥福を願い合掌。


久手堅集落は12月20日、24日、30日と三日間にわたって訪れた。特に印象に残ったのはナーワンダーグスクで立派な石垣が残る貴重な文化財と思える。南城市の文化財保存計画にもこのナーワンダーグスクが含まれてはいるが、私有地ということもあり、なかなか進展していないようだ。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)
  • 知念村の御嶽と殿と御願行事 (2006 南城市知念文化協会)
  • 知念村文化財ガイドブック (1994 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第一巻 (1983 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第二巻 知念の文献資料 (1989 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第三巻 知念の文献資料 (1994 知念村史編集委員会)
  • 国指定史跡斎場御嶽保存活用計画 (2018 南城市教育委員会)