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カモメが飛ぶ日

るすつとすっつ

2020.03.25 18:03

大学を卒業したのは昭和59年(1984)である。浪人だ、留年だ、そのほかにもいろいろあって、結局3年ダブッてしまった。僕は、北国大学の学生だった。

そのころ、日本の景気は悪くなかった。僕が学生として暮らしていた北海道には当時、大きなスキー場がいくつもあった。札幌から定山渓を通過して、冬の難所である中山峠を越え、国道 230号線をさらに30kmも先に行くと、留寿都(るすつ)村がある。そこに「大和ルスツスキー場」(現・ルスツ高原スキー場)というのがあった。


下宿のある札幌からは、豪華な赤い2階建ての送迎バスが出ていた。僕も何度か同じ大学の友人と行ったことがある。埼玉県に本社がある大和観光の資本で運営されていたので、そういう名前がついていたのだろう。

中高年なら知っているかも知れない。「日光、結構、あっ、大和観光~♪」という台詞とともに、歌舞伎役者が大見栄を切るコマーシャルが、関東ローカルではかつて流れていた。その大和観光だ。立派なスキー場である。

僕が卒業した2年後の昭和61年(1986)から平成3年(1991)まで、日本ではバブル景気の嵐が吹き荒れ、人々は狂乱する。その後はいわずと知れたバブル崩壊である。

僕が北国大学の学生だったころ、北海道の金融業界の雄であり、都市銀行のひとつでもあった北海道拓殖銀行の倒産の噂は、既にあった。道内の観光開発事業に多額の融資をしていたからである。裏を取っていないので分からないが、大和ルスツスキー場も、そのひとつであった可能性はある。拓銀に就職した北国大学の先輩が、「うちの銀行だって10年後は分からないよ」と、居酒屋で声をひそめしきりに話していたのを、僕は憶えている。

僕の卒業から14年経った平成10年(1998)、バブル崩壊の煽りもあって、果せるかな拓銀は経営破綻した。

それと相前後して、東京の新川に本社を構える山一證券と、同じく九段北の日本債券信用銀行が、ともに破綻した。拓銀、山一、日債銀の3つの金融機関は、ある意味同じ資本系列下にあり、明暗をともにする運命だったのだ。※  

以上が、留寿都から連想する僕の記憶である。

一方、寿都は海の町である。

だが、留寿都と寿都を取り違える人は、思った以上に多い。 


※山一が拓銀の幹事証券であり、その山一と拓銀が資本を出し合って日債銀という特殊銀行をつくった。拓銀は、市中から北海道開発の資金を得るため、長期の債権を発行していた。それを日債銀に販売させた。

小倉一純
 

留寿都(るすつ)と寿都(すっつ)の位置関係