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カモメが飛ぶ日

クロイツァー先生

2020.04.16 15:54

第2回カワイ音楽コンクール全国大会(於 東京文化会館)には、審査員としてクロイツァー豊子が招かれていた。クロイツァー先生は、かのレオニード・クロイツァーの妻である。かの、といわれても困ると思うので少々。


レオニード・クロイツァーは、帝政ロシア時代の末期にその首都サンクトペテルブルグに生まれた。ピアニストであり指揮者だった。クロイツァー先生は、その門下生である。それが結婚して妻となった。2人には32歳の年の差があった。


クロイツァー先生は、日本では国立音楽大学の教授を務め、東京芸術大学や御茶ノ水女子大学の講師も務めた。計算に間違いがなければ昭和44年の大会当時、先生は50代前半だった。


私は小学5年の8月、都内のカワイ音楽教室の生徒として、いくつかの地区予選に続いて関東地区大会も通過し、この全国大会に臨んでいた。部門は、ピアノの中級だ。課題曲は「最初の悲しみ」(シューマン)で、自由曲は「ロンド」(ベートーヴェン)だった。ちなみに上級の課題曲は「6つの前奏曲から6番 ホ短調」、自由曲は「子犬のワルツ」(ショパン)などだ。上級部門は、参加者のほとんどが中学生だった。


全員の演奏が終わり、私は幸運にも、中級部門のトップとして委員長賞を受賞することが出来た。大会全体のトップとなるのは、上級部門の委員長賞の受賞者だ。大会規定にそう定められている。ところが、クロイツァー先生から待ったがかかった。今回だけはその大会規定に拘らず、中級部門の私を大会の優勝者とすべきだ、と推した。結局、多数決でその例外は却下されたが。それを私は、地区代表のピアノ教師から耳打ちされた。


もう半世紀も前の真夏の上野の森での一幕だ。


私の受賞は新聞に掲載されることはなかったが、東京以外では、奨励賞や努力賞であっても、地方版に小さな囲みが載った。


その後、私は立派な凡人となったが、クロイツァ―先生には、できればひとこと、お礼の気持を伝えておきたかったと、今になって思う。  


小倉一純