『桜の花が散る頃』
少女は今日も病院のベンチに座っていました。
ベンチの横には、大きな桜の木が一本立っていました。
桜の木は、今年もいい香りをさせながら満開に花を咲かせています。
しかし少女には、桃色の花びらも、桜の花のいい香りも、今は何も感じられませんでした。
少女の頭の中は、昨日から入院したミケチのことでいっぱいでした。
(ミケチは元気になるんだろうか。元気になって、ちゃんと家に帰ってきてくれるのだろうか。またかわいい声で、ニャアと鳴いてくれるだろうか。本当にまた、ミケチを抱きしめることができるのだろうか‥)
そんな思いが少女の小さな心を痛めながら、ぐるぐる、ぐるぐると回るのでした。
「遅いね」
突然、声がしました。振り向くと少女の隣りに、一人の少年が座っていました。
少年は、驚くほど大きな目をしていました。瞳の奥は、何もかも消してしまいそうなほど深い緑色をしており、薄灰茶色の髪は、春の風にさらさらとゆれていました。
「お母さんを待っているんでしょ」
もう一度少年は言いました。
「‥どうして知っているの?」
「昨日もそうだったから」
少年は少し微笑みました。
「あの窓から君が見えた」
少女は、少年の見ている方を見ました。
そこには、コンクリート色をした、冷たい感じの四角い建物がありました。どの窓も、カーテンがきっちりと閉められ、窓は硬く閉ざされていました。
「お母さん、来たよ」
少年に言われ振り向くと、少し遠くに、手を振って立っているお母さんの姿が見えました。
少女はベンチから飛び降りて、お母さんの方に駆けてゆきました。
少女はお母さんと手をつなぎ歩きながら、窺うように、そっと後ろを見ました。
少年は、ベンチにポツンと座り微笑みながら、いつまでも少女を見ていました。
次の日、少女が一人ベンチに座ってお母さんを待っていると、昨日の少年がまた少女の側にやってきました。少女は何を話していいのか分からず、しばらくの間、下を向いていましたが、思い切って少年に話しかけてみました。
「あなたは、いつもここに来ているの?」
少年は首を横に振りました。
「僕は、一週間前にここにきたばかりなんだ」
「そうなの…」
少女は、あのコンクリート色をした、四角い建物を見つめました。
突然少年は、少し苦しそうな顔をしてそっと胸を押さえました。
「‥どこか悪いの?」
「ここがちょっとね」
少年は、左の胸に手を当てました。
「ここが僕の体と、たまにうまくつながらなくなるんだ」
少年は、やさしく微笑みました。少女は何を言っていいのか分からな
くなり、また下を向いてしまいました。
「‥でも、またもうすぐ、ここを出て行くんだ」
少女は少年の顔を見ました。
「この桜の花が散りはじめるころ‥」
少年の瞳の奥がより深い緑色になり、春色の風が、少年の髪をかきわけながら、静かに通りぬけてゆきました。
次の日も、その次の日も、少年は少女のところにやってきました。
少女は、少しずつ、ミケチのことを話し始めました。少年は、いつでも少女の話を、静かに聞いていました。
六日目の夕方、いつものように少女がベンチに来てみると、少女より先に少年が一人ベンチに座っていました。
「やぁ」
「‥こんにちわ」
少し不思議に思いながら、少女は少年の隣りに座りました。
「今日は君に話したいことがあるんだ」
少年は、いつもより少し橙色の顔をしていました。
「瞼の向こうに宙があるのを知ってる?」
少女はきょとんとして少年を見ました。
「目を閉じるとそこには僕の宙があるんだ」
少女はしばらくの間少年を見ていましたが、少年の真似をして、そっと目を閉じてみました。しかし、真っ暗で、少女には何も見えませんでした。
「僕はいつか、そこに行ける気がするんだ」
おかしな事を言うな‥と少女は思いました。
突然少年は、目をキラキラさせながら言いました。
「もしかしたら、君にも僕の宙を見せてあげられるかもしれない!」
少年は、ぐるりと向きを変え、少女をじっと見つめました。そして、少女の姿をしっかり瞳に映し込み、目を閉じました。
その瞬間、少女の目の前に、今まで見たこともないような景色が広がりました。吸い込まれそうなほど真っ暗な群青色の中に、光のない瑠璃色の円いかたまりが、いくつも、いくつも、浮かんでいました。
少女の横には、少年が、嬉しそうに笑って立っていました。
「よかった」
少年は一言そういうと、そっと少女の手をとりました。少女は、ドキドキしながら手をつなぎ、少年の後を、静かについてゆきました。
「‥宇宙を散歩しているみたい‥」
少女は小さく呟きました。
二人は何も言わず、吸い込まれそうなほど真っ暗な群青色の中を、どこまでも、どこまでも、歩いてゆきました。
しばらくして、突然少年が立ち止まりました。
「あの赤く光っているものは何だろう」
少女は、少年の見ている方をみました。しかし少女には、少年の言う、赤く光っているものが何処にあるのか分かりませんでした。
「…ミケチは大丈夫だよ」
「‥えっ?」
少女は少年を見ました。
「あそこまで行こう!」
少年は、少女の手を強くひっぱりました。その瞬間、少年の手が少女の手から、プツリと離れました。
少女は、いつものベンチに座っていました。さっきまで一緒にいた少年は、何処にも見当りませんでした。少女はまるで魔法から解けたように立ち上がると、コンクリート色をした四角い建物の、固く閉ざされたあの窓を見つめました。窓は、カーテンがきっちりと閉められたままでした。
その時、遠くでお母さんの呼ぶ声がしました。少女は、お母さんをみて、びっくりしました。
お母さんは、大きなカバンを胸に抱いていました。そのカバンの窓から、元気な顔をしたミケチの姿が見えました。
「ミケチ!」
少女は、お母さんとミケの方に駆けてゆきました。
桜の花びらが、一枚、ひらりと落ちました。