You're all surrounded [序章−前編]
大阪寝屋川市 服部邸強盗殺人事件発生
[1]
**2006年4月某日 〜服部平次の記憶**
忘れたくても生涯忘れる事の出来ない日
オレが、その総てを失くした日は、春だと言うのに土砂降りの雨の日だった
改方学園中等部1-A
服部平次 13歳
大阪・寝屋川にある服部邸と呼び称された和
風の屋敷に、母静華と2人で暮らしていた
その日は、仕事が休みだと言っていたオカン
が在宅しているからと、部活も中止になった
ので、急ぎ帰宅したオレやった
服部邸の近くで、黒いレインコートに身を包
んだ中年の男とすれ違うたのを記憶している
ちらりとオレを見た瞳の色と、コートから漏
れる長い銀髪に一瞬ぞっとしたオレだったけ
れど、
そんな事よりも、激務から解放されて家に居
る母に一刻も早く逢いたくて、急ぎ門をくぐ
ったのだ
服部邸の門から玄関までは少し距離があって
石畳を跳ねるように走ったオレは、玄関先で
何やら銀色の光るモノを見つけた
「何や、コレ、ネックレス…か?」
エライ高級そうなそれは、母のモノでは無か
ったが、家を訪ねて来た人の落し物やろと思
うて、制服のポケットへそれをしまう
「ただいまー!オカン!居るんやろ!」
普段やったら、はいはい、と、仕事の時とは
違う和服姿で顔を出すのに、今日は家の中は
しーん、としとった
「オカン?」
まだ、帰ってへんのやろか、と思いながら廊
下を進んで、オレは慌てて走り出す
台所から、廊下に向かって色々なモノが散乱
しとったからや
反対側の居間からも、色々なモノが乱雑に廊
下に投げ出されてたんや
オカンもオレも、きっちりしとる方やから、
日頃から掃除しやすいように整理整頓は常日頃からちゃんとしてんねん
「オカン?オカン!」
バタバタと客間に足を踏み入れたオレは、茫
然と立ち尽くしてしまう
邸内で唯一の洋間タイプの客間は惨状やった
オカンお気に入りのガラスの花瓶が砕け散っ
ていて、洋書もバラバラやし、ガラスのテー
ブルも倒れ、紅茶が入ってたと思われるカッ
プとソーサも粉々で
オカンは着物の裾も乱れ、髪もぐちゃぐちゃ
で血まみれやった
オカン!と叫び駆けよると、オレはいきなり
ど突かれて、一気に部屋の端に転がった
ソファにぶつかったが、はっとして、オレは
そのソファの下に潜り込んだんや
オカンは苦しげに起きあがろうとしていたの
だが、突然、激しく倒れ込んだ
一瞬、何が起きたのかわからんかった
床に激しく頭をぶつけたオカンは、血を流し
もう、動いては居らんかった
それだけではない、誰かがオカンに馬乗りに
なって、首を絞めてたんや
叫びたくとも、声が出ず
身体の震えは止まらんかった
オカンの生命が消えて行くのを、至近距離で
息を顰めて見てるしか出来へんかった
皮手袋の黒づくめの男は、誰かに電話をして
いて、
ネックレスがどうの、とか何とか喋っていた
んやけど、何かを察したようで、オレの隠れ
とるソファの方へ、歩いて来た
アカン、バレてまう、と思うた瞬間、外で何
やら声がした
途端に飛び出して行った男と、誰かが門のと
ころで遭遇した声が聴こえる
オカンはもう、息をしとらんかった
抱き締めてやりたかったけど、オレは本能的
に逃げなアカン、と思うた
オレを突き飛ばしたオカンは、犯人が来る事
を察知して、渾身の力でオレを助けたんや
泣く暇も無く、服部邸をひとり飛び出した
何一つ、持ち出す事は敵わんかったけど、オ
レは、オカンが生命賭けて助けてくれたオレ
の生命を護るために、全力で逃げ出したんや
取り急ぎ、学校へと逃げ込む
逃げ込んだ途中、先日家にまで押し掛けてオ
カンと口論しとった刑事に電話を掛けた
どうしても、一言文句を言いたかったんや
「・・・オカンが、殺された」
そう言うたオレに、現在、どこに居るのか、
助けに行くから待て、とそいつは言うた
「オマエのせいで、オカンはきっと、狙われ
たんや💢せやから、オマエの助けなんぞ、も
う死んでも要らん!」
そう言うたオレに、平次くんも危険な目に遭
うから、近くの警察に駆けこめ、それが出来
んのやったら、学校で待て、と言うて電話は
切れた
何でオレが学校に逃げ込んだと知った?
パニックになるオレは、はっとした
どうやらオカンを殺した黒いキャップを被り
黒づくめの服装をしとった奴が、オレを追っ
て、人気の無い校内を捜し回り始めたみたい
やってん
逃げ回るオレに、のんきな校内放送が入る
「1-A、服部平次!学校はもう終わりやで?
何を遊んでんねん、早う帰るで!」
和葉の声やった
逃げても無駄や、丸見えやでーと笑う
(ヤメロ、止めてくれ!オレの居場所を報せ
るなや!!)
科学室に逃げ込んだオレを、特定するような
事を言うから、すぐに追いつかれてしもうた
室内に入り込んだ犯人に、戸棚を割って取り
出した瓶を投げつけて、逃げ出した
校内放送は幸い止んだが
おそらく、和葉が科学室に向かって来る
和葉と犯人を遭遇させへんために、オレはわ
ざと全力で足音を立てて逃げた
無我夢中で学校を飛び出して、どこをどうや
って逃げたか判らんけど、オレが気を取り戻
した時には、寝屋川の街を飛び出していた
ざあざあ降り注ぐ雨が身体に当たり、痛くて
冷たくて苦しかった事を記憶している
持っていた携帯はすぐに壊して、捨てた
GPSで追われたら、どうにもならんし
山の中で一晩過ごしてから、オレはさらに逃
亡を続けたんや
オカンの首を絞めていた男の声や特徴、その
総てを己の身体に刻むようにして記憶して
死んでも忘れるもんか、と、オレはひたすら
大雨の叩きつける中を走り続けていた
[2]
**2006年4月某日 〜遠山和葉の記憶**
「かーは」「かじゅはー」
「かずはー」「和葉」
私より2歳年下の平次は、そう言うては私の
後を追ってついて来た、可愛ええ弟分やった
何遍、私が教え込んでも、お姉ちゃんとは呼
んでくれへんかった平次
小学に上がる前までは、風呂にも入れてやっ
たし、一緒に添い寝もしてやったと言うのに
平次が生まれる少し前、当時大阪府警本部長
やった私の父の遠山銀司郎が事故死した
哀しみを和らげてくれたんは、静華おばちゃ
んが生んでくれた平次の存在やった
おばちゃんは、我が子のように私を可愛いが
ってくれていて、忙しいお母ちゃんと協力し
て、一生懸命、私を育ててくれたんや
幼い私にも、その愛情は十分過ぎるくらいに
伝わっていた
だから、私も素直に平次を愛して可愛がって
たつもりやねん
実際、弟分が出来てめっちゃ嬉しかったし
自分もおむつが取れて間もない頃やったから
さすがにおむつ換えはせえへんかったけど、
ミルクはやったし、遊びは一通り教えたし
可愛ええし、元気やから私の友達もみんなが
可愛がってたし、平次も懐いてたんや
幼稚園に上がって、小学校に上がると、段々
と平次は私にべったりせえへんようになって
それが顕著になったんは、私が中学生、平次
が小学5年生の頃やろか
平次の声変わりが始まって、どんどん背が伸
びて、その頃には私と同じくらいの背になっ
てしもうたんや
それでも仲良しで、ようあちこち一緒に行っ
たし、それなりに交流はあったんやけど
以前のように毎日と言うワケではなくなって
同じ中学に平次が合格して、一緒に写真を撮
ったんやけど…
中学3年になった私と、中学1年になる平次
セーラー服と学ランで並んだ私たちは笑顔や
けど、もう背は平次の方が少しだけ高くて、
私はそれが不服やった
なんか、ずっと私が手を引いて来たんに、急
に置いて行かれるような気がしてん
中学生になって、探偵の真似事をするように
なったり、剣道でも有名になったり、水を得
た魚のように活躍し始めた平次
いつの間にか、護っていた私が護られる事も
増えて、私は少し淋しかった
そんなある日、あの衝撃的な事件が起きた
4月の終わり、連休の直前の出来ごとを、私
はきっと、生涯忘れない
「和葉、今日は騎士くん、一緒や無いの?」
騎士くん、は、友人らが平時につけた愛称で
平次が同じ中学に入学してから、登下校はず
っと一緒やったし、
実を言えば、私が中2で平次が小6から、平次
はずっと私の登下校に付き添うてくれててん
それは、私が中1の終わりの下校の際に、痴
漢に遭遇して、平次が助けてくれた事があっ
たからやねん
今日は、私の方がお母ちゃんの職場に届けモ
ノがあって、おばちゃんがお休みで家に居る
から、平次に今日は別々でええよと言うたん
ええんか?と言う平次を、おばちゃんが珍し
く家に居るんやから、早う顔を見せてあげた
らええよ、と言うたのは私
この事を、後で激しく後悔した事をこの時の
私はまだ知らん
「うん、たまには別でええでって、平次を先
に帰してん、私もすぐ追いかける、言うて」
「ならええけど、大丈夫?」
「うん、大丈夫や」
科捜研に勤務するお母ちゃんに着替えを届け
て、帰ろうとした時に、学校に忘れモノをし
た事に気がついて、私はそのまま学校へと戻
った
放送室に、体育祭で応援団の演武で使う音源
素材を置き忘れていたんや
それを回収して、帰ろうとした時、放送室か
ら人気のないはずの校舎を、平次が走ってい
るのが見えた
あいつは一体、何をしてんねん💢
忙しいおばちゃんが、珍しくお休みの日やと
言うのに
「1-A、服部平次!学校はもう終わりやで?
何を遊んでんねん、早う帰るで!」
逃げても無駄や、丸見えやでーと言うてマイ
クのスイッチを切った
何やかや言うても、まだ子供やな、と思いな
がら、私は平次を連れて帰るために平次が駆
けて行った科学室の方面へ急いだ
途中、誰か生徒以外の人が歩いて来るのを柱
の陰にとっさに身を潜めてやり過ごした
黒づくめの服の男で、顔を黒皮の手袋で隠し
ながら歩いている
耳の後ろに、何や刀傷か何かの裂傷の痕が見
えたその男に、強烈な違和感を感じた
何や学校の父兄には見えないし、おかしいと
思うた私
その男の姿が消えるのを待って、科学室へと
平次を迎えに行った
科学室の入口に、何か銀色に光るモノを見つ
けて、後で拾得物として届けようと鞄にしま
って、科学室の扉を開けた
「平次?」
…え?
科学室には、激しく誰かが争った跡があった
平次の学ランが投げ捨ててあって、何やらや
ばそうな薬瓶も転がっている
アカン!平次に何かあったんや!
大慌てで校内を捜したけど、平次の姿はどこ
にもなく、パニックになりながらも、電話を
掛けながら、私は平次の家を目指した
「和葉ちゃん!大変や!」
服部邸の周りは、規制線が張られていて、そ
の周囲をたくさんの野次馬が居た
その中にいたご近所さんらが、私を呼んだん
やった
110番通報で、おばちゃんが殺されたと言う
報せが広まり、平次の行方もわからんと言う
知り合いの刑事さんに、家族の代わりに立ち
あってくれと言われて、家から盗難にあった
モノは無いか、確認をした
そして、変わり果てたおばちゃんを見た
大好きやったおばちゃん
悔しくて、現実やと認めたくなくて、私は涙
さえ出て来ない
必死に自分の感情を遮断して、必要な事情聴
取にも、現場検証にも、最後まで立ち合った
平次の行方がわからず、私も心当たりをすべ
て回ったけれど、痕跡すら見つける事が出来
なかったんや
私とお母ちゃんで、おばちゃんの葬儀やら何
やらの対応をした
平次の代わりに、おばちゃんをしっかりと、
抱き締めてさよならをした
「必ず、平次は私が必ず見つけるから
せやから、少しだけ休んでてな?」
そして、おばちゃんをこんな目にあわせた犯
人かて、絶対に逃さへんし必ず罪を償わせる
服部邸は私とお母ちゃんで管理して、平次の
も帰りを待っていた
おばちゃんの遺骨は、お母ちゃんが生前にお
ばちゃんに言われていた通り、神戸の墓地へ
と静かに埋葬された
1ヶ月が過ぎても、2ヶ月が過ぎても、平次の
行方もわからなければ、おばちゃんを殺した
犯人も掴まらんかった
私は、来る日も来る日も平次を捜し、おばち
ゃんと平次と過ごした最後の日々を繰り返し
思い出しては、何か異変を見つけられんかっ
たんか、考えていた
3ヶ月が過ぎても、何も進展しないばかりか
みんなが段々と、服部邸での事を無かった事
にしたいみたいな空気も流れ始めて
誰も居らん服部邸で
私は初めて、号泣した
おばちゃん、平次、どうして、と
そんな時、お母ちゃんが言うたんや
アンタが諦めへん限り、少なくとも平ちゃん
は、生きてるはずや、と
みんなが忘れても、私らは死んでも忘れんか
ったら、道は開ける、と
「和葉、アンタ留学して来なさい」
刑事に、なるんやろ?
「お母ちゃん」
合気道も剣道も、続けなさいと言われた
そして、本場で犯罪心理学を学び、語学も学
んで来たらええと
オンナが刑事になって、現場で一線を護るに
は、身体能力の高さも一芸も、絶対に必要に
なる、と言うお母ちゃん
アンタには幸い、お父ちゃんが丈夫な身体を
遺してくれたんや、有効に使うたらええわと
そう言うて、高校は英国の高校に通学して、
大学は日本に、と言われたんや
「知り合いに、預かってもらえるよう頼む」
お母ちゃんは、平次はもしかしたら犯人を目
撃して、追跡するために自ら姿を消してんの
かもしれへんと言うた
そして、捜査が未だに進展せん原因は、身内
に裏切者が居る可能性がある、と
「アンタは暫くの間、姿を隠しとった方がえ
えかも知れへん」
私が毎日平次を捜し回ってることは、みんな
が知っていて、
でも、犯人にとってそれは不都合な事かも知
れへんとお母ちゃんが言うたんや
「・・・わかった」
改方学園の高等部には、行きたかったんやけ
ど、それよりも自分には、自分の使命がある
私は、大きな罪を犯した
あの時、もしかしたら平次、犯人に追われて
たのかも知れへんのや
誰も私を責めへんけど、私はわかっとる
せやから、私には責任があんねん
どんな事をしても、おばちゃんの宝をおばち
ゃんの元へ返すと言う使命を果たす
たとえ、自分がどうなろうとも、必ず返す
それが、私の生きる理由の総てや
平次が好きやったポニテはやめて、髪を切り
私は中等部卒業と同時に、英国の現地の学校
へと進学する事にした
「新ちゃんは、蘭ちゃんの傍を離れたくない
みたいでね、こっちにはあまり来ないし」
私を預かってくれる、と言う工藤夫妻には、
平次と同じ年齢の息子さんが居るらしい
有希子さんは、そう言うて、部屋も余ってる
し、息子は日本を離れないので、旦那と2人
だけ、と言うのも淋しいからと言うて、申し
出てくれてん
お母ちゃんは、調べたい事があると言うて、
私とは危険を避けるために、暫く連絡をせえ
へんと言うと、見送りにさえ来なかったんや
改方学園中等部の卒業式の後、私はそのまま
生まれ育った大阪をひとり離れた
待っててや、平次
必ず、私が見つけ出すから、それまではどん
な事があっても、生きるんや
私も、一人で頑張るし
頑張れ、平次
アンタなら必ず出来るから
せやかてアンタは、あの服部静華のたった
一人の息子やねんから
「必ず、見つけたるから、それまで頑張れ」
初めて搭乗した飛行機の窓の向こうに広がる
青い空に私はそっと呟いた
[3]
**2006年4月某日 〜降谷零の記憶**
それは、土砂降りの雨の日だった
この日を境に、運命の輪が少しずつ狂い始め
ていた事を、後から嫌と言う程知る事となる
「零さん?今日は私、研修会が押しててね、
空の迎え、間に合わないかも」
どうしよう?と言う愛妻の声
産後、育休を経て第一線の刑事に戻ったばか
りで、今回はプロファイルの研修に参加中
オレは夜勤担当では無いし、幸い、もうすぐ
UPする予定だったから、オレが迎えに行く
から大丈夫と告げて、電話を切った
そんな中、意外な人物から電話が入った
「オカンが、殺された」
少年の声は震えていて、それはいたずらでは
無いと報せていた
服部静華大阪府警科学捜査研究所所長が、殺
された、と言う報せだ
少年の名は、服部平次
所長の愛すべき一人息子だった
オレは少年の無事を確認し、すぐに誰かを迎
えにやるから、居場所を教えろと言ったが…
「オマエのせいで、オカンはきっと狙われた
んや!せやから、オマエの助けなんぞ、死ん
でも要らん!!!」
そう返されてしまう
それでも、彼の身に迫っているであろうその
危険を報せようと、オレは必死でその説得を
続けた
危ないから、近くの警察か、ダメならとにか
く学校に駆け込めと叫んだ
風見がまだ大阪に居ると思い出し、大至急ら
改方学園に向かい、服部平次を保護するよう
に告げて、オレも向かうと言って庁舎を飛び
出した
運転している途中、いきなり報せが入った
空を預けていた保育園から、空が目を離した
隙に園を出てしまい、交通事故に遭ったと言
うのだ
風見に連絡して、少し到着が遅れると言い、
オレは告げられた病院へと向かった
手術室傍のICUで、梓の絶叫が聴こえる
「そら、ママよ、ねぇ、目を覚まして?
お願い、目を覚ましてよ!!!!」
血まみれの動かない人形を抱えて泣き叫んで
いたのは、梓だった
そして、その人形に見えたのは、オレ達の愛
すべき一粒種の空だった
オレは床に尻餅を着いている事さえ気付かず
に、座り込んでいた
梓の泣き叫ぶ声だけが、脳内にこだました
それから1ヶ月の事は、何も覚えていない
消えた少年の行方を追い、魂を喪ったような
妻を支え、崩れ落ちそうな自身を叱咤するだ
けの日々だったから
ただ記憶しているのは、離婚届を置いて梓が
家を出て行った事と、空が消えた事それだけ
だった
消えた少年の行方は未だわからず、
家出人に該当する少年が居ないか、また、年
齢が近い少年の事件、事故、死傷者情報を得
ると、飛んで行く日々
生きていてくれ、と願う反面、万が一、もう
亡くなっているとしたら、
一日も早く、最愛の母の元に還してあげたい
と思ったのだ
抜けがらのようになったオレは、休職を薦め
られたんだけど、それを拒否して、より忙し
く事件を追う日々をただ繰り返した
どこへ向かうかもわからない、事件だけを追
い続け、生死のわからない少年の行方を探し
続ける日々は
時の流れも感じさせない程、痛い時間だった
[4]
**2006年4月某日 〜榎本梓の記憶**
土砂降りの雨の日のことを、私はきっと生涯
忘れない
若い樹木の前で、そっと涙を拭う
涙はいつか枯れると言う人もいたけれど、そ
れは嘘だと思う
だって、私の涙は、まだ、枯れていない
あの日、私は育休明けでプロファイルの研修
会に参加していた
保育園に息子の空を迎えに行く当番は私だっ
たのだが、間に合わないと判断して、ダメ元
で零さんに電話したのだ
零さんが行くと言うので安心した私
でも、1時間後、零さんから事件で行けなくな
ったから、義兄さんに頼んだと連絡があった
事に気がついて、私は研修終わりに急いで庁
舎を飛び出した
その時、報せを受けたのだ
どうやって病院に行ったのか、思い出せない
し、二度と思い出したくもない
病院で、血塗れだけど安らかな寝顔をしてい
る冷たい我が子と対面して、私は発狂した
冗談だと、言って欲しい
悪夢だったら、覚めて欲しい
どんなに願っても、空はもう瞳を開く事も、
愛らしい笑顔を見せてくれる事も無かった
零さんは、迎えが遅れた自分のせいだと言う
兄は、それは自分のせいだと言った
誰も、迎えよりも研修を選択した私を責めな
かった
それが、辛かった
どうやって、空の葬儀をしたのかも
どうやって、空をお墓にしまったのかも
何もかも、私ははっきりと記憶していない
ただ、泣いて居る自分の耳に、零さんがあの
日、急遽兄に迎えをバトンタッチした理由が
どうやら事件関係者の逝去と絡んで居るらし
いと飛び込んで来た
零さんは、私に遠慮して中々本腰を入れて、
捜査に出ようとはしなかった
そのことが、余計、私を傷つけた
空のいない部屋が辛い
私を気遣おうとする零さんが辛い
泣いても、泣いても、空は帰って来てはくれ
ずにいる現実を受け入れられなくなった私は
捜査にも本腰を入れられないくらい、自分を
ひたすら追い込む零さんを見ていられなくな
った私は
離婚届を置いて、家を出た
自分の荷物と、空の荷物の半分を、零さんが
居ない間に運び出し、私は両親にも兄夫婦に
も告げずに、日本を離れた
上司の宮野さんが、海外でのプロファイルを
研究して来なさいと、留学させてくれたのだ
必死で学びながら、必死で足掻き続けた日々
それでも、もう一度、空に会いたいと言う気
持ちは消せなかったし
自分を責めて、私に申し訳無い顔をしている
零さんのことも全然、忘れられずにいた
それを振り切るように、私はトレーニングを
積んで、仕事に邁進して行くと同時に、時間
が出来ると街中を彷徨い歩くようになってい
たのだ
最低だわ、私
身体を打ちつけるシャワーの下で、私はぼん
やりとそう思っていた
零さんからも逃げて、空からも離れて
一体、私は何をしたいんだろう
枯れたはずの涙が、また私を襲っていた
ママ、と呼ぶ声が聞こえる気がして
哀しそうな顔をした空の顔が浮かぶ
零さんの哀しそうな顔も、浮かんでは消えて
行くけれど
これは、きっと罰だと思った
零さんが居て、可愛いい空も居て
十分、幸せなのに、仕事もだなんて欲張った
私のせいだ
謝っても、謝りきれないし、誰も許してはく
れないだろうから
私は、残った最後のひとつに縋るしかないと
思った
ゴメンね、空
ママ、頑張って働くからね
写真の中で笑う空に、毎日話しかけた
返事はもちろんないけれど、一生懸命、声に
した私
そうしなければ、空が本当に消えてしまいそ
うだったから
涙は枯れ果てる事は無かったけれど、私は溢
れる涙に逆らうことはやめた
そうする事で、呼吸を整えることが出来て、
空のママとして、空に恥ずかしく無い生き方
をしよう、と思えるようになった
仕事に奔走して、街を彷徨い、部屋に戻れば
涙にくれて
私は、壊れながらも、歩き始めて、やがて、
無謀にも走り始めるようになっていた
序章−後編へ、
to be continued