「春の遺伝子」舞台レビュー
2020年度の劇作家協会新人戯曲賞最終候補となった本作は、岡山の劇作家で癌の研究者である河合穂高さんが書いた作品である。岡山在住の角ひろみさんによる演出、オーディションで選ばれた俳優、制作、スタッフは地元演劇人で構成された座組で、天プラ・ホールセレクションとして12月4・5日に天神山文化プラザにて公開ゲネプロを含めて全5回、上演された。
『春の遺伝子』は、審査員をして「現代的で重い残酷な主題を、十分なエンターテインメント性を維持しつつ物語に昇華した」「傑作」、「ここ数年でもっとも有望な新人」と言わしめた作品である。「証言だけで成り立っている俯瞰した描き方、その距離感が結末の絶望を際立たせる」「台詞も無駄がなく、膨大な情報量を説明的にならず読ませる力量は相当なもの」とあり、「科学と倫理」という壮大なテーマがリアリティをもって迫ってくるのは、作者自身の高い知見と作家としての力量の両方による、とある。言葉と人間のあり方に言及し、演劇は必ずしも視覚に多くを頼らない表現、本作品はその特性を生かしている、と坂手洋二さんの評価も高い。
「極めて演劇的な存在感を示す「役8(記憶の無い男)」が、「ねっちゃ」という言葉を獲得する、個的な意識の発生の有無を問題提起して、終わる。このダイナミズムが魅力だ。「役8」の存在は、「自分」を「自分」と認識しているのだろうか。言葉とは、ゴーストかもしれない「自己」を発見する装置だ。だから言葉を得てしまった人間が生きることは、苦しいのかもしれない。本作はそうした議論に耐えられる作品だ。「人間とは何か」というテーマに繋がっている。」
さらに「不明者と姉以外は男性女性関係なく演じられるのも良い」との評価もあるように、脚本では人物に固有名が示されず、役1から役17と番号で設定され、俳優は代替可能と示されている。初演では俳優は多様に入れ替わった。河合さんの脳内では、「世界があって顔がない」と聞いたことがある。「その世界の事実を一つずつ積み重ねて連ねていく。現実はどんどん進んでいき、他の方向からも進んでくる、それらを脚本に立ち上げている」。「伝えるためには喋らない」と言葉を惜しみ、削り取る。一人の医療従事者として、往診先で患者さん一人ひとりの事実に誠実に向き合う日々が、河合さんの中に世界を構成し続けている。
舞台装置は、袖幕、ホリゾント幕も飛ばして一切を排した剥き出しのコンクリートを背景に、俳優が手づから運ぶ椅子、光を湛えた小さなボード、腰の高さの平台、だけである。印象的なフレーズの静かな音楽、鼓動を思わせる重低音や引き裂くような音など、聞いた記憶を探したくなる音が使われていた。衣装は極めてシンプルで、職業を示す記号的な服装と、特徴的なのはほぼ全員が着る白衣。白い背中には独特の説得力がある。
舞台一面に背中の質感を投影する映像から、第一部は不気味な無表情で始まり、テンポ良く展開する。警察・病院・警備会社・帰還困難区域、それぞれの時間が別々の場所で流れ続けていることが、歯切れの良い場面転換によって印象づけられる。スピード感のある場面で演出の角ひろみさんが俳優に伝えていたのは「同一人物の集中を切らさずに、電流を流し続けながら、曲がり角を曲がる度に電流の流れ方が変わるような」表現。俳優一人ひとりの存在感が要求されていた。
これまでは別の劇団で活動してきた俳優たちには、舞台経験や身体性に大きな差異がある。年齢や職業も異なり、練習にメンバー全員が揃うわけではない。代役による練習が繰り返されることで、お互いの立場を共有することにもつながったようだ。とはいえ、お互いの関係性を集団の行為によって表現するには、不利な練習環境に見えた。予定調和的な段取りにならないための苦心が、本番直前まで垣間見られた。
第二部を中心に、登場人物たちは異なる立場を主張し合い、「空気を引っ張り合う」やりとりを続ける。「役8」を軸に関係すればするほど、お互いの違いが明確になり、「役8」との距離が不明瞭になる。今回の演出では、「同一人物」が明確に登場する。折に触れて誰でもない人に変容し、元の役に戻っていく。坂手さんがアフタートークで「決意したひとつの演出」と評したように、役の入れ替えは最小限であり、俳優の個性を最大限生かす演出。感情を抑えた脚本と、俳優の身体に込められた感情がどのようにぶつかり合うのかは、本公演の見所のひとつとなった。
河合さんが書いた時点では無機質なイメージだった警察の三人は、癖の強い人間味のある三人組となっていた。数分に及ぶデモの場面は、脚本ではわずか数行のシーンである。第三部で「姉」が手渡そうとするのは赤いリンゴだが、脚本ではレジ袋だ。はっきりと脚本の道具立てを変更したのは、このリンゴのみ。観客の解釈は様々に膨らんだ。議論を重ね、試行錯誤しながらシーンが作られた過程が現れている。
練習でのキーワードは「納得いかない」「抵抗している」「リアルな人たちがいる世界のリアルじゃない感じ」。特に「ねっちゃ」という言葉の獲得については、坂手さん同様、角さんも別の視点から重要視していた。「役8」は最終的に、関係そのものである言葉「ねっちゃ」のみを発する。「役8」の「自己」は、「役8」自身によって獲得されることなく物語は終わる。だとしたら、この言葉の獲得にはどんな意味があるのか。誰も「姉」を「ねっちゃ」とは呼ばない、音韻上も発音の難しい、知るきっかけのない言葉を口にすることの意味とは何か。そう聞こえる音だとしたら残酷だ。やりとりが遺伝子に組み込まれていたんじゃないか、と稽古場では話したという。
舞台上には「遺伝子」を表現するかのような仕掛けもあった。冒頭から俳優の立ち位置や連動する動きは、配列や構成・記号や組合せの総体に見える。さらに「ハ」で始まり「シ」で終わる作品タイトルが、異なる文体を折り重ねて、執拗に繰り返される。「ハ」を重ねれば「はは」であり、「シ」の手話を換えれば「死」となる。物語が進むほど、意味を考えずにいられなくなる。さらに何度も俳優が重ねる「は?は!は?!」に、客席は我知らず呼吸を合わせている。疑問と息を合わせるうちに、「納得いかない理不尽さ」に巻き込まれていく。だが、第二部、第三部では、理路の通った、なおかつ納得の難しい結論を、俳優の力強い声が断言し続ける。配信映像ではやや伝わりづらいが、舞台に近い席の醍醐味を得られるシーンが続いた。
舞台中盤から、「記憶の無い男」には光る紐が絡みついている。白衣の人間たちによって巻き付けられた青白く光る紐は、時には周囲の人間とのつながりを、時には逃げられない束縛を、さらには「記憶の無い男」自身の血流や呼吸、仕込まれた遺伝情報を感じさせる。光る紐に絡めとられた「男」が姉から渡された卒業アルバムの冊子の紙は、不器用に握りしめられ、抱えられた後、その手からこぼれ落ち、染色体にも見える。その切れ端を白衣の人々が自分の骨に重ねながら立ち去るシーンは舞台全体の奥行きを映像でも感じられる。帰還困難区域最深部の暗闇の場面で、舞台の縁にこの光が一本の境界線となり、容易に越えられる境界として挑発的でもある。
第三部の結末は、初演時から大幅に脚本に手が加えられた部分。河合さんの「今の世の中では、『彼』は生かしてもらえない」との判断により、明確な死がもたらされる。そのための扉が開き、「ヒデ」を閉じ込めた空間に向けて、境界によじ上りながら十名が関わり続けようとする場面は、身体が整然と情報を発していた第一部とは大きく異なり乱雑な状態を示す。一斉に「ヒデ」に向けられた「死」の手話が、個人の迷いに重く捻れて崩れ落ちる。メッセージとしての「死」を提示しきれない戸惑いと混乱に呼吸が荒くなり、目と手が統合できず、「ヒデ」に向かって見苦しくもがく。裸の人間が執拗にもがき続ける姿が崩れ落ち、物語はあっけなく終わる。
結末、二人からの宣告と、「ハ」の声は重なったりずれたりする。無機質になるはずのマイクの音声が揺れる。明らかに動悸と血流を感じさせる二人が、内面の葛藤を身体の内側に強く抱えながら客席に背を向け去って行くラストシーンである。この構図は冒頭の無機質で不気味なシーンと符合している。呼吸の入り交じった声が絶望的な言葉を語っても、そこに断ち切ることの出来ない人間の何かが示されているように感じる不思議なラストシーンである。リンゴを手にした姉の表情も複雑で、読み切れない。物語の明確な結末に比して、舞台は乱雑さを残して終わる。
公演両日とも、客席には多くの人が足を運んだ。国内外で臓器移植に関連するニュースも相次いでいる。「岡山発」にこだわった舞台として話題にもなり、毀誉褒貶も予想されると共に、今後の展開が期待される。
(文/スミカオリ 写真:yukiwo)