雲間より天見ヶ浦の淑気かな
https://www.isonokami.jp/blog/2019/01/02/%E6%B7%91%E6%B0%97%E6%BA%80%E3%81%A4%E3%81%97%E3%82%85%E3%81%8F%E3%81%8D%E3%81%BF%E3%81%A4/ 【淑気満つ(しゅくきみつ)】より
新年あけましておめでとうございます。本年一年もよろしくお願い致します。
お力を新たにされた石上大神様の大前も淑気に満ち満ちています。
「淑気」とは新春のめでたい気分が天地あまねく行き渡り満ちていることを言っています。
いかにもお正月の華やいだおめでたい雰囲気が表れていて、新年の季語にふさわしい言葉だと思います。
今年は何だか良いことがありそうで、楽しみにしたいものです。
それでも日本を含む地帯はどうも地雲の活動期に入っているようで、それへの心構えと対策は怠ることなく備えたいものです。
今年の心構えとしてはエトの亥にあやかって、何でもネガティブではなくて、ポジティブに受け入れて目標に向って、まっすぐ前向に進め
ていく年にしましょう。
皆様にとりましても前進できる良い年となりますよう祈っています。
http://sogyusha.org/saijiki/05_newyear/shukuki.html 【淑気(しゅくき)】より
もともとは漢詩で使われた言葉が俳句にも使われ、新年の季語として定着した。正月三が日は、改まった、身の引き締まる感じと、そういう中にもちょっと華やかでおめでたい温和な雰囲気が漂っている。昔の人はそれを「瑞祥の気」と言った。
「淑」という字は「淑女」「貞淑」「淑徳」などと使われるように、「良い、善い、しとやか」という意味である。さらに「私淑」という言葉があるように「慕う、引きつけられる」という意味もある。つまり、「淑気」はそういう新年の素晴らしい、清々しい「気」のことである。
しかし今日では、淑気という言葉を知っているのは俳人ばかり、というような状況である。それも若い人たちにはそっぽを向かれるような季語である。ただ漢詩から借りて来たという由来を考えれば、堅苦しい感じがするが、昔の俳人はそれを逆手に取って、儀式張るお正月を洒落のめすために、わざとこういう武張った季語を用いて俳諧味を出そうとした趣も感じられる。
現代俳句にもそういう流れは生きている。
長年俳句に親しんで、しばしば佳句をものする先輩に言わせると、「こういう俳句独特の季語はかえって句になりやすいんだよ。何か情景を詠んで、淑気かな、を付ければそれなりに格好がついちゃうんだよ」だそうである。ずいぶん乱暴な指導法だが、なるほど「淑気」という裃を着たような季語に向かうには、これくらいの気軽さが必要なのかも知れない。
いんぎんにことづてたのむ淑気かな 飯田蛇笏
麦畑に風少しある淑気かな 高橋淡路女
淑気満つ口あいてまづ一笑す 菅裸馬
碧落に鷹一つ舞ふ淑気かな 宇田零雨
淑気満つ春蘭の香を箸の尖き 安田鶴女
なかんづく祖父のほとりの淑気かな 鷹羽狩行
https://www.city.goto.nagasaki.jp/li/island/030/010/index.html 【椛島 五島列島の小さな島の暮らし】より
ようこそ椛島へ五島列島の小さな島。4千人もの人が住んでいたことも今では住む人も、訪れる人も少なくなりました。教会や目を引く観光名所はありません。ガイドブックにも載っていません。椛島のいいところは?と聞くと「なんもなかよ」と笑顔を見せる方も。
けれども、ここにはしまの暮らしが確かに息づいています。
海と共に生きる暮らし 伝統を受け継ぐ暮らし 人と人とが近い暮らし
「なんもなか島」の魅力が溢れています。
https://www.city.goto.nagasaki.jp/s025/010/010/010/010/020/010/20190227173710.html 【椛島神社の詳細】より
定期船ソレイユが本窯港に入港すると椛島神社の姿が見えてきます。
いつ建てられたかは不明ですが、古くは1738年に勧請の記録があります。
昔からこの場所を見守り続け、地元の人にたいせつにされてきた神社です。
五島市の民俗文化財に指定されている椛島神社のお祭りは、10月の第3土日に行われます。
独特の衣装を着た六尺衆がお神輿を担ぎ、代々伝わる音頭と掛け声にあわせて曳船「宝来丸」が曳かれます。
このお祭りの原型は瀬戸内海のほうから伝わったそうです。
現在の建物は平成元年に建てかえられたものです。
椛島神社の裏手から伸びる階段を上ると八坂神社、さらに奥には金比羅さんがあります。
祇園さん、山ノ神のお祭り、お正月など、祭礼の時には本窯のみなさんが集まる場所ともなっています。
祭神 豊玉毘売神 末社神 船霊大明神
https://www.city.goto.nagasaki.jp/s025/010/010/010/010/020/060/20190227165804.html 【ヨハネ五島生誕伝説の碑の詳細】より
芦ノ浦はカクレキリシタンの里。本窯や伊福貴からは島の反対側で、カクレキリシタンの方々が祈りの儀式 オラショを行う時には帳方と呼ばれる組織の長の家に集まって行われていました。
今ではカクレキリシタンの組織も解散し、わずかな住民が暮らすのみ。福江からの定期船 ソレイユがつく伊福貴港、本窯港からも離れた静かなところです。この芦ノ浦のあるお宅から「三次わん様」と彫られた碑(現在は堂崎教会に資料として保管されています)が見つかっており、サンジュワン、つまり聖・ヨハネ五島はここ芦ノ浦の生まれであるとの言い伝えがあります。
ヨハネ五島の出生地を記した史料は見つかっていませんが、この言い伝えをもとに椛島の有志が出身者等の協力を得て、生誕伝説の記念碑を建立しました。
ひっそりとした暮らしが息づく芦ノ浦の湾に、ヨハネ五島生誕伝説の碑は立っています。
https://www.hira-shin.jp/shimanoyakata/index.php/view/245 【生月学講座 サンジュワン信仰の証拠】より
6月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産への登録が漸く決まりました。平戸市内では中江ノ島と春日・安満岳の二つが構成資産となっていますが、そのうち中江ノ島については殉教伝説の伝承を伴う聖地で、山田に伝わる唄オラショ「サンジュワン様の唄」の存在や、聖水を採取する「お水取り」行事がおこなわれてきた場所として、生月島のかくれキリシタン信仰においての象徴的な場所だと言えます。
中江ノ島で実際に起きた殉教や、同島でおこなわれる「お水取り」行事、聖水信仰については既に生月学講座で紹介しましたが、そのなかで、中江ノ島が聖地となった理由についても、元和・寛永年間に起きた殉教だけではなく、既にキリシタン時代の信仰の中で、キリストに洗礼をおこなった洗礼者ヨハネ(サンジュワン)に因んだ聖地としてキリシタン信者の信仰を集めた可能性がある事を紹介していました。当時、生月島で洗礼者ヨハネ(サンジュワン)信仰が盛んだった事については、聖水瓶が「サンジュワン様」と呼ばれて御神体とされている事以外に、この聖人を描いたと思われるお掛け絵が、壱部集落岳ノ下津元に祀られている事からも裏付けられます。
岳ノ下のお掛け絵は、構図が同じで着物の地色が異なる男性像のお掛け絵一対からなります。斜め横に顔を向けて立つ男性は、髷を結い、花模様の鮮やかな青(黄)地の着物を着て、右手に杖を持っています。足元には雲と日月が描かれ、背景には花咲く木と水色の蛇行する線が描かれ、頭上の雲には十字架が乗っています。洗礼者ヨハネの図とする根拠は、第一に、両足を開いて立ち、体を画面左側に向け、右手を差し伸べた男性の姿勢が、洗礼を授ける際のヨハネのポーズに似ている点があります。この場合、右手に握られた杖状のものは、杖とするには短かい事から、落ちる水の描写が変化したものだと考えられます。第二に洗礼の場面を描いた洗礼者ヨハネの聖画には、ヨルダン川のほとりに樹木が描かれている事例が多くありますが、本図では背景に描かれた花咲く木がそれに該当し、蛇行した水色の線がヨルダン川を表すと考えられます。第三に岳ノ下の伝承では、木や着物の柄として描かれた花は椿であり、ぽとりと花が落ちることから、首を斬られた殉教者を表すとされている事です。この伝承は、サロメの求めに応じたヘロデ王によって斬首された洗礼者ヨハネの最期と一致します。なお岳ノ下津元に属するO家にも津元のお掛け絵の「隠居」とされる絵が祀られていて、構図もほぼ同じですが、着物の帯をぞんざいに結ぶ特徴があり、これも毛皮の衣に縄帯を締めた洗礼者ヨハネの衣装の特徴と一致します。
実は最近、壱部浦のI家でこれまで未確認のお掛け絵が確認されたのですが、これも別の構図の洗礼者ヨハネの図だと考えられます。この図では男性がお水瓶を持って座り、座った女性が合掌して男性を拝んでいます。着物の帯(紐)は蝶結びで前で結ばれていて、男性がお水瓶(サンジュワン様)を持つ事や、男性の着物には花が描かれていて岳ノ下のお掛け絵と共通する事から、洗礼者ヨハネの図だと判断しました。なお絵の背景に描かれた岩壁は、中江ノ島の採水場所の風景を描いたと思われ、もしそうならば、洗礼者ヨハネ-聖水-中江ノ島の関係性を同一図中で紹介した大変貴重な資料だと言えます。