横浜・山下公園の歩み (1930年 日本初<臨海都市公園>開園) 2021.12.28 12:34 (「新・美の巨人たち<テレビ東京放映番組 2021.11.27> 主な解説より引用) そこからは、みなとみらい・横浜の象徴でありランドマークでもあるマリンタワー、横浜ベイブリッジ、氷川丸の全てを視野に入れることができる。 そこは、1930年に開園した山下公園(日本初の臨海公園)。広さは74,121平方メートル、海に面した公園の横幅長さは、540メートルにも及ぶ。長閑で平和な日々を感じられる横浜の観光スポットでもあり、市民の憩いの広場でもある。 しかしながら、今に至るこの公園を巡る歴史は、決して平坦なものではなかった。きっかけは、関東大震災(1923年9月発生)で生まれた瓦礫の山の処分場からであった。震災から2日後に横浜市の仮設市役所が誕生し、現在の山下公園エリアを、瓦礫撤去による処分場として指定。1925年6月から造園工事が着工した。震災後6年半を経て、「山下公園」が誕生した。当時は、瓦礫の上に山手トンネル掘削や大岡川で出た土砂を運搬し、公園の土壌として整地していった。 1935年には、震災からの復興記念「横浜大博覧会」のメイン会場として大いに賑わい、当時の市人口を超える、350万人が来館し、大成功をおさめた。これを契機に、山下公園が「横浜の名所」となる大きなきっかけとなった。 その後も、終戦から3か月前の1945(昭和20)年5月、「横浜大空襲」に見舞われ、市街は再びの瓦礫の山と化した。終戦後一時は、米軍に接収され1959年の全面接収解除までは、米軍将校の住宅地約40戸が立ち並ぶなど、戦争の爪痕を大きく残した時期もあった。 戦後は、山下臨港線として埠頭を結ぶ高架線路を公園内に走らせた時期もあり、景観の美しさを損なうことから、ホテルニューグランドを拠点として活躍していた小説家の大佛次郎(おさなぎ じろう)氏をはじめ数多くの市民の廃線運動が実を結び、1981年に廃線となった。 様々な紆余曲折を経て、現在の海辺のメモワール(記憶)ともいうべき、美しい景観の「山下公園」に至る。それはまるで「山下公園」という名の劇場シーンのようでもあった。「番組を視聴しての私の感想綴り」 以前に本番組で「日本郵船 氷川丸」を取り上げた回があったが、この船も山下公園と同じ1930年竣工完成し、同公園内には1961年から係留されている。 間違いなく、私の幼少時の原体験は、ここ山下公園、マリンタワー、桟橋そして氷川丸にある。今でも初めて山下公園を訪れ、マリンタワーにも登って海を眺めた時の感動が忘れられない。 もちろん、今回のような公園の歴史や経緯を知る由もなく、ただ海に面している公園の素晴らしさに、子どもながらも感動したのを鮮明に覚えている。 そう、季節は「夏」であったのも覚えている。それは、公園の脇に止まっていた「かき氷屋」さんで、かき氷を買ってもらい、食べた記憶とともにあるからだ。 そういえば、横浜ベイブリッジも本番組で取り上げられこのブログに綴ったのも新しい。「横浜三塔物語」というテーマでの取材もあった。さらに、私は小さい頃から「青色」を好きだというのも、生まれ故郷である海の街・横浜に影響を受けているのは間違いない。 令和の新しい時代に入ったものの、残念ながらここ1〜2年は、世界中が「新型ウイルス・コロナ」に翻弄され続けている時期となっている。これだけの大規模な感染流行(いわゆるパンデミック)は、50年〜100年に一度とも言われている。 なにもかもが、過去の歴史として片づけられ、郷愁に浸る暇さえ許されない雰囲気を、世間全体が醸し出しているようにも見える。 しかし冷静に考えるに、「今」という一瞬は突然現出したわけではなく、過去からの自らの営みの延長線上を辿りつつ、「いま」に至っているのである。街の歴史、都市の歴史、港の歴史も、そこへ二重写しのように重なって見えてくる。 「未来」「将来」も10年後、20年後、50年後、100年後も、突然現れるのではない。とすれば、「今」「現在」の営みこそが、未来の道筋を決めていくのも当然であろうと考える。目の前の出来事だけ、今だけの世界に目を向けるのではなく、遠いしかし確実に向かうであろう「未来」の姿をポジティブに思い浮かべつつ、先人が築いていただいた礎とともに、勇敢に立ち向かう時代でありたい。 そんな拙い想いを抱いてしまった、今回の海辺のメモワール「山下公園」であった・・写真: 「新・美の巨人たち」<テレビ東京放映番組2021.11.27>より転載。同視聴者センターより許諾済。 山下公園の全景 山下公園の夜景(横浜マリンタワーのライトアップとともに) 山下公園内に係留されている「氷川丸」夜景 山下公園から望む「横浜ベイブリッジ」夜景