俳人蕪村 ①
https://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/47985_41579.html 【俳人蕪村】より
正岡子規
緒言
芭蕉ばしょう新たに俳句界を開きしよりここに二百年、その間出いづるところの俳人少からず。あるいは芭蕉を祖述し、あるいは檀林だんりんを主張し、あるいは別に門戸を開く。しかれどもその芭蕉を尊崇するに至りては衆口一斉に出いづるがごとく、檀林等流派を異にする者もなお芭蕉を排斥せず、かえって芭蕉の句を取りて自家俳句集中に加うるを見る。ここにおいてか芭蕉は無比無類の俳人として認められ、また一人のこれに匹敵する者あるを見ざるの有様なりき。芭蕉は実に敵手なきか。曰いわく、否いな。
芭蕉が創造の功は俳諧史上特筆すべきものたること論を竢またず。この点において何人なんぴとかよくこれに凌駕りょうがせん。芭蕉の俳句は変化多きところにおいて、雄渾ゆうこんなるところにおいて、高雅なるところにおいて、俳句界中第一流の人たるを得。この俳句はその創業の功より得たる名誉を加えて無上の賞讃を博したれども、余より見ればその賞讃は俳句の価値に対して過分の賞讃たるを認めざるを得ず。誦するにも堪たえぬ芭蕉の俳句を註釈して勿体もったいつける俳人あれば、縁もゆかりもなき句を刻して芭蕉塚と称となえこれを尊ぶ俗人もありて、芭蕉という名は徹頭徹尾尊敬の意味を表したる中に、咳唾がいだ珠たまを成し句々吟誦するに堪えながら、世人はこれを知らず、宗匠はこれを尊ばず、百年間空しく瓦礫がれきとともに埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村ぶそんとす。蕪村の俳句は芭蕉に匹敵すべく、あるいはこれに凌駕するところありて、かえって名誉を得ざりしものは主としてその句の平民的ならざりしと、蕪村以後の俳人のことごとく無学無識なるとに因よれり。著作の価値に対する相当の報酬なきは蕪村のために悲しむべきに似たりといえども、無学無識の徒に知られざりしはむしろ蕪村の喜びしところなるべきか。その放縦不羈ほうしょうふき世俗の外に卓立せしところを見るに、蕪村また性行において尊尚すべきものあり。しかして世はこれを容いれざるなり。
蕪村の名は一般に知られざりしにあらず、されど一般に知られたるは俳人としての蕪村にあらず、画家としての蕪村なり。蕪村歿後ぼつごに出版せられたる書を見るに、蕪村画名の生前において世に伝わらざりしは俳名の高かりしがために圧せられたるならんと言えり。これによれば彼が生存せし間は俳名の画名を圧したらんかとも思わるれど、その歿後今日に至るまでは画名かえって俳名を圧したること疑うべからざる事実なり。余らの俳句を学ぶや類題集中蕪村の句の散在せるを見てややその非凡なるを認めこれを尊敬すること深し。ある時小集の席上にて鳴雪めいせつ氏いう、蕪村集を得来たりし者には賞を与えんと。これもと一場の戯言なりとはいえども、この戯言はこれを欲するの念切せつなるより出でしものにして、その裏面にはあながちに戯言ならざるものありき。はたしてこの戯言は同氏をして蕪村句集を得せしめ、余らまたこれを借り覧みて大いに発明するところありたり。死馬の骨を五百金に買いたる喩たとえも思い出されておかしかりき。これ実に数年前(明治二十六年か)のことなり。しかしてこの談一たび世に伝わるや、俳人としての蕪村は多少の名誉をもって迎えられ、余らまた蕪村派と目もくせらるるに至れり。今は俳名再び画名を圧せんとす。
かくして百年以後にはじめて名を得たる蕪村はその俳句において全く誤認せられたり。多くの人は蕪村が漢語を用うるをもってその唯一の特色となし、しかもその唯一の特色が何故なにゆえに尊ぶべきかを知らず、いわんや漢語以外に幾多の特色あることを知る者ほとんどこれなきに至りては、彼らが蕪村を尊ぶゆえんを解するに苦しむなり。余はここにおいて卑見を述べ、蕪村が芭蕉に匹敵するところのはたしていずくにあるかを弁ぜんと欲す。
積極的美
美に積極的と消極的とあり。積極的美とはその意匠の壮大、雄渾、勁健けいけん、艶麗、活溌かっぱつ、奇警なるものをいい、消極的美とはその意匠の古雅、幽玄、悲惨、沈静、平易なるものをいう。概して言えば東洋の美術文学は消極的美に傾き、西洋の美術文学は積極的美に傾く。もし時代をもって言えば国の東西を問わず、上世には消極的美多く後世には積極的美多し。(ただし壮大雄渾なるものに至りてはかえって上世に多きを見る)されば唐時代の文学より悟入したる芭蕉は俳句の上に消極の意匠を用うること多く、従って後世芭蕉派と称する者また多くこれに倣ならう。その寂さびといい、雅といい、幽玄といい、細みといい、もって美の極となすもの、ことごとく消極的ならざるはなし。(ただし壮大雄渾の句は芭蕉これあれども後世に至りては絶えてなし)ゆえに俳句を学ぶ者消極的美を唯一の美としてこれを尚とうとび、艶麗なるもの、活溌なるもの、奇警なるものを見ればすなわちもって邪道となし卑俗となす。あたかも東洋の美術に心酔する者が西洋の美術をもってことごとく野卑なりとして貶へんするがごとし。艶麗、活溌、奇警なるものの野卑に陥りやすきはもとよりしかり。しかれども野卑に陥りやすきをもって野卑ならざるものをも棄すつるはその弁別の明なきがゆえなり。しかして古雅幽玄なる消極的美の弊害は一種の厭味いやみを生じ、今日の俗宗匠の俳句の俗にして嘔吐おうとを催さしむるに至るを見るに、かの艶麗ならんとして卑俗に陥りたるものに比して毫ごうも優まさるところあらざるなり。
積極的美と消極的美とを比較して優劣を判せんことは到底出来得べきにあらず。されども両者ともに美の要素なることは論を竢またず。その分量よりして言わば消極的美は美の半面にして積極的美は美の他の半面なるべし。消極的美をもって美の全体と思惟しいせるはむしろ見聞の狭きより生ずる誤謬ごびゅうならんのみ。日本の文学は源平以後地に墜おちてまた振わず、ほとんど消滅し尽せる際に当って芭蕉が俳句において美を発揮し、消極的の半面を開きたるは彼が非凡の才識あるを証するに足る。しかもその非凡の才識も積極的美の半面はこれを開くに及ばずして逝ゆきぬ。けだし天は俳諧の名誉を芭蕉の専有に帰せしめずしてさらに他の偉人を待ちしにやあらん。去来きょらい、丈草じょうそうもその人にあらざりき。其角きかく、嵐雪らんせつもその人にあらざりき。五色墨ごしきずみの徒もとよりこれを知らず。新虚栗しんみなしぐりの時何者をか攫つかまんとして得るところあらず。芭蕉死後百年に垂なんなんとしてはじめて蕪村は現われたり。彼は天命を負うて俳諧壇上に立てり。されども世は彼が第二の芭蕉たることを知らず。彼また名利に走らず、聞達を求めず、積極的美において自得したりといえども、ただその徒とこれを楽しむに止とどまれり。
一年四季のうち春夏は積極にして秋冬は消極なり。蕪村最も夏を好み、夏の句最も多し。その佳句もまた春夏の二季に多し。これすでに人に異なるを見る。今試みに蕪村の句をもって芭蕉の句と対照してもって蕪村がいかに積極的なるかを見ん。
四季のうち夏季は最も積極なり。ゆえに夏季の題目には積極的なるもの多し。牡丹ぼたんは花の最も艶麗なるものなり。芭蕉集中牡丹を詠ずるもの一、二句に過ぎず。その句また
尾張より東武に下る時
牡丹蘂しべ深くわけ出いづる蜂はちの名残なごりかな 芭蕉
桃隣新宅自画自讃
寒からぬ露や牡丹の花の蜜みつ 同
等のごとき、前者はただ季の景物として牡丹を用い、後者は牡丹を詠じてきわめて拙つたなきものなり。蕪村の牡丹を詠ずるはあながち力を用いるにあらず、しかも手に随したがって佳句を成す。句数も二十首の多きに及ぶ。そのうち数首を挙ぐれば
牡丹散って打重なりぬ二三片ぺん
牡丹剪きって気の衰へし夕ゆふべかな
地車のとゞろとひゞく牡丹かな
日光の土にも彫ほれる牡丹かな
不動画ゑがく琢磨たくまが庭の牡丹かな
方ほう百里雨雲よせぬ牡丹かな
金屏きんびゃうのかくやくとして牡丹かな
蟻垤
蟻王宮ぎわうきゅう朱門を開く牡丹かな
波翻舌本吐紅蓮
閻王えんわうの口や牡丹を吐かんとす
その句またまさに牡丹と艶麗を争わんとす。
若葉もまた積極的の題目なり。芭蕉のこれを詠ずるもの一、二句にして
招提寺
若葉して御目の雫しづくぬぐはゞや 芭蕉
日光
あらたふと青葉若葉の日の光 同
のごとき、皆季の景物として応用したるに過ぎず。蕪村には直ちに若葉を詠じたるもの十余句あり。皆若葉の趣味を発揮せり。例、
山にそふて小舟漕ぎ行く若葉かな
蚊帳かやを出て奈良を立ち行く若葉かな
不尽ふじ一つ埋み残して若葉かな
窓の灯ひの梢こずゑに上る若葉かな
絶頂の城たのもしき若葉かな
蛇だを截きって渡る谷間の若葉かな
をちこちに滝の音聞く若葉かな
雲くもの峰みねの句を比較せんに
ひら/\とあぐる扇や雲の峰 芭蕉
雲の峰いくつ崩くづれて月の山 同
游力亭
湖や暑さを惜をしむ雲の峰 同
月山がっさんの句やや力強けれど、なお蕪村のに比すべくもあらず。蕪村の句多からずといえども、
楊州の津も見えそめて雲の峰
雲の峰四沢したくの水の涸かれてより
旅意
二十日路はつかぢの背中に立つや雲の峰
のごとき皆十分の力あるを覚ゆ。五月雨さみだれは芭蕉にも
五月雨の雲吹き落せ大井川 芭蕉
五月雨をあつめて早し最上川もがみがは 同
のごとき雄壮なるものあり。蕪村の句またこれに劣らず。
五月雨の大井越えたるかしこさよ
五月雨や大河たいがを前に家二軒
五月雨の堀たのもしき砦とりでかな
夕立の句は芭蕉になし。蕪村にも二、三句あるのみなれども、雄壮当るべからざるの勢いあり。
夕立や門脇殿かどわきどのの人だまり
夕立や草葉をつかむむら雀すずめ
双林寺独吟千句
夕立や筆も乾かわかず一千言
時鳥ほととぎすの句は芭蕉に多かれど、雄壮なるは
時鳥声横よこたふや水の上 芭蕉
の一句あるのみ。蕪村の句のうちには
時鳥柩ひつぎをつかむ雲間より
時鳥平安城をすぢかひに
鞘さやばしる友切丸ともきりまるや時鳥
など極端にものしたるものあり。
桜の句は蕪村よりも芭蕉に多し。しかも桜のうつくしき趣を詠よみ出でたるは
四方しはうより花吹き入れて鳰にほの海 芭蕉
木このもとに汁も鱠なますも桜かな 同
しばらくは花の上なる月夜かな 同
奈良七重ななへ七堂伽藍しちだうがらん八重桜 同
のごときに過ぎず。蕪村に至りては
阿古久曽あこくそのさしぬき振ふ落花かな
花に舞はで帰るさ憎し白拍子しらびゃうし
花の幕兼好けんかうを覗のぞく女あり
のごとき妖艶ようえんを極めたるものあり。そのほか春月、春水、暮春などいえる春の題を艶なる方に詠み出でたるは蕪村なり。例たとえば
伽羅きゃらくさき人の仮寝や朧月おぼろづき
女をんな倶ぐして内裏拝まん朧月
薬盗む女やはある朧月
河内路かはちぢや東風こち吹き送る巫みこが袖そで
片町にさらさ染そむるや春の風
春水や四条五条の橋の下
梅散るや螺鈿らでんこぼるゝ卓の上
玉人ぎょくじんの座右に開く椿つばきかな
梨なしの花月に書ふみ読む女あり
閉帳の錦垂れたり春の夕
折釘をれくぎに烏帽子ゑぼし掛けたり春の宿
ある人に句を乞はれて
返歌なき青女房よ春の暮
琴心挑美人
妹いもが垣根三味線草さみせんぐさの花咲きぬ
いずれの題目といえども芭蕉または芭蕉派の俳句に比して蕪村の積極的なることは蕪村集を繙ひもとく者誰かこれを知らざらん。一々ここに贅ぜいせず。