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俳人蕪村 ③

2018.12.28 14:54

https://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/47985_41579.html 【俳人蕪村】より

正岡子規

用語

 蕪村の俳句における意匠の美はすでにこれを言えり。意匠の美は文学の根本にして人を感動せしむるの力また多くここにあり。しかれども用語、句法の美これに伴わざらんには、あたら意匠の美を活動せしめざるのみならず、かえってその意匠に一種厭いとうべき俗気を帯びたるがごとく感ぜしむることあり。蕪村の用語と句法とはその意匠を現わすに最も適せるものにして、しかも自己の創体に属するもの多し。その用語の概略を言わんに

(一)漢語 は蕪村の喜んで用いたるものにして、あるいは漢語多きをもって蕪村の唯一の特色と誤認せらるるに至る。この一事がいかに人の注意を惹ひきしかを知るべし。蕪村が漢語を用いたるは種々の便利ありしに因るべけれど、第一に漢語が国語より簡短なりしに因らずんばあらず、複雑なる意匠を十七、八字の中に含めんには簡短なる漢語の必要あり。また簡短なる語を用うれば叙事形容を精細になし得べき利あり。

指南車を胡地に引き去るかすみかな

閣に坐して遠き蛙かはづを聞く夜かな

祇や鑑や髭ひげに落花を捻ひねりけり

鮓桶すしをけをこれへと樹下の床几しゃうぎかな

三井寺や日は午に逼る若楓わかかへで

柚ゆの花や善き酒蔵す塀へいの内

耳目肺腸こゝに玉巻く芭蕉庵

採蓴をうたふ彦根の※(「にんべん+倉」、第4水準2-1-77)夫かな

鬼貫おにつらや新酒の中の貧に処す

月天心貧しき町を通りけり

秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者

雁鳴くや舟に魚焼く琵琶湖上

のごときこの例なり。されども漢語の必要ありとのみにてみだりに漢語を用い、ために一句の調和を欠かば佳句とは言われじ。「胡地」の語のごときあまり耳遠く普通に用いるべきにはあらざるを、「指南車」の語上にあり、「引き去る」という漢文直訳風の語下にあるために一句の調和を得たるなり。「落花」の語は「祇や鑑や」に対して響きよく、「芭蕉庵」という語なくんば「耳目肺腸」とは置く能あたわず。「採蓴さいじゅん」は漢語にあらざれば言うべからず、さりとてこの語ばかりにては国語と調和せず。ゆえにことさらに「※(「にんべん+倉」、第4水準2-1-77)夫さうふ」とは受けたり。

 第二は国語にて言い得ざるにはあらねど、漢語を用いる方よくその意匠を現わすべき場合なり。漢語を用いて勢いを強くしたる句、

五月雨や大河を前に家二軒

夕立や筆も乾かず一千言

時鳥平安城をすぢかひに

絶頂の城たのもしき若葉かな

方百里雨雲よせぬ牡丹かな

「おおかわ」と言えば水勢ぬるく「たいか」と言えば水勢急に感ぜられ、「いただき」と言えば山嶮けわしからず、「ぜっちょう」と言えば山嶮しく感ぜらる。

 漢語を用いていかめしくしたる句

蚊遣かやりしてまゐらす僧の座右かな

売卜先生木この下闇したやみの訪はれ顔

「座右」の語は僧に対する多少の尊敬を表わし、「売卜先生ばいぼくせんせい」と言えば「卜屋算うらやさん」と言いしよりも鹿爪しかつめらしく聞えてよく「訪はれ顔」に響けり。

寂として客の絶間の牡丹かな

蕭条として石に日の入る枯野かな

のごときは「しんとして」「淋しさは」など置きたると大差なけれど、なお漢語の方適切なるべし。

 第三は支那の成語を用うるものにして、こは成語を用いたるがために興あるもの、または成語をそのままならでは用いるべからざるものあり。支那の人名地名を用い、支那の古事風景等を詠ずる場合はもちろん、わが国のことをいう引合いに出されたるも少からず。その句、

行き/\てこゝに行き行く夏野かな

朝霧や杭くひせ打つ音丁々たり

帛を裂く琵琶びはの流れや秋の声

釣り上げし鱸すずきの巨口玉や吐く

三径の十歩に尽きて蓼たでの花

冬籠ふゆごもり燈下に書すと書かれたり

侘禅師わびぜんじから鮭に白頭の吟を彫ゑる

秋風の呉人は知らじふぐと汁

 右三種類のほかに

春水しゅんすゐや四条五条の橋の下

の句は「春の水」ともあるべきを「橋の下」と同調になりて耳ざわりなれば「春水」とは置いたるならん。ただし四条五条という漢音の語なくば「春水」とは言わざりけん。

蚊帳かや釣りて翠微つくらん家の内

 特に翠微すいびというは翠の字を蚊帳の色にかけたるしゃれなり。

薫風やともしたてかねつ厳島いつくしま

「風薫る」とは俳句の普通に用いるところなれどしか言いては「薫る」の意強くなりて句を成しがたし。ただ夏の風というくらいの意に用いるものなれば「薫風」とつづけて一種の風の名となすにしかず。けだし蕪村の烱眼けいがんは早くこれに注意したるものなるべし。

(二)古語 もまた蕪村の好んで用いたるものなり。漢語は延宝えんぽう、天和てんなの間其角一派が濫用してついにその調和を得ず、其角すらこれより後、また用いざりしもの、蕪村に至りてはじめて成功を得たり。古語は元禄時代にありて芭蕉一派が常語との調和を試み十分に成功したるもの、今は蕪村に因ってさらに一歩を進められぬ。

およぐ時よるべなきさまの蛙かな

命婦より牡丹餅たばす彼岸かな

更衣ころもがへ母なん藤原氏なりけり

真しらけのよね一升や鮓のめし

おろしおく笈おひになゐふる夏野かな

夕顔や黄に咲いたるもあるべかり

夜を寒み小冠者臥したり北枕

高燈籠たかどうろ消えなんとするあまたゝび

渡り鳥雲のはたての錦かな

大高に君しろしめせ今年米

 蕪村の用いたる古語には藤原時代のもあらん、北条足利時代のもあらん、あるいは漢書の訳読に用いられたるすなわち漢語化せられたる古語も多からん。いずれにもせよ、今まで俳句界に入らざりし古語を手に従って拈出ねんしゅつしたるは蕪村の力なり。ただ漢語を用い、いたずらに佶屈の句を作り、もって蕪村の真髄を得たりとなすもの、いまだ他の半面を解せざるべし。

(三)俗語 の最俗なるものを用い初めたるもまた蕪村なり。元禄時代に雅語、俗語相半ばせし俳句も、享保以後無学無識の徒に翫弄がんろうせらるるに至って雅語ようやく消滅し俗語ますます用いられ、意匠の野卑と相待って純然たる俗俳句となり了おわれり、されどその俗語も必ずしも好んで俗語を用いしにあらで、雅語を解せざるがため知らず知らず卑近に流れたるもの、ゆえに彼らが用いる俗語は俗語中のなるべく古いにしえに近きを択えらみたりとおぼしく、俗中の俗なる日常の話語に至りてはもとより用いざりしのみならず、彼らなおこれを俗として排斥したり。檀林派の作者といえどもその意匠句法の滑稽突梯とっていなるにかかわらず、またこの俗語中の俗語を用いたるものを見ず。蕉門も檀林も其嵐派きらんはも支麦派も用いるに難かたんじたる極端の俗語を取って平気に俳句中に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入したる蕪村の技倆ぎりょうは実に測るべからざるものあり。しかもその俗語の俗ならずしてかえって活動する、腐草螢ほたると化し淤泥おでい蓮はちすを生ずるの趣あるを見ては誰かその奇術に驚かざらん。

出る杭くひを打たうとしたりや柳かな

酒を煮る家の女房ちょとほれた

絵団扇ゑうちはのそれも清十郎せいじふろにお夏かな

蚊帳の内に螢放してアヽ楽や

杜若かきつばたべたりと鳶とびのたれてける

薬くすり喰くひ隣の亭主箸持参

化さうな傘かす寺の時雨しぐれかな

 後世一茶いっさの俗語を用いたる、あるいはこれらの句より胚胎はいたいし来たれるにはあらざるか。薬喰の句は蕪村集中の最俗なるもの、一読に堪えずといえども、一茶はことにこの辺より悟入したるかの感なきにあらず。けだし一茶の作時ときに名句なきにはあらざるも、全体を通じて言えば句法において蕪村の「酒を煮る」「絵団扇」のごときしまりなく、意匠において「杜若」「時雨」のごとき趣味を欠きたり。蕪村は漢語をも古語をも極端に用いたり。佶屈なりやすき漢語も佶屈ならしめざりき。冗漫なりやすき古語も冗漫ならしめざりき。野卑なりやすき俗語も野卑ならしめざりき。俗語を用いたる一茶のほかは漢語にも古語にも彼は匹敵者を有せざりき。用語の一点においても蕪村は俳句界独歩の人なり。

句法

 句法は言語の接続をいう。俳句の句法は貞享じょうきょう、元禄に定まりて享保、宝暦を経て少しも動かず。むしろ元禄に変化したるだけの変化さえ失い、「何や」「何かな」一天張りのきわめて単調なるものとなり了りて、ただ時に檀林一派及び鬼貫らの奇を弄ろうするあるのみ。この際に当りて蕪村は句法の上に種々工夫を試み、あるいは漢詩的に、あるいは古文的に、古人のいまだかつて作らざりしものを数多あまた造り出せり。

春雨やいざよふ月の海半なかば

春風や堤長うして家遠し

雉きじ打て帰る家路の日は高し

玉川に高野かうやの花や流れ去る

祇や鑑や髭に落花をひねりけり

桜狩美人の腹や減却す

出いづべくとして出ずなりぬ梅の宿

菜の花や月は東に日は西に

裏門の寺に逢著ほうちゃくす蓬よもぎかな

山彦の南はいづち春の暮

月に対す君に投網とあみの水煙

掛香かけかうや唖おしの娘の人となり

鮓を圧おす石上に詩を題すべく

夏山や京尽し飛ぶ鷺さぎ一つ

浅川の西し東す若葉かな

麓ふもとなる我蕎麦存す野分かな

蘭らん夕ゆふべ狐のくれし奇楠きゃらを※(「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40)たかん

漁家寒し酒に頭かしらの雪を焼く

頭巾二つ一つは人に参らせん

我も死して碑にほとりせん枯尾花 (蕉翁碑)

のごときは漢文より来たりし句法なり。蕪村最も多くこの種の句法をなす。

しのゝめや鵜うをのがれたる魚浅し

鮓桶を洗へば浅き遊魚かな

古井戸や蚊に飛ぶ魚の音暗し

 魚浅し、音暗しなどいえる警語を用いたるは漢詩より得たるものならん。従来の国文いまだこの種の工夫なし。

陽炎かげろふや名も知らぬ虫の白き飛ぶ

橋なくて日暮れんとする春の水

罌粟けしの花まがきすべくもあらぬかな

のごときは古文より来たるもの、

春の水背戸せどに田つくらんとぞ思ふ

白蓮びゃくれんを剪きらんとぞ思ふ僧のさま

 この「とぞ思ふ」というは和歌より取り来たりしものなり。そのほか

衣がへ野路の人はつかに白し

蚊の声す忍冬にんどうの花散るたびに

水かれ/″\蓼たでかあらぬか蕎麦か否か

のごときあり。

 元禄以来形容語はきわめて必要なるもののほか俳句には用いられざりき。いたずらに場所塞ふさぎをなすのみにて、ありてもなくても意義に大差なしとの意なりしならん。しかれども形容語は句を活動せしめ印象を明瞭ならしむるにはこれを用いて効多し。蕪村は巧みにこれを用い、ことに中七音のうちに簡単なる形容を用うることに長じたり。

水の粉やあるじかしこき後家の君

尼寺や善き蚊帳垂るゝ宵月夜

柚ゆの花や能酒蔵ざうす塀の内

手燭てしょくして善き蒲団出す夜寒かな

緑子の頭巾眉深きいとほしみ

真結びの足袋はしたなき給仕かな

宿かへて火燵こたつ嬉しき在処ありどころ

 後の形容詞を用いる者、多くは句勢にたるみを生じてかえって一句の病となる。蕪村の簡勁かんけいと適切とに及ばざる遠し。

 蕪村の句は堅くしまりて揺うごかぬがその特色なり。ゆえに無形の語少く有形の語多し。簡勁の語多く冗漫の語少し。しかるに彼に一つの癖へきありてある形容詞に限り長きを厭わず、しばしばこれを句尾に置く。

つゝじ咲さいて石うつしたる嬉しさよ

更衣ころもがへ八瀬やせの里人ゆかしさよ

顔白き子のうれしさよ枕蚊帳まくらがや

五月雨さつきあめ大井越えたるかしこさよ

夏川を越す嬉しさよ手に草履

小鳥来る音嬉しさよ板庇いたびさし

鋸のこぎりの音貧しさよ夜半の冬

のごときこれなり。普通に嬉しと思う時嬉しと言わば俳句は無味になり了らん、まして嬉しさよと長く言わんはなおさらのことなり。嬉しさよといわねば感情を現わす能あたわざる時にのみ用いたる蕪村の句は、もとよりこの語を無造作に置きたるにあらず。さらに驚くべきは蕪村が一句の結尾に「に」という手爾葉てにはを用いたることなり。例えば

帰る雁かり田毎たごとの月の曇る夜に

菜の花や月は東に日は西に

春の夜や宵よひ曙あけぼのの其中に

畑打や鳥さへ鳴かぬ山陰に

時鳥ほととぎす平安城をすぢかひに

蚊の声す忍冬の花散るたびに

広庭の牡丹や天の一方に

庵いほの月あるじを問へば芋掘りに

狐火や髑髏どくろに雨のたまる夜に

 常人をしてこの句法に倣ならわしめば必ずや失敗に終らん、手爾葉の結尾をもって一句を操るもの、蕪村の蕪村たるゆえんなり。

 蕪村は下五文字に何ぶり、何がち、何顔、何心のごとき語を据すうることを好めり。

三椀の雑煮ざふにかふるや長者ぶり

少年の矢数問ひよる念者ぶり

鶯のあちこちとするや小家こいへがち

小豆あづき売る小家の梅の莟つぼみがち

耕すや五石の粟あはのあるじ顔

燕つばくらや水田の風に吹かれ顔

川狩や楼上の人の見知り顔

売卜先生木の下闇の訪はれ顔

行く春やおもたき琵琶びはの抱き心

夕顔の花噛む猫やよそ心

寂寞せきばくと昼間を鮓すしの馴なれ加減

 またこの類の語の中七字に用いられたるもあり。後世の俗俳家何心、何ぶりなどと詠ずる者多くは卑俗厭うべし。

なれすぎた鮓をあるじの遺恨かな

牡丹ある寺行き過ぎし恨うらみかな

葛くずを得て清水に遠き恨かな

「恨かな」というも漢詩より来たりしものならん。

句調

 蕪村以前の俳句は五七五の句切くぎれにて意味も切れたるが多し。たまたま変例と見るべきものもなお

行ゆく春や鳥啼なき魚うをの目は涙  芭蕉

松風の落葉か水の音涼し  同

松杉をほめてや風の薫る音  同

のごときものにして多くは「や」「か」等の切字きれじを含み、しからざるも七音の句必ず四三または三四と切れたるを見る。蕪村の句には

夕風や水青鷺の脛を打つ

鮓を圧す我れ酒醸かもす隣あり

宮城野みやぎのの萩更科さらしなの蕎麦にいづれ

のごとく二五と切れたるあり、

若葉して水白く麦黄ばみたり

柳散り清水涸かれ石ところ/″\

春雨や人住みて煙壁を漏る

のごとく五二または五三と切れたるもあり。これ恐らくは蕪村の創はじめたるもの、暁台ぎょうたい、闌更らんこうによりて盛んに用いられたるにやあらん。

 句調は五七五調のほかに時に長句をなし、時に異調をなす、六七五調は五七五調に次ぎて多く用いられたり。

花を蹈みし草履も見えて朝寐あさねかな

妹が垣根三味線草の花咲きぬ

卯月うづき八日死んで生るゝ子は仏

閑古鳥かんこどりかいさゝか白き鳥飛びぬ

虫のためにそこなはれ落つ柿の花

恋さま/″\願の糸も白きより

月天心貧しき町を通りけり

羽蟻はあり飛ぶや富士の裾野の小家より

七七五調、八七五調、九七五調の句

独鈷どくこ鎌首水かけ論の蛙かな

売卜先生木の下闇の訪はれ顔

花散り月落ちて文こゝにあら有難や

立ち去る事一里眉毛びまうに秋の峰寒し

門前の老婆子薪たきぎ貪むさぼる野分かな

夜桃林を出でゝ暁嵯峨さがの桜人

五八五調、五九五調、五十五調の句

およぐ時よるべなきさまの蛙かな

おもかげもかはらけ/\年の市

秋雨や水底の草を蹈み渉わたる

茯苓ぶくりゃうは伏かくれ松露しょうろはあらはれぬ

侘禅師乾鮭からざけに白頭の吟を彫ゑる

五七六調、五八六調、六七六調、六八六調等にて終六言を

夕立や筆も乾かず一千言

ほうたんやしろかねの猫こかねの蝶

心太ところてんさかしまに銀河三千尺

炭団たどん法師火桶の穴より覗うかがひけり

のごとく置きたるは古来例に乏しからず。終六言を三三調に用いたるは蕪村の創意にやあらん。その例、

嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮れし

一行の雁かりや端山に月を印す

朝顔や手拭の端の藍をかこつ

水かれ/″\蓼たでかあらぬか蕎麦か否か

柳散り清水涸かれ石ところ/″\

我をいとふ隣家寒夜に鍋をならす

霜百里舟中に我月を領す

 そのほか調子のいたく異なりたるものあり。

梅遠近をちこち南すべく北すべく

閑古鳥寺見ゆ麦林寺ばくりんじとやいふ

山人は人なり閑古鳥は鳥なりけり

更衣母なん藤原氏なりけり

 最も奇なるは

をちこちをちこちと打つ砧きぬたかな

の句の字は十六にして調子は五七五調に吟じ得べきがごとき。

文法

 漢語、俗語、雅語のことは前にも言えり。その他動詞、助動詞、形容詞にも蕪村ならでは用いざる語あり。

鮓すしを圧す石上に詩を題すべく

緑子の頭巾眉深まぶかきいとほしみ

大矢数おほやかず弓師親子も参りたる

時鳥歌よむ遊女聞ゆなる

麻刈れと夕日此頃このごろ斜なる

「たり」「なり」と言わずして「たる」「なる」と言うがごとき、「べし」と言わずして「べく」と言うがごとき、「いとほし」と言わずして「いとほしみ」と言うがごとき、蕪村の故意に用いたるものとおぼし。前人の句またこの語を用いたるものなきにあらねど、そは終止言として用いたるが多きように見ゆ。蕪村のはことさらに終止言ならぬ語を用いて余意を永くしたるなるべし。

をさな子の寺なつかしむ銀杏いてふかな

「なつかしむ」という動詞を用いたる例ありや否や知らず。あるいは思う、「なつかし」という形容詞を転じて蕪村の創造したる動詞にはあらざるか。はたしてしかりとすれば蕪村は傍若無人の振舞いをなしたる者と謂うべし。しかれども百年後の今日に至りこの語を襲用するもの続々として出でんか、蕪村の造語はついに字彙じい中の一隅を占むるの時あらんも測りがたし。英雄の事業時にかくのごときものあり。

 蕪村は古文法など知らざりけん、よし知りたりともそれにかかわらざりけん、文法に違たがいたる句

更衣母なん藤原氏なりけり

のごときあり。

我宿にいかに引くべき清水かな

のごとく「いかに」「何」等の係りを「かな」と結びたるは蕪村以外にも多し。

大文字だいもんじ近江あふみの空もたゞならね

の「ね」のごとき例も他になきにあらず、蕪村は終止言としてこれを用いたるか、あるいは前に挙げたる「たる」「なる」のごとく特に言い残したる語なるか。たとい後者なりとも文法学者をして言わしめば文法に違いたりとせん、はたして文法に違えりや、はた韻文の文法も散文のごとくならざるべからざるか、そは大いに研究を要すべき問題なり。余は文法論につきてなお幾多の疑いを存する者なれども、これらの俳句をことごとく文法に違えりとて排斥する説には反対する者なり。まして普通の場合に「ならめ」等の結語を用いる例は万葉にもあるをや。

二本ふたもとの梅に遅速を愛すかな

麓なる我蕎麦存す野分かな

の「愛すかな」「存す野分」の連続のごとき

夏山や京尽し飛ぶ鷺一つ

の「京尽し飛ぶ」の連続のごとき

蘭らん夕ゆふべ狐のくれし奇楠きゃらを※(「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40)たかん

の「蘭夕」の連続のごとき漢文より来たりしものは従来の国語になき句法を用いたり。これらはもとより故意にこの新句法を造りしもの、しかして明治の俳句界に一生面を開きしものまた多くこの辺より出いづ。

材料

 蕪村は狐狸こり怪をなすことを信じたるか、たとい信ぜざるもこの種の談を聞くことを好みしか、彼の自筆の草稿新花摘しんはなつみは怪談を載すること多く、かつ彼の句にも狐狸を詠じたるもの少からず。

公達きんだちに狐きつねばけたり宵の春

飯盗む狐追ふ声や麦の秋

狐火やいづこ河内かはちの麦畠

麦秋むぎあきや狐ののかぬ小百姓

秋の暮仏に化ばける狸たぬきかな

戸を叩たたく狸と秋を惜みけり

石を打狐守もる夜の砧かな

蘭夕狐のくれし奇楠きゃらを※(「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40)たかん

小狐の何にむせけん小萩原

小狐の隠れ顔なる野菊かな

狐火の燃えつくばかり枯尾花

草枯れて狐の飛脚ひきゃく通りけり

水仙に狐遊ぶや宵月夜

 怪異を詠みたるもの、

化ばけさうな傘かさかす寺の時雨しぐれかな

西の京にばけもの栖すみて久しくあれ果はてたる家ありけり今は其さたなくて

春雨や人住みて煙壁を洩もる

 狐狸にはあらで幾何いくばくか怪異の聯想を起すべき動物を詠みたるもの、

獺をその住む水も田に引く早苗かな

獺を打し翁も誘ふ田植かな

河童の恋する宿や夏の月

蝮くちばみの鼾いびきも合歓ねむの葉陰かな

麦秋や鼬いたち啼なくなる長をさがもと

黄昏たそがれや萩に鼬いたちの高台寺

むさゝびの小鳥喰はみ居をる枯野かな

 このほか犬鼠などの句多し。そは怪異というにあらねどかくのごとき動物を好んで材料に用いたるもその特色の一なり。

 州名国名など広き地名を多く用いたり。些細ささいなることなれど蕪村以前にはこの例少かりしにや。

河内路かはちぢや東風こち吹き送る巫女が袖

雉きぎす鳴くや草の武蔵むさしの八平氏

三河なる八橋も近き田植かな

楊州の津も見えそめて雲の峰

夏山や通ひなれたる若狭人わかさびと

狐火やいづこ河内の麦畠

しのゝめや露を近江あふみの麻畠

初汐はつしほや朝日の中に伊豆いづ相模さがみ

大文字だいもじや近江の空もたゞならね

稲妻の一網打つや伊勢の海

紀路きのぢにも下りず夜を行く雁一つ

虫鳴くや河内通ひの小提灯こぢゃうちん

 糞、尿、屁など多く用いたるは其角なり。其角の句はやや奇を求めてことさらにものせしがごとく思わる。蕪村はこれを巧みに用い、これら不浄の物をして殺風景ならしめざるのみならず、幾多の荒寒凄涼なる趣味を含ましむるを得たり。

大だいとこの糞ひりおはす枯野かな

いばりせし蒲団干したり須磨の里

糞一つ鼠のこぼす衾ふすまかな

杜若かきつばたべたりと鳶とびのたれてける

 蕪村はこれら糞尿のごとき材料を取ると同時にまた上流社会のやさしく美しき様をも巧みに詠み出でたり。

春の夜に尊き御所を守もる身かな

春惜む座主ざすの連歌に召されけり

命婦より牡丹餅ぼたもちたばす彼岸かな

滝口に灯を呼ぶ声や春の雨

よき人を宿す小家や朧月

小冠者こくゎじゃ出て花見る人を咎とがめけり

短夜や暇いとま賜はる白拍子

葛水や入江の御所に詣づれば

稲葉殿の御茶たぶ夜なり時鳥

時鳥琥珀こはくの玉を鳴らし行く

狩衣かりぎぬの袖の裏這はふ螢ほたるかな

袖笠に毛虫をしのぶ古御達ふるごたち

名月や秋月どのゝ艤ふなよそひ

 蕪村の句新奇ならざるものなければ新奇をもって論ずれば蕪村句集全部を見るの完全なるにしかず。かつ初めより諸種の例に引きたる句多く新奇なるをもって特にここに拳ぐるの要なしといえども、前に挙げざりし句の中に新奇なる材料を用いし句を少し記しおくべし。

野袴の法師が旅や春の風

陽炎かげろふや簣あじかに土をめつる人

奈良道や当帰畠たうきばたけの花一木ひとき

畑打や法三章の札のもと

巫女町によき衣すます卯月かな

更衣印籠いんろう買ひに所化しょけ二人

床ゆか涼み笠かさ著き連歌の戻りかな

秋立つや白湯さゆ香かんばしき施薬院

秋立つや何に驚く陰陽師おんやうじ

甲賀衆かふがしゅのしのびの賭かけや夜半の秋

いでさらば投壺とうこ参らせん菊の花

易水に根深ねぶか流るゝ寒さかな

飛騨山ひだやまの質屋鎖とざしぬ夜半の冬

乾鮭からざけや帯刀殿たてわきどのの台所

 これらの材料は蕪村以前の句に少きのみならず、蕪村以後もまた用いる能わざりき。

縁語及び譬喩

 蕪村が縁語その他文字上の遊戯を主としたる俳句をつくりしは怪しむべきようなれど、その句の巧妙にして斧鑿ふさくの痕あとを留めず、かつ和歌もしくは檀林、支麦のごとき没趣味の作をなさざるところ、またもってその技倆を窺うかがうに足る。縁語を用いたる句、

春雨や身にふる頭巾づきん著きたりけり

つかみ取て心の闇の螢哉かな

半日の閑を榎えのきや蝉せみの声

出代でかはりや春さめ/″\と古葛籠ふるつづら

近道へ出てうれし野のつゝじかな

愚痴無智のあま酒つくる松が岡

蝸牛ででむしや其その角文字つのもじのにじり書

橘のかはたれ時や古館ふるやかた

橘のかごとがましき袷あはせかな

一八いちはつやしゃが父に似てしゃがの花

夏山や神の名はいさしらにぎて

藻の花やかたわれからの月もすむ

忘るなよ程は雲助時鳥

角文字つのもじのいざ月もよし牛祭

又嘘うそを月夜に釜かまの時雨しぐれ哉かな

葛くずの葉のうらみ顔なる細雨かな

頭巾著て声こもりくの初瀬法師

  晋子三十三回忌辰

擂盆すりぼんのみそみめぐりや寺の霜

 または

  題白川

黒谷の隣は白し蕎麦の花

のごとき固有名詞をもじりたるもあり。または

短夜や八声の鳥は八ツに啼く

茯苓ぶくりゃうは伏しかくれ松露しょうろは露あらはれぬ

  思古人移竹

去来去り移竹移りぬ幾秋ぞ

のごとく文字を重ねかけたるもあり。

 俳句に譬喩ひゆを用いるもの、俗人の好むところにしてその句多く理窟に堕おち趣味を没す。蕪村の句時に譬喩を用いるものありといえども、譬喩奇抜にして多少の雅致を具そなう。また支麦輩の夢寐むびにも知らざるところなり。

独鈷どくこ鎌首水かけ論の蛙かな

苗代の色紙に遊ぶ蛙かな

心太ところてんさかしまに銀河三千尺

夕顔のそれは髑髏どくろか鉢叩はちたたき

蝸牛の住はてし宿やうつせ貝

  金扇に卯花画

白かねの卯花もさくや井出の里

鴛鴦をしどりや国師の沓くつも錦革

あたまから蒲団かぶれば海鼠なまこかな

水仙や鵙もずの草茎花咲きぬ

  ある隠士のもとにて

古庭に茶筌花ちゃせんばな咲く椿かな

  雁宕久しく音づれせざりければ

有と見えて扇の裏絵覚束おぼつかな

  波翻舌本吐紅蓮

閻王えんわうの口や牡丹を吐かんとす

  蟻垤

蟻王宮ぎわうきゅう朱門を開く牡丹かな

浪花の旧国主して諸国の俳士を集めて円山に会筵しける時

萍うきくさを吹き集めてや花筵はなむしろ

  傚素堂

乾鮭や琴に斧をのうつ響あり

時代

 蕪村は享保元年に生まれて天明三年に歿す。六十八の長寿を保ちしかばその間種々の経歴もありしなるべけれど、大体の上より観みれば文学美術の衰えんとする時代に生まれてその盛んならんとする時代に歿せしなり。俳句は享保に至りて芭蕉門の英俊多くは死し、支考、乙由おつゆうらが残喘ざんぜんを保ちてますます俗に堕おつるあるのみ。明和以後枯楊※(「薛/子」、第3水準1-47-55)こようげつを生じてようやく春風に吹かれたる俳句は天明に至りてその盛を極きわむ。俳句界二百年間元禄と天明とを最盛の時期とす。元禄の盛運は芭蕉を中心として成りしもの、蕪村の天明におけるは芭蕉の元禄におけるがごとくならざりしといえども、天明の隆盛を来たせしものその力最も多きにおる。天明の余勢は寛政、文化に及んで漸次に衰え、文政以後また痕迹こんせきを留めず。

 和歌は万葉以来、新古今以来、一時代を経ふるごとに一段の堕落をなしたるもの、真淵まぶち出でわずかにこれを挽回したり。真淵歿せしは蕪村五十四歳の時、ほぼその時を同じゅうしたれば、和歌にして取るべくは蕪村はこれを取るに躊躇ちゅうちょせざりしならん。されど蕪村の句その影響を受けしとも見えざるは、音調に泥なずみて清新なる趣味を欠ける和歌の到底俳句を利するに足らざりしや必せり。

 当時の和文なるものは多く擬古文の類にして見るべきなかりしも、擬古ということはあるいは蕪村をして古語を用い古代の有様を詠ぜしめたる原因となりしかも知らず。しかして蕪村はこの材料を古物語等より取りしと覚ゆ。

 蕪村が最も多く時代の影響を受けしは漢学ことに漢詩なりき。かつ漢学は蕪村が少年の時にむしろ隆盛を極め、徂徠そらい一派は勃興したるなり。蕪村は十分に徂徠の説を利用し、もって腐敗せる俳句に新生命を与えたるを見る。蕪村は徂徠ら修辞派の主張する、文は漢以上、詩は唐以上と言えるがごとき僻説へきせつには同意するものにあらざるべけれど、唐以上の詩をもって粋の粋となしたること疑いあらじ。蕪村が書ける春泥集しゅんでいしゅうの序の中に曰く、

(略)彼も知らず、我も知らず、自然に化して俗を離るるの捷径しょうけいありや、こたえて曰く、詩を語るべし、子もとより詩を能よくす、他に求むべからず、波は疑って敢あえて問う、それ詩と俳諧といささかその致ちを異にす、さるを俳諧を捨てて詩を語れと云う迂遠うえんなるにあらずや、答えて曰く(略)画の俗を去るだにも筆を投じて書を読ましむ、いわんや詩と俳諧と何の遠しとすることあらんや(略)

(略)詩に李杜りとを貴ぶに論なし、なお元白げんぱくを捨てざるがごとくせよ(略)

 これを読まば蕪村が漢詩の趣味を俳句に遷うつししことも、李杜を貴び元白を賤いやしみしことも明瞭ならん。漢書は蕪村の愛読せしところ、その詩を解すること深く、芭蕉がきわめておぼろに杜甫の詩想を認めしとは異なりしなるべし。

 絵画の上よりいうも蕪村は衰運の極に生まれて盛んならんとして歿せしなり。蕪村はみずから画を造りしこと多く、南宗の画家として大雅と並称せらる。天明以後絵画にわかに勃興して美術史に一紀元を与えたることにつきて、蕪村もまた多少の原因をなさざりしにはあらざるも、その影響はきわめて微弱にして、彼が俳句界における関係と同日に論ずべきにあらず。

 天明は狂歌盛んに行われ、黄表紙ようやく勢いを得たる時なり。されど俳句とは直接に関係するところなし。ただこの時代が文学美術全般の勃興を成したるは文運の隆盛を促すべき大勢に駆られたるものにして、その大勢なるものはかえって各種の文学美術が相互に影響したる結果も多かりけん。

 蕪村の交わりし俳人は太祇たいぎ、蓼太りょうた、暁台ぎょうたいらにしてそのうち暁台は蕪村に擬したりとおぼしく、蓼太は時々ひそかに蕪村調を学びしこともあるべしといえども、太祇に至りては蕪村を導きしか、蕪村に導かれしか、今これを判するを得ず。とにかくに蕪村が幾分か太祇に導かれし部分もあり得べきを信ずるなり。しかれども彼が師巴人はじんに受くるところ多からざりしは、成功の晩年にありしを見て知るべし。

履歴性行等

 蕪村は摂津浪花なにわに近き毛馬塘けまづつみの片ほとりに幼時を送りしことその春風馬堤曲しゅんぷうばていきょくに見ゆ。彼は某に与うる書中にこの曲のことを記して

馬堤は毛馬塘なり、すなわち余が故園なり

といえり。やや長じて東都に遊び、巴人の門に入りて俳諧を学ぶ。夜半亭やはんていは師の名を継げるなり。宝暦のころなりけん、京に帰りて俳諧ようやく神に入る。蕪村もと名利を厭いとい聞達を求めず、しかれども俳人として彼が名誉は次第に四方雅客の間に伝称せらるるに至りたり。天明三年十二月二十四日夜歿し、亡骸なきがらは洛東らくとう金福寺に葬る。享年六十八。

 蕪村は総常両毛奥羽など遊歴せしかども紀行なるものを作らず。またその地に関する俳句も多からず。西帰の後丹後におること三年、因って谷口氏を改めて与謝よさとす。彼は讃州に遊びしこともありけん、句集に見えたり。また厳島いつくしまの句あるを見るにこの地の風情ふぜい写し得て最も妙なり、空想の及ぶべきにあらず。蕪村あるいはここにも遊べるか。蕪村は読書を好み和漢の書何くれとなくあさりしも字句の間には眼もとめず、ただ大体の趣味を翫味がんみして満足したりしがごとし。俳句に古語古事を用いること、蕪村集のごとく多きは他にその例を見ず。

 彼が字句にかかわらざりしは古文法を守らず、仮名遣いに注意せざりしことにもしるけれど、なおその他にしか思わるるところ多し。一例を挙ぐれば彼が自筆の新花摘に

射干して※(「口+耳」、第3水準1-14-94)ささやく近江やわたかな

とあり。射干しゃかんは「ひおうぎ」「からすおうぎ」などいえる花草にして、ここは「照射ともしして」の誤なるべし。蕪村が照射と射干との区別を知らざるはずはなけれど、かかることに無頓着の性さがとて気のつかざりしものならん。近江も大身と書くべきにや。秀吉が奥州を「大しゅ」と書きしことさえ思い出されてなつかし、蕪村の磊落らいらくにして法度に拘泥せざりしことこの類なり。彼は俳人が家集を出版することをさえ厭えり。彼の心性高潔にして些さの俗気なきこともって見るべし。しかれども余は磊落高潔なる蕪村を尊敬すると同時に、小心ならざりし、あまり名誉心を抑え過ぎたる蕪村を惜しまずんばあらず。蕪村をして名を文学に揚げ誉を百代に残さんとの些の野心あらしめば、彼の事業はここに止まらざりしや必せり。彼は恐らくは一俳人に満足せざりしならん。春風馬堤曲に溢れたる詩思の富贍ふせんにして情緒の纏綿てんめんせるを見るに、十七字中に屈すべき文学者にはあらざりしなり。彼はその余勢をもって絵事を試みしかども大成するに至らざりき。もし彼をして力を俳画に伸ばさしめば日本画の上に一生面を開き得たるべく、応挙輩をして名をほしいままにせしめざりしものを、彼はそれをも得なさざりき。余は日本の美術文学のために惜しむ。

 春風馬堤曲とは俳句やら漢詩やら何やら交まぜこぜにものしたる蕪村の長篇にして、蕪村を見るにはこよなく便となるものなり。俳句以外に蕪村の文学として見るべきものもこれのみ。蕪村の熱情を現わしたるものもこれのみ。春風馬堤曲とは支那の曲名を真似たるものにて、そのかく名づけしゆえんは蕪村の書簡に詳つまびらかなり。書簡に曰く

一春風馬堤曲(馬堤は毛馬塘なり[#改行]すなわち余が故園なり)

余幼童之時春色清和の日には必ず友どちとこの堤上にのぼりて遊び候水には上下の船あり堤には往来の客ありその中には田舎娘の浪花に奉公してかしこく浪花の時勢粧に倣ならい髪かたちも妓家の風情をまなび○伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ故郷の兄弟を恥じいやしむ者ありされどもさすが故園情こえんのじょうに堪えずたまたま親里に帰省するあだ者なるべし浪花を出てより親里までの道行にて引道具の狂言座元夜半亭と御笑い下さるべく候実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情にて候

代女述意じょにかわってこころをのぶと称する春風馬堤曲十八首に曰く

やぶ入や浪花なにはを出て長柄川ながらがは

春風や堤長うして家遠し

堤下摘芳草ていかはうさうをつむ  荊与棘塞路けいときょくとみちをふさぐ

荊棘何無情けいきょくなんぞつれなきや  裂裙且傷股くんをさきかつこをきずつく

渓流石点々けいりういしてんてん  蹈石撮香芹いしをふんでかうきんをとる

多謝水上石たしゃすすゐじゃうのいし  教儂不沾裙われにくんをうるほさざるををしふるを

一軒の茶店の柳老おいにけり

茶店の老婆子儂われを見て慇懃いんぎんに無恙むやうを賀し且儂わが春衣しゅんいを美ほむ

店中有二客てんちうにかくあり  能解江南語よくかうなんのごをかいす

酒銭擲三緡しゅせんさんびんをなげうち  迎我譲榻去われをむかへたふをゆづりてさる

古駅三両家猫児べうじ妻を呼よぶ妻来らず

呼雛籬外※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)ひなをよぶりぐゎいのとり  籬外草満地りぐゎいくさちにみつ

雛飛欲越籬ひなとびてりをこえんとほっす  籬高随三四りたかうしてしたがふさんし

春草路三叉さんさ中に捷径あり我を迎ふ

たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に三々は白し記得きとくす去年此路よりす

憐しる蒲公たんぽぽ茎短して乳を※(「さんずい+邑」、第3水準1-86-72)うるほす

むかし/\しきりにおもふ慈母の恩慈母の懐抱くゎいはう別に春あり

春あり成長して浪花なにはにあり 梅は白し浪花橋らうくゎけう辺財主の家 春情まなび得たり浪花なには風流ふり

郷を辞し弟に負そむいて身三春さんしゅん 本をわすれ末を取とる接木つぎきの梅

故郷春深し行々ゆきゆきて又行々ゆきゆく 楊柳やうりう長堤ちゃうてい道漸やうやくくれたり

矯首はじめて見る故園の家黄昏くゎうこん戸に倚よる白髪の人弟を抱き我を待まつ春又春

君不見みずや古人太祇が句

藪入やぶいりの寝ぬるやひとりの親の側そば

 なおこのほかに澱河歌よどがわのうた三首あり。これらは紀行的韻文とも見るべく、諸体混淆こんこうせる叙情詩とも見るべし。惜しいかな、蕪村はこれを一篇の長歌となして新体詩の源を開く能わざりき。俳人として第一流に位する蕪村の事業も、これを広く文学界の産物として見れば誠に規模の小なるに驚かずんばあらず。

 蕪村は鬼貫句選の跋ばつにて其角、嵐雪、素堂、去来、鬼貫を五子ごしと称し、春泥集の序にて其角、嵐雪、素堂、鬼貫を四老しろうと称す。中にも蕪村は其角を推したらんと覚ゆ、「其角は俳中の李青蓮と呼ばれたるものなり」といい「読むたびにあかず覚ゆ、これ角がまされるところなり」ともいえり。しかもその欠点を挙げて「その集を閲けみするに大かた解しがたき句のみにてよきと思う句はまれまれなり」といい「百千の句のうちにてめでたしと聞ゆるは二十句にたらず覚ゆ」と評せり。自己が唯一の俳人と崇あがめたる其角の句を評して佳什かじゅう二十首に上らずという、見るべし蕪村の眼中に古人なきを。その五子と称し四老と称す、もとより比較的の讃辞にして、芭蕉の俳句といえどもその一笑を博するに過ぎざりしならん。蕪村の眼高きことかくのごとく、手腕またこれに副そう。而して後に俳壇の革命は成れり。

 ある人咸陽宮かんようきゅうの釘かくしなりとて持てるを蕪村は誹そしりて「なかなかに咸陽宮の釘隠しと云わずばめでたきものなるを無念のことにおぼゆ」といえり。蕪村の俗人ならぬこと知るべし。蕪村かつて大高源吾より伝わる高麗こうらいの茶碗というをもらいたるを、それも咸陽宮の釘隠しの類なりとて人にやりしことあり。またある時松島にて重さ十斤ばかりの埋木の板をもらいて、辛うじて白石の駅に持ち出でしが、長途の労つかれ堪うべくもあらずと、旅舎に置きて帰りたりとぞ。これらの話を取りあつめて考うれば、蕪村の人物はおのずから描き出されて目の前に見る心地す。

 蕪村とは天王寺蕪かぶらの村ということならん、和臭を帯びたる号なれども、字面じづらはさすがに雅致ありて漢語として見られぬにはあらず。俳諧には蕪村または夜半亭の雅名を用うれど、画には寅いん、春星、長庚ちょうこう、三菓、宰鳥、碧雲洞へきうんどう、紫狐庵等種々の異名ありきとぞ。かの謝蕪村、謝寅、謝長庚、謝春星など言える、門弟にも高几董こうきとう、阮道立げんどうりつなどある、この一事にても彼らが徂徠派の影響を受けしこと明らかなり。二字の苗字を一字に縮めたるは言うまでもなく、その字面より見るも修辞派の臭味を帯びたり。

 蕪村の絵画は余かつて見ず、ゆえにこれを品評すること難かたしといえども、その意匠につきては多少これを聞くを得たり。(筆力等の技術はその書及び俳画を見て想像するに足る)蕪村は南宗より入りて南宗を脱せんと工夫せしがごとし。南宗を学びしはその雅致多きを愛せしならん。南宗を脱せんとせしは南宗の粗鬆そしょうなる筆法、狭隘きょうあいなる規模がよく自己の美想を現わすを得ざりしがためならん。彼は俳句に得たると同じ趣味を絵画に現わしたり、もとより古人の粉本ふんぽんを摸もし意匠を剽竊ひょうせつすることをなさざりき。あるいは田舎の風光、山村の景色等自己の実見せしもの(かつ古人の画題に入らざりしもの)を捉え来たりて、支那的空想に耽ふけりたる絵画界に一生面を開かんと企てたり。あるいは時間を写さんとし、あるいは一種の色彩を施さんとして苦心したり。(色彩に関する例を挙ぐれば春の木の芽の色を樹によって染め分けたるがごとき、夜間燈火の映じたる樹を写したるがごとき)絵画における彼の眼光はきわめて高く、到底応挙、呉春らの及ぶところにあらず。しかれども蕪村は成功する能わずして歿し、かえって豎子じゅしをして名を成さしめたり。

 蕪村の画を称する者多く俳画をいう。俳画は蕪村の書きはじめしものにして一種摸すべからざるの雅致を存す。しかれども俳画は字のごときもののみ、ついに画にあらず、画を知らざるものこれをもって画となす、取らざるなり。蕪村の字支那の書風より出でてやや和習あり。縦横自在にして法度にかかわらず、しかも俗気なきこと俳画に同じ。

 蕪村の文章流暢りゅうちょうにして姿致しちあり。水の低きに就つくがごとく停滞するところなし。恨むらくは彼は一篇の文章だも純粋の美文として見るべきものを作らざりき。

 蕪村の俳句は今に残りしもの一千四百余首あり、千首の俳句を残したる俳人は四、五人を出でざるべし。蕪村は比較的多作の方なり。しかれども一生に十七字千句は文学者として珍とするに足らず。放翁は古体今体を混じて千以上の詩篇を作りしにあらずや。ただ驚くべきは蕪村の作が千句ことごとく佳句なることなり。想うに蕪村は誤字違法などは顧みざりしも、俳句を練る上においては小心翼々として一字いやしくもせざりしがごとし、古来文学者のなすところを見るに、多くは玉石混淆こんこうせり、なすところ多ければ巧拙両ふたつながらいよいよ多きを見る。杜工部とこうぶ集のごときこれなり。蕪村の規模は杜甫とほのごとく大ならざりしも、とにかく千首の俳句ことごとく巧みなるに至りては他に例を見ざるところなり。蕪村の天材は咳唾がいだことごとく珠たまを成したるか、蕪村は一種の潔癖ありていやしくも心に満たざる句はこれを口にせざりしか、そもそも悪句は埋没して佳句のみ残りたるか。余は三者皆原因の一部を分有したりと思う。俳句における蕪村の技倆は俳句界を横絶せり、ついに芭蕉、其角の及ぶところにあらず。連句もまた蕪村は蕪村流を応用して面目を新たにせり。しかれども蕪村は芭蕉が連句に力を用いしだけ熱心には力をここに伸ばさざりき。

 蕪村の俳諧を学びし者月居、月渓、召波、几圭きけい、維駒いく等皆師の調を学びしかども、ひとりその堂に上りし者を几董きとうとす、几董は師号を継ぎ三世夜半亭を称となう。惜しむべし、彼れ蕪村歿後数年ならずしてまた歿し、蕪村派の俳諧ここに全く絶ゆ。

明治二十九年草稿

明治三十二年訂正

底本:「日本の文学 15」中央公論社

   1967(昭和42)年6月5日初版発行

   1973(昭和48)年7月30日10版発行

入力:蒋龍

校正:米田

2010年12月28日作成

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