Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

EMET

神の母聖マリア(祭)

2021.12.31 13:26

2022年1月1日  神の母聖マリア(祭) 世界平和の日

福音朗読 ルカによる福音書 2章16~21節

〔そのとき、羊飼いたちは〕急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えた時、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 皆様、新年あけましておめでとうございます。今年もコロナ禍の収まりきらぬ状況下での年明けとなってしまいました。思い返せば、昨年はうなぎのぼりに感染者が増え続け、年明け早々、非常事態宣言に突入する事態でありましたので、そのことに比べれば、大分落ち着いてクリスマスと新年を迎えられたと思います。その理由として、コロナに対する対策が、一年の間に、確実に前進していることも挙げられるのではないかと思います。

 自然の猛威には、依然、太刀打ちできない人間の現実がありますが、自然の営みを思い通りに従わせるのではなく、時にそれを畏れ、時にそれを恵みに変え、実りを頂いていくことが、人間本来の歩み方なのだと思います。もはや世界中に広まってしまったコロナウイルスの撲滅を待つ前に、この状況とどのように向き合い、生活をどう改善していくのかを考えていくべき時が来ているように思います。

 自然環境の激変で、今後も未知のウイルスや、未知の自然災害にさらされ続けることも指摘されています。これらのことを通して、人間の欲望のままに邁進する文明が改められ、この世の限界を受容した上に打ち立てられる、新しい文明を創るよう私たちは招かれています。その歩みを通して初めて私たちは、、コロナ禍の苦しみからさえも、恵みが引き出されたと言えるようになるのでしょう。

 ウィズコロナのただ中で迎えた2022年、人類共通のこの試練を通して、私たちがいま一度、人間の弱さと限界を受け入れ、人間がすべてを手中に収め、思い通りにできるものではないことを認めていくことができますように。その限界の上に働かれる神の望み、神の導きを受け入れていくことができるように、願い求めたいと思います。このような時だからこそ福音を伝える働きが、より一層求められている時代にあると実感しています。

 さて、私たちの救い主、イエス・キリストは、私たちの苦しみや限界に満ちた世の現実のさなかに来て下さり、私たちの全てを共に味わうことを通して救いを現された方です。それは永遠に陰ることのない神の命が、私たちの弱い命をまとって下さった出来事でした。そのことによって、私たちはこの世の命の弱さや、はかなさの中にありながらも、それだけでは終わらない命が約束されていることを知るようになったのです。そして罪や滅びにつきまとわれた私たちの間にも、常に神が共にいて下さるということが示されたのです。

その始まりは、まさに今日お祝いするマリアの体に神の子が迎えられたことによります。本来、肉体を持たず、罪や滅びの苦しみを知らない神が、体を受けるためには、マリアの協力が不可欠でありました。マリアがそのことを受け止めたことによって、イエス・キリストは、神でありながら、全き人として世に現れることができたのです。神の母聖マリアは、そのことを記念する祭日です。

 「マリアが神の母となった」、このことは初期の教会で、多くの議論を経て確立されるようになった信仰理解です。なぜなら神が人となって世に現れたという出来事は歴史上、前代未聞の出来事で、イエスを神の子として信じられた人々によって、時間をかけて理解されていったことだったからです。教会共同体が発展していく中で、他でもない私たちが拠りどころとするイエス・キリストとは、一体どういう方であったのか、その洞察の深まりの中でマリアに関する理解も深まってゆきました。

 ある人たちは、キリストはひときわ卓越した人間であり、神の特別な恵みによって選ばれた、いわば超人であったのだと考えました。その人たちにとって、私たちと全くかけ離れた、無限で全てに満たされた神が、限界のある人となったという出来事は受け入れ難いことでした。また別の人たちは、キリストは正真正銘の神であり、人となったように見られる現実は、見かけだけのことだったと考えました。彼らも神が人となる事実をどうしても受け入れられなかったのです。さらに、神が人となったと考えるにしても、神がイエスという人間の中に内在するようになったと理解した人たちもいました。つまり、神と人間、神格と人格の二つが分離して共存していると考えたのです。このように考えると、イエス・キリストの中で、神の本性のほうは、生まれ、苦しみ、死ぬことはなく、人の本性は、生まれ、苦しみ、滅びゆくという、人間の営みを経験するのだということになります。

 しかし私たちの教会は、長い議論を経て、聖霊の導きによって、以上のような考えを全て排斥するようになりました。すなわち、神の子はマリアの体に宿られてから、神としても、人としても完全な一致を遂げられ、前代未聞の神と人との一致が、イエス・キリストにおいて実現したのだと受け止めるようになったのです。そのことを高らかに宣言したのが「神の母聖マリア」の教義宣言でありました。

 私たちはこの事実により、無限の神と有限の人との決定的な隔たりが、イエス・キリストにおいて取り除かれたことをみることができます。マリアが神の子を受け止めたことにより、神の子が正真正銘の人となり、私たちの滅びゆく肉の現実に、永遠の神の存在を現したのです。それは、その後のイエスの歩みが、人として苦しみを共にし涙されたのと同時に、神としても苦しみ、しかしそれだけでは終わらない神のいのちを指し示して下さったことに証しされています。

 イエスの究極の救いである十字架の死と復活は、人間として極限の苦しみを味わわれたのと同時に、神としてこの世の闇の深みにまで降り、そのただ中に永遠の光を現して下さったのだと理解することで、初めて完全な救いとなるものです。そのことによって私たちは、この世の滅びゆく現実にありながらも、同時に永遠のいのちを受け止め希望していくことが可能となるのです。このように「神の母聖マリア」は、マリア個人のことよりもイエスの救いについて指し示すものであり、それはすなわち、私たちの救いの核心的な事柄を表わしているのです。

 今日の福音箇所は、イエスの誕生に際して、真っ先に起こった出来事を記している箇所です。マリアの体を通して、イエス・キリストがお生まれになったことにより、全ての救いが始まっていくのです。ひっそりと馬小屋の飼い葉おけに寝かせられたイエスと、見守るマリアとヨセフの前に最初に現れたのは、羊飼いたちでした。屋外での不安定な生活を強いられ、貧しく差別されていた羊飼いたちに、真っ先に救い主の誕生が知らされました。それには、神の救いが、このような人々にこそ優先的にもたらされることが表わされています。

 今日の箇所の「飼い葉おけ」という言葉にも心引かれるものがあります。イエスの誕生に際して、ルカは3回も「飼い葉桶に」という言葉を挿入しており、強調していることが分かります。イエスは赤ちゃんの柔らかい肌にはふさわしくない、荒削りの飼い葉の上に寝かせられたのです。それは貧しいマリアとヨセフがことごとく宿屋から拒絶された末に与えられた場所であり、そこにはイエスの誕生がこの世から冷たく拒絶されたことが浮き彫りにされています。また家畜の食物入れである飼い葉桶に寝かせられたという点には、イエスが人々に食べられる者として、人々の救いのために自らを捧げる者として来られたことが暗示されています。

 そのように、神の子が世に来られた出来事は、その栄光にふさわしいあり方とは全く真逆のところにもたらされました。マリアが神の母となった出来事は、何よりの光栄でありながら、この世においては何の栄誉ももたらさず、むしろ苦しみに満ちた現実の始まりとなったのです。しかし、マリアはこれらの現実を全て心に納めて受け止め、また羊飼いたちは見聞きしたことがすべて天使の通りだったと、神をあがめ、賛美することができたのです。

 神の母聖マリアは、このように人間マリアが神の子を宿し、比類なき仕方で神の救いがもたらされたことを記念する祭日です。それは誕生に際してのことのみならず、その後のイエスの歩みを決定づけるものでもありました。

私たちも神の母聖マリアの祭日に当たり、神の子が世に来られ、苦しむ私たちのただ中に来て下さった意味を、また、そのことを全て受け止め、救い主のみわざに協力し続けたマリアの信仰の歩みを、いま一度、思い巡らしていくことができますように。そのことによって、私たちの信仰の歩みが照らされていきますように、願い求めたいと思います。

 (by, F.T.O)