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主の公現(祭)

2021.12.31 21:00

2022年1月2日  主の公現(祭)

福音朗読 マタイによる福音書 2章1~12節

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 今日、私たちは降誕されたばかりのイエス・キリストを通して、神の栄光がすべての人に現わされた、主の公現の祭日をお祝いしています。ベツレヘムで慎ましやかな夫婦のもとに生まれた幼子が、救い主であるということは、信仰によってのみ受け入れることができる真理です。その真理を受け入れ、幼子に神の栄光を見て、その方を最初に礼拝した東方の博士たちの模範から、キリストを信じる者としての在り方を学んでまいりましょう。

 東方の空に輝いた「星」を見た博士たちは、自分たちの国を出て幼子を拝むためにエルサレムまでやってきました。星の輝きを神の招きとして受け止め、それに応えて自分の場所から知らない場所へ、しかも暗い夜道の中を歩み出した博士たちは、信じる者のあるべき姿を示していると言えるでしょう。しかし、博士たちは、旅の途中でその星を見失ってしまい、そこで彼らは王宮を訪れてヘロデに「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねました。それは「王として生まれた方は、王宮に居るはず」という人間的な判断に他なりません。このように道を見失うことも含めて、博士たちは、信仰の歩みがどのようなものかを指し示しています。そこに、私たち自身が道から逸れてしまった経験を、重ねることができるでしょう。

 もう一方の主要な登場人物であるヘロデは、博士たちの言葉を聞いて不安を抱きました。本来そこで告げられたことは、喜ばしい知らせであるにも関わらず、自分の地位や権力の維持を何よりも優先するヘロデは、無力な赤子ですら脅威と受け止め、その殺害を企みました。そのため彼は、博士たちをひそかに呼び寄せ、私も行って拝むなどと心にもないことを述べたのですが、王の地位にありながら人前で堂々と真実を語ることができないというのは、なんとも皮肉なことです。それは真実に対して心を閉ざし、策謀をめぐらした代償でしょう。

 さらにヘロデが、博士たちをベツレヘムに送り出す一方で、自分は王宮にとどまり続けるということも意味深長です。ヘロデのように現状維持が行動原理になると、変化の兆しを恐れてそれを握りつぶそうとはしても、自分からは動かないという生き方に陥っていくのでしょう。それはヘロデとともに不安を抱いたと言われているエルサレムの人々も同様です。支配する側とされる側とで立場こそ異なりますが、変化を恐れて自分の場所にとどまり続ける結果、よい知らせと出会えないという点で両者は共通しています。彼らの態度は、幼子と出会うために旅に出た博士たちの信仰からは、ほど遠いものです。

 それにも関わらず、ヘロデの発言は、彼自身の意図とは裏腹に、幼子がどんな方かを示しています。つまり、ヘロデは「メシアはどこに生まれることになっているのか」と祭司長や律法学者に問いただすことで、福音書の冒頭の言葉と同じように、イエスがメシアであると図らずも言い当てているのです。またそれに答える祭司長や律法学者たちも、預言者の言葉を引用することによって(cf.ミカ5・1)、イエスがイスラエルの指導者、牧者であることを、結果として明らかにしていると言えるでしょう。

 これとは対照的に、異邦人である博士たちの行いは、そのままイエスが救い主であるという真理を指し示すものになっています。彼らは神の導きに従うことを望み、途中で見失った星を再び見出して喜びに溢れ、ついには幼子イエスとの出会いを果たしました。そして、ひれ伏して幼子を礼拝し、宝物を献げたことは、彼らがイエスをイスラエルの王だと認めたことをはっきりと表しています。しかも彼らは、王宮にではなく慎ましい家族の中にいる幼子に対して、そのようにしたのです。これは、信仰の賜物と言えるでしょう。

 このとき、彼らが献げた黄金、乳香、没薬という宝物は、旧約聖書のいくつかの場面を思い起こさせるものです。まず、出エジプト記30章では、儀式のための香をたく祭壇について定められています(cf. 出30・1-10)。つまり、祈りや礼拝を連想させる香料が捧げられたことによって、イエスは礼拝されるべき方としてのキリストであると、暗示されているのでしょう。

 また列王記下10章では、シェバの女王がソロモン王の知恵に感嘆し、黄金と香料を捧げたことが描かれていますし、同様に、イザヤ書60章は次のように述べて、黄金と乳香が、終わりの日に異邦人によって主に捧げられることを預言しています。

らくだの大群
ミディアンとエファの若いらくだが
あなたのもとに押し寄せる。

シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。

こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。(イザ60・6)

 さらに詩編45は、とこしえに神の祝福を受ける方に、神が油を注がれたこと、その王座が世々限りなく続くこと、その衣がミルラ(没薬)の香りを放つことを歌い上げ、「諸国の民は世々限りなくあなたに感謝をささげるであろう」(詩45・18)と結んでいます。その没薬とは、香料として用いられるだけでなく、防腐剤として死者の埋葬のためにも用いられましたから、死を暗示するものでもあります。ですから、これらの献げ物によって、まずイエスが王であり救い主であることはもちろん、その王であるキリストが、すべての人の救いのために死んでくださる方であることが、幼子の時代にすでに暗示されているのです。

 以上のように、ヘロデをはじめエルサレムにとどまった人々と、博士たちの姿は実に対照的でしたが、それにも関わらず、この場面の登場人物たちは皆、お生まれになった幼子が救い主であることを何らかの形で明らかにしていました。神の計画は、それに協力する人はもちろん、それに協力しない人や敵対する人を通してさえ、実現していくのです。神の御旨の実現を妨げることができる人など、誰もいないからです。

 しかし、言うまでもなく、その計画に相応しく与ったのは、博士たちだけでした。祭司長たちと律法学者たちは、預言の言葉を通してメシアがどこに生まれることになっているのかを知っていましたが、それが実現する場面に出向くことはありませんでした。知っていたということが、単なる知識のレベルにとどまっていたのでしょう。ヘロデは王として権力を握っていましたが、その地位を失いたくないという不安の中に常にとどまり、自分自身の嘘と策略により、真理から遠ざかっていました。

 一方、博士たちは彼ら自身も知識人でしたが、その知識を神に導かれるために用い、星を頼りに旅に出ました。一度はその星を見失い、ヘロデの企みに巻き込まれそうになったものの、再び星を見出して、喜びに溢れました。そして、ついにはイエスと出会い、その幼子が救い主であるという真理の前にひれ伏し、彼を礼拝して宝物を献げたのです。彼らは、諸国の民を代表して、主の公現を体験してくれたのです。その体験を通して救い主の栄光に照らされた彼らは、もはやそれ以前の彼らと同じではありません。彼らは故郷に帰って行きましたが、神のお告げに従って、前とは別の道を進んだのです。その体験を経た彼らは、帰国後も主との出会いによって新たにされた日常生活を過ごしたに違いありません。

 私たちもこの博士たちの姿に倣いたいものです。私たちはつい、不安の中で現状維持や問題の先送りに走ってしまいがちです。しかし、このコロナの流行が始まってからというもの、私たちはその現状自体が実に不安定なものであることを、思い知らされています。ですから私たちは、たとえ先行きが不透明であっても、信仰が促す方向へと、歩みを進めていかなければなりません。勇気をもって闇夜に旅に出ることなしに、幼子と出会うことはできないからです。それはもちろん簡単なことではありませんが、そこにとどまるなら、真理は見出されません。むしろ、星は暗い夜空にこそ輝いています。神以外のものに心を向けてしまいがちな私たちが、時折、星を見失うことはあるにしても、神が私たちを見放すことは決してありません。

 その信頼のうちに生きるとき、私たちは幼子が救い主であるという真理に深く与ります。さらにその真理は、新たに生まれた幼子の命が、すべての人の救いのために十字架上で献げられることに、私たちの心を向かわせます。私たちが闇の中へと歩みだし、死という最も深い闇を打ち砕くために地上に来てくださった幼子と出会い、その方を救い主として礼拝し、神の計画の実現に協力する者となることができるよう、この一年、神の導きを祈り求めましょう。

(by F.N.K.)