初代 神武天皇 4.五瀬命の最期
そういえば、昨日、終業間際の時間帯の社内で、たまたま数人の女子社員がこんな話をしてました。
「聖徳太子とか大化の改新とか、自分たちが習った歴史がどんどん変わっていっているのよねー」
って...??
うーん、筆者のよくないところは、そういう話についつい口出してしまうこと...
「大化の改新はなくなっていませんよ??」
「え?? 社長、そうなのですか??」
「ただ、わたくしたちが習っていたのは、乙巳の変というクーデターを大化の改新と呼んでいただけで... ほら、あなたの中では蘇我入鹿の暗殺を大化の改新だと思っているのでしょう?」
「はい、そう習いましたよ」
「それはそもそも645年の乙巳の変で、大化の改新はその後、孝徳天皇によって発布された改新の詔に基づく政治的改革で、その詔が646年に出されたのですね。その全般を大化の改新と呼んでいます。」
「あ、そういうことなんですね??」
ちょっと、合間。この間にその女性社員は別の女性社員と会話して...
「では、聖徳太子が歴史の教科書からいなくなったのはなぜでしょうか??」
あー、またまた、そんな質問されたら、このまま何時間も話まくってしまうって...
「そこは難しいのですが... 厩戸王というひとはいましたね。用明天皇の第二皇子です」
「あ、そうですよね。イエスのように厩で誕生したので、そういうお名前だったんですよね??」
...そういうことは、よく覚えているのですね、びっくり??
「とても、簡単にいうと、聖徳太子というのは後々のおくり名なんですね。だから、その当時、そういうかたはいなかった、あるいは、いたかどうかがはっきりしない。だから歴史の教科書からは表記がなくなったのでしょうね??」
「あ、なるほど、わかりやすいですね~....
でも、そうすると、十七条の憲法とか冠位十二階は、誰が作ったのでしょうかねぇ... あ!遣隋使の派遣とか、そうそう法隆寺は!!!??」
「うーん、そのあたりは色々説がありますが、歴史はそういう新しい解明が大事なんでしょうね...」
そんな感じになったところで、皆、終業時間を過ぎていることに気がつき、誰となく帰り支度をはじめながら、話題は、「TAKAHIROと武井咲」になっていき開放された(自分から話に入っていったのだった...笑)。
いま、古事記を分析していますが、実際、推古天皇までの歴史がどこまで正しいかというと、それは簡単に語れるものではないでしょう。
そうでした。
わたくしの課題は「神武東征」でした。
つづきです... (前回)
(現代語訳)
登美毘古(トミビコ=ナガスネヒコ)と戦ったとき、
五瀬命(イツセ命)は手に登美毘古の痛矢串(イタヤグシ=矢を受けた傷)を負いました。
傷を受けたとき、五瀬命(イツセ命)は言いました。
「わたしは日の神の皇子なのに
日に向かって戦ってしまった。
これは良くなかった。
だから、卑しい奴に痛手を負わされた。
これからは回り道をして、太陽を背にして戦おう」
と誓い、南から回って血沼海に到着して
その手の血を洗いました。
それで「血沼海(チヌノウミ)」と呼ぶようになりました。
※古事記にはいくつかもの名場面、そして名セリフがありますが、この五瀬命のセリフも、その中のひとつです。
「吾者爲日神之御子 向日而戰不良」
「日の神の子」。
つまり、アマテラスさまの子孫であることを強調しています。
ちなみに、イツセという名前は古事記伝では「厳稲(イツシネ)」とされ、食料・穀物に関わる神とされます。
しかし「東征」なのですから、東に向かう、つまり太陽に向かっていくのはいたしかたないところですね。
そこで、南周りを考える訳ですが...
ここは疑問と課題が残りますが、その解説は別のところで、話を先に進めます。
(現代語訳)
その地(地沼海)ら更に回って、紀伊国の男乃水門(オノミナト)に着いて言いました。
「卑しい奴によって、手に傷を負って、死ねるか!」
と雄雄しく振舞いましたが、
死んでしまいました。
その水門(ミナト=港)を名づけて男乃水門(オノミナト)というようになりました。
イツセ命の墓は紀伊の国の竈山(カマヤマ)にあります。
※「紀国」とは、紀伊の国のことです。
「オノミナト」は、死んだ時に雄叫びをあげたことが名前の由来とされます。
伝承では、現在の天神の森(大阪府泉南市)、或いは、水門吹上神社(和歌山市小野町)ではないかと言われていますが、に比定される。一方で、特定の場所ではないというのが通説です。
「血沼海」は つまり血を洗い流した場所ですが、日本書紀では「茅淳」と書かれるので、茅萱が生えていた場所ではないかとも言われています。
「竈山」現在の竈山神社(かまやまじんじゃ、釜山神社)は、和歌山県和歌山市和田にある神社で、彦五瀬命(ひこいつせのみこと=イツセ)が主祭神です。
「神武東征」に関して、学術的には色々説がありますが、ここにイツセさまをお祀りした神社があるということは大事な点だと考えています。
創建年は不明ですが、イツセさまが葬られたことをその始まりとしており、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では紀伊国名草郡に「竈山神社」と記載され式内社に列していることから、この時代には既にあったということです。
イワレビコは大事な長兄を失ってしまいました。
このあとはどうなるのでしょうか...
つづく...