ZIPANG TOKIO 2020 「日本で一番小さい 美術館 錦江山無量寺 、別名『 芦雪寺』 日本の宝 『長沢芦雪・丸山応挙』本土最南端の地 南紀串本で見る!」
錦江山無量寺は、本土最南端の地である和歌山県東牟婁郡串本町に在る、虎関禅師の開山による臨済宗東福寺派の別格寺院である。
門前には大きなフェニックスの樹とともに配置した上甲平谷筆の石彫の寺標、松村外次郎作の憩像。
境内には、酒井良作の石彫を配置しています。写真右の建物は座禅室(特別展示室)。
天明6年(1786年)、文保愚海和尚により現在地に再建された無量寺本堂。
元あった方丈へ収められた、デジタル再製画の応挙・芦雪筆の襖絵が見られます。
本堂前にある観音堂。
新しく建設された納骨堂、慈光院。
1961年、この地に宿縁のある方々をはじめ、町ぐるみの協力により、無量寺境内の一角に建設された「串本応挙芦雪館」。
1990年に設立された収蔵庫。応挙・芦雪の作品を手厚く保管しています。
錦江山無量寺は、本土最南端の地である和歌山県東牟婁郡串本町に在る、虎関禅師の開山による臨済宗東福寺派の別格寺院です。
もともとは、現在地から少し離れた袋という小さな入り江の地区にあり、その地形故にたびたび津波の被害にあいましたが、宝永4年(1707年)10月の宝永地震による大津波で全壊・流失してしまいました。その後、流出した無量寺の再建の使命を帯びた臨済宗白隠下の禅僧、文保愚海和尚が入院(じゅいん)し、大津波より79年後の天明6年(1786)、辛苦の末、現在の位置に本堂再建の業を果たされました。
愚海和尚は京都の本山東福寺に留錫中、若き画家円山応挙と親交あり、『紀伊国名所図会』において、「蓋し愚海若かりし頃芦雪の師円山応挙と親交あり、或る日応挙和尚に向いひて曰へるやう、師若し他日一寺を建立するあらば、余は必ず寺のために揮毫を惜まざるべし」との約束を交わしていました。そして、ついに約束を果たす頃がきたのです。その約束をもとに、無量寺再建成就の際、愚海は本堂の襖絵の依頼のため応挙を訪ねます。応挙は祝いに障壁画12面を描きましたが、多忙な上に年齢的なこともあったため、弟子芦雪に障壁画を託し、名代として京から南紀に向かわせました。
派遣された芦雪は、自らも本堂のために襖絵を描き数々の力作を残します。師の応挙や寒い京から遠く離れ、雄大な自然を有する温暖な串本で芦雪はまるで解き放たれたように一気にその才能を開花させました。激変した新たなる画風からは、時には応挙さえも越えんとする才能が溢れ出、当院所蔵である芦雪の代表作でもある『虎図』『龍図』など多くの逸作からその奇才の様が伺えます。約十ヶ月間の南紀滞在中に270点余りもの絵を描き、この頃は芦雪の人生の絶頂の期とも云われています。
その後、襖絵は永きにわたり歴代の住職・地域の人々の弛まぬ努力と熱意によって自然災害や時には戦火の中を大切に守られてきました。しかし無常故に、経年とともにだんだんと破損が目立ってき、その現状を憂えた串本町の有志やこの地に宿縁のある方々をはじめ、町ぐるみの協力により、昭和36年(1961年)、無量寺境内の一角に「串本応挙芦雪館」が開館しました。それは実に、"寺に伝わる宝物を大切にする!”という単純素朴な発想から、町中の人々が自分たちのために一致してつくりあげた現代では珍しい精神共同体的産物であり美術館建設のケースでも異例でした。
そして1979年、応挙・芦雪の襖絵55面は国の重要文化財の指定を受けることになり、1990年には美術館設立に続き、国・県・町の補助を得て収蔵庫を建設され、よりよい状態の中で手厚い保護が可能となりました。
しかし、無量寺・町の人々の希いはそれだけにとどまらず、明治時代に襖絵が取り外されてから100年余、かねがね寺本来の姿をよみがえらせたいと思いを募らせており、「串本応挙芦雪館」開館50周年を機に、かつては想像にもよらなかったデジタル再製画を制作し、無量寺にゆかりある方々、町ぐるみの協力のもと、元あった方丈へ収める事業をはじめました。約2年の制作期間を経て、2009年10月、正に時代の変化と進化の中、生み出された優れた最新の技術を持って、感嘆と賞賛の声とともに方丈に襖絵をよみがえらせることができました。
これら数多くの所以があり、町ぐるみの寺として、常に向上心を持つ地元の人々を中心に守り続けられている無量寺は、別名「芦雪寺」と呼ばれ、単に「寺宝」「地元の宝」としてのみならず、他府県、国内外の多くの方々に知られ親しまれている。
串本応挙芦雪館
串本応挙芦雪館は、本土最南端の地、串本無量寺の境内に在ります。 「寺に伝わる宝物を大切にする」という単純素朴な発想から、地域の人々の全面的協力により日本で一番小さい美術館として誕生しました。昭和36年11月の開館であります。現代では珍しい精神共同体的所産であり美術館建設のケースとしては異例に属する。
一つの冒険ではありましたが現代彫刻の収集をはかり、墨画と対比する新しい展示空間を設定し好評を呼んでいる。この小美術館は伝統的文化にかかわるだけでなく、あたらしい現代の文化的状況にも深くかかわって存在すべきであると希っている。
館の特色・所蔵品など
収蔵作品の中心となるものは、重要文化財「方丈障壁画」(円山応挙筆、山水画・波上群仙図、長沢芦雪筆、龍虎図・唐子遊図・群鶴図)墨画襖絵55面であり、もと無量寺本堂にあったと同じ配置に復元し、畳の上に坐った視点でみられるように配慮されている。
次に無量寺の什宝として伝来されてきた明兆を始めとする山雪・探幽・松徳・等的・木庵・宗精・柏巌・白隠・若沖などの近世絵画・墨蹟96点。
開館後の収集による熊谷守一・落合朗風・上甲平谷や,独人クルト・ブラッシュが絶賛する異色の水墨画家広瀬楚庵(遺族より遺作の一括寄託の申し出がある)などの現代絵画・書作品に加えて松村外次郎(二紀会)堀義雄(二紀)酒井良(新制作)の多様な現代彫刻作品(木彫・ブロンズ・石彫・乾漆)61点がある。
収蔵品
本堂・襖絵・壁画
人物
寒山拾得図
豊干寒拾図・花鳥図
長沢芦雪作品
長沢芦雪筆:紙本墨画「虎図」襖6面/天明6年(1786)/重要文化財
長沢芦雪筆:紙本墨画「龍図」襖6面/天明6年(1786)/重要文化財
長沢芦雪筆:紙本淡彩「猿図」/年号不明
長沢芦雪筆:紙本淡彩「薔薇図」襖8面/天明6年(1786)/重要文化財
長沢芦雪筆:紙本墨画「群鶴図」襖6面、壁貼付2面/天明6年(1786)/重要文化財
長沢芦雪筆:絹本着色「牡丹雀図」掛軸/天明6〜7年(1786〜1787)/県指定文化財
長沢芦雪筆:紙本淡彩「唐子遊図」襖8面/天明6年(1786)/重要文化財
長沢芦雪一覧
長沢芦雪について
江戸時代中期に活躍した絵師であり、円山応挙の高弟。
1754年(宝暦4年)京都・篠山に丹波篠山青山下野守家臣、上杉彦右衛門の子として生まれました。 応挙のもとにいつ頃入門したかは定かではありませんが、数多き応挙の子弟の多くは町人である中、武士の芦雪は異色の弟子でした。 師応挙の高度な作風を完璧に身につける卓越した描写力に加え、奇抜な着想と大胆な構図、奔放で独特な画風を創出した芦雪は「奇想の画家」ともいわれています。また、画風と同じくその性格は、酒好きで奔放、快活である一方、傲慢な面があったと伝えられています。それ故か、同時期に同じ京都で活躍した高名な絵師と較べその履歴は少なく不明瞭の中、芦雪については「破門説」をはじめ、さまざまな巷説や逸話、噂、憶測で彩られています。絵画のみならず人物そのものにおいても人を魅了する「奇才」といわれる力が備わっていたのだと思われます。
一般には応挙に入門してから長沢芦雪と名乗られたようです。この芦雪という号は、「芦花両岸の雪、煙水一江の秋」という芦も雪も白一色という意味合いである禅語からとった考えられています。芦雪と号してからは「魚」印を用いており、氷型の枠に入った「魚」字大印は芦雪のシンボルマークともいえる代表的な印章です。この印章についてはこのような説があります。応挙の元、修業中のある冬の朝、芦雪は寒さで張られた氷の中に閉じ込められている魚を見かけます。その帰り道、氷が溶け先の魚が自由に泳いでいる姿に目を奪われます。その話を応挙にしたところ、「苦しい修業時代も段々と氷が溶けるが如く画の自由を得るものである。」と諭されて以来、この印章を生涯使い続けたといわれています。この印は、芦雪40歳を迎える頃の作品からは右肩部分を欠失していますが、果たして自由を得たとの意味合いがあるのでしょうか。
芦雪は、29歳の頃、天明2年(1782年)版「平安人物誌」画家部に名を載せ、絵師として名を成し始めます。また、この頃より多くの禅僧との交際が始まったと考えられます。
1786年(天明6年)、応挙と古く親交のあった愚海和尚が、若き頃に応挙と交わした「蓋し愚海若かりし頃芦雪の師円山応挙と親交あり、或る日応挙和尚に向いひて曰へるやう、師若し他日一寺を建立するあらば、余は必ず寺のために揮毫を惜まざるべし」との約束をもとに無量寺再建成就の際、本堂の襖絵の依頼のため応挙を訪ねます。応挙は祝いに『波上群仙図』や『山水図』等、障壁画12面を描きましたが、多忙な上に年齢的なこともあったため、弟子芦雪に障壁画を託し、名代として京から南紀に向かわせます。それは芦雪33歳の頃、兄弟子たちを飛び越えた異例の抜擢でもありました。
愚海和尚に同道し南紀に下った芦雪は、自らも本堂のために襖絵を描き数々の力作を残します。師の応挙や寒い京から遠く離れ、雄大な自然を有する温暖な串本で芦雪はまるで解き放たれたように一気にその才能を開花させました。激変した新たなる画風からは、時には応挙さえも越えんとする才能が溢れ出、当院所蔵である芦雪の代表作でもある『虎図』『龍図』など多くの逸作からその奇才の様が伺えます。 無量寺滞在中も酒好きで奔放な芦雪は、襖絵にとりかかることなく随分と酒を楽しんでいたかと思うと、一気に筆を走らせ大作を描いたという奇才ぶりが伝えられています。約十ヶ月間の南紀滞在中に270点余りもの絵を描き、この頃は芦雪の人生の絶頂の期とも云われ、無量寺の他に、古座の成就寺、富田の草堂寺、田辺の高山寺、他個人のために数多く作品を残している。
芦雪の画風は概して快活で明るいのが特徴ですが、晩年の頃からは時折、『山姥』のような作品からも見受けられる陰惨なグロテスクへの傾倒が印象付けられており、晩年期においての芦雪の心境の変化についてさまざまな憶測が拡げられています。
1799年(寛政11年)、芦雪46歳で大阪において客死します。一説には周囲の嫉妬や憎しみによる毒殺であったとも、自殺であったともいわれる芦雪の死は謎に包まれ、死についてまでも異常であったと逸話が残されている。
丸山応挙作品
円山応挙筆:紙本金地着色「群鶴図」小襖(天袋)4面/天明6年(1786)/重要文化財
円山応挙筆:紙本墨画「山水図」壁画4面/天明6年(1786)/重要文化財
円山応挙筆:紙本墨画「波上群仙図」襖6面、壁画2面/天明6年(1786)/重要文化財
円山応挙筆:絹本淡彩「出山釈迦図」掛軸/天明元年(1781)/県指定文化財
円山応挙筆:紙本淡彩「豊干寒拾図・花鳥図」三幅対/天明元年(1781)
円山応挙筆:絹本着色「雪中山水図」/寛政5年(1793)
円山応挙作:朱漆塗金蒔絵「無量寺再建祝盃」/天明6年(1786)
円山応挙について
円山 応挙は、江戸時代中期に活躍した代表的な絵師で円山派の祖であり、同時に近代日本画の祖、写生画の祖ともいわれる存在である。
1733年(享保18年)、丹波国桑田郡穴太村(現京都府亀岡市)の農家の次男として生まれ、幼年から地元の寺、金剛寺に預けられ小僧として生活をしていました。その頃から絵を好んだといわれている。同寺の住職が亡き後、応挙15歳で上洛し玩具商「尾張屋」に奉公します。尾張屋での仕事の内容は人形制作や彩色、眼鏡絵などを描くことであり、この頃に多く技術を身につけ、後に絵師として確立するに基点となる要因になりました。応挙の画才を見いだした尾張屋の中島勘兵衛の計らいにより、1749年、応挙17歳の頃から狩野派の絵師、石田幽汀に入門し狩野派様式や花鳥画などを学びます。また、当時流行した眼鏡絵の制作に携わったことにより、西欧の遠近法の基礎を身につけたともいわれています。その後自然の写生に専念し、従来の日本画にはなかった遠近法などを取り入れた写生画を創出していく。応挙は常に写生帖を携え、対象への観察として暇さえあれば余念なくスケッチを行っていたようで、画帖には多くの植物、蝶や昆虫などが残されている。
1765年に手がけた『雪松図』で応挙独自の写生画様式を確立させ、翌1766年から『応挙』と改名。 同時期に円満院門主祐常との関係がはじまり、寵恩を得ながら絵師として技術をさらに昇華させ次々と作品を手がけていき、その卓越した画風はさまざまな階層の人々より傑出した人気を博しました。
1786年(天明6年)54歳の時、兼ねてより親交のあった愚海和尚が入院した串本無量寺の再建成就の祝いに『波上群仙図』や『山水図』等障壁画12面を描き、弟子芦雪を名代として京から南紀に向かわせました。
その後も、絵師として多大な成功を収め、寛政7年63歳で没するまで精力的に障壁画や屏風等の大画面作品を描き続けました。
絵 画
墨跡
その他
応挙芦雪館展示室
5室にわかれた展示室では、応挙・芦雪の襖絵以外の作品や、無量寺の什宝として伝来されてきた伝吉山明兆を始めとする山雪・探幽・松徳・等的・木庵・宗精・柏巌・白隠・若沖などの近世絵画・墨蹟96点、地域文化の厚さを物語る地元串本町笠嶋泥炭遺跡出土の考古資料などを展示しています。
また、各種図録などの取扱いも行っています。
応挙芦雪館収蔵庫
展示室に続いて、1990年、国・県・町の補助を得て収蔵庫が建設されました。約220年にわたり歴代の住職・地域の人々の弛まぬ努力と熱意によって、自然災害や時には戦火の中を大切に守られてきた国指定重要文化財でもある応挙・芦雪筆の襖絵55面等を手厚く保護しています。
収蔵庫はご希望がありましたら鑑賞可能です。尚、雨天の際は、保管の関係上拝観はできません。
インフォメーション
<開館日/時刻>
年中無休 9:30〜16:30
<拝観料>
◇本館及び方丈障壁画(デジタル再製画):700円
◇本館、方丈障壁画(デジタル再製画)及び収蔵庫(重要文化財):1,300円
※中学生以下は半額です。
※展示替え、その他の都合により臨時休館することがございます。
※雨天は収蔵庫の拝観はできません。
※20名以上の団体は2割引きいたします。(団体での参観の際は、事前にご連絡ください。)
災害義援金基金
無量寺では、参拝者からお供えいただいた賽銭を災害義援金として積み立て、地震や台風などによる自然災害が起これば、被災地に御寄付させていただいております。
無量寺はもともと串本西海岸の袋地区に在しましたが、1707(宝永4)年10月の大地震による大津波で跡形もなく流失してしまいました。1786(天明6)年、文保愚海和尚が入院(じゅえん)後十数年を経て、現在の場所に再建成就いたしました。
串本でも多くの人が犠牲となった宝永の大津波から300周年に当たるのをきっかけに、2007年より、現在世界各地で起こる自然災害に関して、決して人ごとではなく少しでも被災者のお役に立てればという切なる願いのもと「災害義援金」を開始させていただきました。
一方、これまで賽銭は寺の運営費として使用させていただいておりましたので、運営が厳しい中での御寄付に関して賛否共々のご意見がありましたが、その厳しい中だからこそ意義深いのではないかと考えております。
また、災害義援金基金の活動をより多くの方に知っていただくため、演奏者の方をお迎えし、本堂内で定期的にチャリティーコンサートを開催しております。このようなチャリティー活動を通じて、金銭面だけではなく、多くの方々が出会うことにより人間同士、はたまた同じ生命としての助け合いのネットワークを築きあげることが災害時の何よりの大きな防波堤になるかと思います。
※演奏者はチェリストの水谷川優子さん
「災害義援金」は、参拝者のご協力とご理解があってこそ成り立つ基金です。皆様の温かい御厚意に感謝いたします。
交通アクセス
無量寺 境内
〒649-3503 和歌山県東牟婁郡串本町串本833 TEL. 0735-62-0468
串本応挙芦雪館
〒649-3503 和歌山県東牟婁郡串本町串本833 TEL. 0735-62-6670
開館日・時間:年中無休/9:30〜16:30
(但し、展示替え、その他の都合により臨時休館する場合がございます。)
電車をご利用の場合
お車をご利用の場合
※駐車場は、無量寺敷地内にございます。
近隣紹介
無量寺、串本応挙芦雪館の附近には、壮大な年月をかけて創り出された自然によるアート作品が見れる名勝がたくさんあります。
芦雪が見、感じた本州最南端の雄大な自然を体感してみてはいかがでしょうか。
重畳山
弘法大師開基の霊山として人々の信仰も深い重畳山。海抜302mの山頂へと登る山道は絶好のハイキングコースとなっており、山頂の展望台からは那智連山、熊野灘、大島、橋杭岩、潮岬が一望できます。
所在地: 〒649-4124 和歌山県東牟婁郡串本町伊串
橋杭岩 串本から大島に向かい、約850mの列を成して大小40余りの岩柱がそそり立つのは国の名勝天然記念物にも指定される、串本町屈指の景勝地「橋杭岩」。干潮時には中ほどの弁天島まで歩いて渡れます。
所在地: 〒649-3511 和歌山県東牟婁郡串本町鬮野川
九龍島/鯛島
九龍島(くろしま)と鯛島(たいじま)は、古座川河口から約1kmに浮かぶ無人島で国道42号から見ることができます。九龍島は、亜熱帯植物が群生している珍しい島で、鯛の形に似た鯛島と共に、その昔、源平合戦に活躍した熊野水軍の拠点であったと言われており、今も伝統の河内祭り(国の民族文化財に指定)の舞台となっています。
所在地: 〒649-3502 和歌山県東牟婁郡串本町古座
地図から見る
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同)
無量寺 〒649-3503 和歌山県東牟婁郡串本町串本833 TEL. 0735-62-0468
串本応挙芦雪館 〒649-3503 和歌山県東牟婁郡串本町串本833 TEL. 0735-62-6670
文化庁 〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話番号(代表)03(5253)4111
愛知県美術館 開館25周年記念
長沢芦雪展
開館25周年記念 長沢芦雪展 京(みやこ)のエンターテイナー
愛知県美術館 〒461-8525 名古屋市東区東桜1-13-2 ℡:052-971-5511㈹
会場 愛知県美術館(愛知芸術文化センター10階) ※地下鉄東山線・名城線「栄」駅/名鉄瀬戸線「栄町」駅下車、オアシス21連絡通路利用徒歩3分
主催 愛知県美術館、中日新聞社、日本経済新聞社、テレビ愛知