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ZIPANG TOKIO 2020「運慶・湛慶作『梵天・帝釈天・聖観音』多くの文化遺産を守り、伝え続ける 西暦600年代(奈良時代)創建の古刹【 瀧山寺 】」

2017.09.04 21:30

国指定重要文化財 運慶・湛慶の仏像彫刻「梵天・帝釈天・聖観音」

国指定重要文化財「瀧山寺三門」

逆さ垂木「瀧山寺三門」

運慶作と伝えられる「仁王像」

国指定重要文化財「瀧山東照宮」

日光・久能山と並び日本三大東照宮の一つ

国指定重要文化財「瀧山寺本堂」


1300年に渡る悠久の時の流れ

瀧山寺はおよそ600年代(奈良時代)に創建された古刹で、山号を「吉祥陀羅尼山」、院号を「薬樹王院」といい、天台宗の寺院として建てられました。 

熱田大宮司家、源頼朝の鎌倉幕府、歴代の足利氏、そして徳川家の恩恵を受け、文化発信の地として三河地方で重要な役割を担ってきました。

石灯篭に三つ葉葵の御紋が見える


運慶・湛慶の仏像彫刻 

境内には四つの「瀧山寺三門」を有する。

運慶・湛慶の仏像彫刻「梵天・帝釈天・聖観音」 「瀧山寺本堂」 「瀧山寺三門」 隣接する東照宮「瀧山東照宮」 

また、天下の奇祭「鬼まつり」など、 鎌倉時代から受け継がれる多くの文化遺産を守り、伝え続けている。


瀧山寺歴

瀧山寺の始まりは薬師如来から

吉祥陀羅尼山薬樹王院と号し、本尊は薬師如来。瀧山寺縁起によれば、朱鳥元年(686年)奈良時代の伝説的な山岳修行者、小角(おづぬ)が青木川の滝壺から薬師如来を拾い上げ、安置するために「吉祥寺」という一堂を建てたのに始まると言われる。
 小角は自ら薬師如来像を彫刻し、その仏身に金色の薬師如来を納め御堂に安置しました。

ご本尊「薬師如来」

薬師如来

日光・月光菩薩、十二神将、不動明王


比叡山の仏泉上人永救が奮う

 やがて400年の月日が流れ、保安年間(1120〜24年)、比叡山で修行した仏泉上人永救(ぶっせんしょうにんえいぐ)が、仏法興隆のためこの地に来住。荒廃してしまっていた吉祥寺跡に再び霊場を建て、物部氏の外護により本堂を造営しました。  上人を慕って弟子入りするものは跡を絶たず、境内には360もの寺院が建立され、そのころに官府の命によって寺名を「瀧山寺」と改めました。
その後、物部氏に替わり熱田大宮司家が大壇那となり、熱田大宮司季範夫妻の孫、寛伝上人に話は移っていく。

鎌倉幕府の恩恵で最盛期に 

源頼朝の従兄弟にあたる寛伝上人は瀧山寺僧侶となり、縁故から頼朝公の厚い信仰を得ました。頼朝公没後には、菩提のため正治三年(1201年)頼朝公の3回忌にあたるこの年に惣持禅院を創建。本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩・梵天・帝釈天の三尊像を仏師、運慶・湛慶父子が造立しました。 
その後は承久の乱後に三河守護足利氏が壇越となり最盛期を迎える。

戦乱の世が衰退をもたらす

 その後、貞応ニ年(1223年)には足利義氏が本堂立替を援助し、泰氏・頼氏・家時・貞氏の歴代も所領や仏具を寄進、瀧山寺は足利氏の準菩提寺となっていきました。また、室町時代には三代将軍義満の援助により本堂が造営されたが、戦乱によって次第に寺盛は衰退していく...

徳川家の信仰と擁護により再興

そのさらに400年後の江戸時代。瀧山寺は再び中興を見せる。比叡山天海僧正の命により住職となって入寺した亮盛上人は三代将軍家光公に見いだされ、寛永十八年(1641年)家光公より朱印地を拝領する。正保三年(1646年)には、家康公誕生の地の守護である瀧山寺隣地に東照宮が設立されました。

国指定重要文化財「瀧山東照宮」


この江戸時代には「青龍院・玉泉院・常心院・浄蓮院・観量院・密厳院」の六坊があったが、明治初期に廃され、現在浄蓮院のみが瀧山寺本坊として残っている。

本坊

本坊裏庭

近代の歴史

 時は流れ明治六年(1874年)には神仏分離により滝山東照宮は独立し、現在も別法人となっている。 
平成二十四年(2012年)には、国定重要文化財に指定されている三門の落慶法要が執り行われました。


寺宝

境内

瀧山寺三門(山門)国指定重要文化財

文永四年(1267年)、飛騨権守藤原光延(飛騨の内匠)が建立したもので、三間一戸の壮大な楼門である。柿(こけら)ぶきの思い切り張り出した大屋根の勾配はゆるやかではないが反転があり、軸部はやや狭小であるが構造形式もよく整い、鎌倉時代の特色である雄建美がある。  門の両側に控える仁王像は運慶仏師の作だといわれており、正面に掲げられた「瀧山寺」の扁額は日本三蹟の一人である藤原行成の八代の孫、行純の子で世尊流の書家の作である。  また、三門の大屋根にある尾垂木が一カ所だけ逆さになっており、三門の完成後ある老婆が「内匠の建てしもこの違いがあるかな」とつぶやいたのを聞き、深く恥じて三門の階上よりノミをくわえて飛び降り、喉元を突いて自害した。その場所に一本の椿が生え、年々美しい花が咲いたが実を結ぶことはなかったと伝えられる。村人はこの椿を「内匠霊花」と呼び、ここに「飛騨権守藤原光延之塚」を築いた。現在三門の手前(西北)にあるのがそれである。  しかし当時は完全ということは満ちれば欠けるとて何か縁起のよくないことが起こりはしないかと恐れ、その一部を不完全にしておいたともいわれる。 

滝山寺本殿

貞応元年(1222年)三河の地頭で清和源氏の流れをくむ足利義氏が額田郡碧海の庄、吉良の東条・西条の住人に命じて五間四方の本堂を建設した。  現在の本堂は、明治四十三年頃に解体・大修理をしたものであるが、桧皮ぶきの寄せ棟造りで、ことに肘木の彫刻は極めて雄々しく、虹梁・木鼻・蟇股(かえるまた)等と共に鎌倉建築の特徴をよく表している。  また、和様・唐様・天竺様を取り入れた様式は、何れもが当代の名工の手になった会心の作で、唐様建築が行われ始めた鎌倉建長寺の建立に先立つこと三十年、藤原文化から鎌倉文化への様式の過渡期に当たり、古い伝統を守りながら早くも大胆に新来の様式を加味していることは興味深いものである。  このことから瀧山寺本堂は古建築の中でも特に名建築といわれる所以である。明治三十七年国指定重要文化財に指定。

瀧山寺梵鐘

瀧山寺は、寛文十年(1671年)と元禄十年(1697年)に徳川将軍家により修復を受けたが、元禄十年時の集群綱吉による修復を跡づけるものが本品である。  銘文に「大檀主征夷大将軍源綱吉公」とある。

本堂安置

十二神将立像 一象(子神)

十二神将は薬師如来の眷属として守護にあたるもので、本群像も本尊薬師如来の脇立である。  桧材を用い、構造は前後矧ぎ又は前後割矧ぎで、玉眼を嵌入する。全体に彩色され、切金模様が施されている。手先や甲部材の亡失や後補、修理時の取り違え等はあるが、像容に大きな変更は無いと思われる。各像の作風の違いからかいくつかの工房により制作されたものとみられ、甲を身につける一般的な図像の他に夜叉を意識したと思われる。甲を付けない鬼形・半裸像や、甲製を意識的に崩した意表を突く作例が特徴的で、二・三・六像は作風から運慶仏師による十三世紀中葉の制作とみられる。  また、二像の山と七像の法螺貝は、日本の十二神将には稀な持物である。像名は頭上の十二支標識の多くが亡失しており、足柄と台座の銘も記入された時期が不明であることなどから、特定することは難しいが、ここには現状を記してある。

十二神将立像 二像(?神)

十二神将は薬師如来の眷属として守護にあたるもので、本群像も本尊薬師如来の脇立である。  桧材を用い、構造は前後矧ぎ又は前後割矧ぎで、玉眼を嵌入する。全体に彩色され、切金模様が施されている。手先や甲部材の亡失や後補、修理時の取り違え等はあるが、像容に大きな変更は無いと思われる。各像の作風の違いからかいくつかの工房により制作されたものとみられ、甲を身につける一般的な図像の他に夜叉を意識したと思われる。甲を付けない鬼形・半裸像や、甲製を意識的に崩した意表を突く作例が特徴的で、二・三・六像は作風から運慶仏師による十三世紀中葉の制作とみられる。  また、二像の山と七像の法螺貝は、日本の十二神将には稀な持物である。像名は頭上の十二支標識の多くが亡失しており、足柄と台座の銘も記入された時期が不明であることなどから、特定することは難しいが、ここには現状を記してある。

十二神将立像 三像(午神)

十二神将は薬師如来の眷属として守護にあたるもので、本群像も本尊薬師如来の脇立である。  桧材を用い、構造は前後矧ぎ又は前後割矧ぎで、玉眼を嵌入する。全体に彩色され、切金模様が施されている。手先や甲部材の亡失や後補、修理時の取り違え等はあるが、像容に大きな変更は無いと思われる。各像の作風の違いからかいくつかの工房により制作されたものとみられ、甲を身につける一般的な図像の他に夜叉を意識したと思われる。甲を付けない鬼形・半裸像や、甲製を意識的に崩した意表を突く作例が特徴的で、二・三・六像は作風から運慶仏師による十三世紀中葉の制作とみられる。  また、二像の山と七像の法螺貝は、日本の十二神将には稀な持物である。像名は頭上の十二支標識の多くが亡失しており、足柄と台座の銘も記入された時期が不明であることなどから、特定することは難しいが、ここには現状を記してある。

十二神将立像 四像(辰神)

十二神将は薬師如来の眷属として守護にあたるもので、本群像も本尊薬師如来の脇立である。  桧材を用い、構造は前後矧ぎ又は前後割矧ぎで、玉眼を嵌入する。全体に彩色され、切金模様が施されている。手先や甲部材の亡失や後補、修理時の取り違え等はあるが、像容に大きな変更は無いと思われる。各像の作風の違いからかいくつかの工房により制作されたものとみられ、甲を身につける一般的な図像の他に夜叉を意識したと思われる。甲を付けない鬼形・半裸像や、甲製を意識的に崩した意表を突く作例が特徴的で、二・三・六像は作風から運慶仏師による十三世紀中葉の制作とみられる。  また、二像の山と七像の法螺貝は、日本の十二神将には稀な持物である。像名は頭上の十二支標識の多くが亡失しており、足柄と台座の銘も記入された時期が不明であることなどから、特定することは難しいが、ここには現状を記してある。

十二神将立像 五像(?神)

十二神将は薬師如来の眷属として守護にあたるもので、本群像も本尊薬師如来の脇立である。  桧材を用い、構造は前後矧ぎ又は前後割矧ぎで、玉眼を嵌入する。全体に彩色され、切金模様が施されている。手先や甲部材の亡失や後補、修理時の取り違え等はあるが、像容に大きな変更は無いと思われる。各像の作風の違いからかいくつかの工房により制作されたものとみられ、甲を身につける一般的な図像の他に夜叉を意識したと思われる。甲を付けない鬼形・半裸像や、甲製を意識的に崩した意表を突く作例が特徴的で、二・三・六像は作風から運慶仏師による十三世紀中葉の制作とみられる。  また、二像の山と七像の法螺貝は、日本の十二神将には稀な持物である。像名は頭上の十二支標識の多くが亡失しており、足柄と台座の銘も記入された時期が不明であることなどから、特定することは難しいが、ここには現状を記してある。

十二神将立像 六像(戌神)

十二神将は薬師如来の眷属として守護にあたるもので、本群像も本尊薬師如来の脇立である。  桧材を用い、構造は前後矧ぎ又は前後割矧ぎで、玉眼を嵌入する。全体に彩色され、切金模様が施されている。手先や甲部材の亡失や後補、修理時の取り違え等はあるが、像容に大きな変更は無いと思われる。各像の作風の違いからかいくつかの工房により制作されたものとみられ、甲を身につける一般的な図像の他に夜叉を意識したと思われる。甲を付けない鬼形・半裸像や、甲製を意識的に崩した意表を突く作例が特徴的で、二・三・六像は作風から運慶仏師による十三世紀中葉の制作とみられる。  また、二像の山と七像の法螺貝は、日本の十二神将には稀な持物である。像名は頭上の十二支標識の多くが亡失しており、足柄と台座の銘も記入された時期が不明であることなどから、特定することは難しいが、ここには現状を記してある。

十二神将立像 七像(未神)

十二神将は薬師如来の眷属として守護にあたるもので、本群像も本尊薬師如来の脇立である。  桧材を用い、構造は前後矧ぎ又は前後割矧ぎで、玉眼を嵌入する。全体に彩色され、切金模様が施されている。手先や甲部材の亡失や後補、修理時の取り違え等はあるが、像容に大きな変更は無いと思われる。各像の作風の違いからかいくつかの工房により制作されたものとみられ、甲を身につける一般的な図像の他に夜叉を意識したと思われる。甲を付けない鬼形・半裸像や、甲製を意識的に崩した意表を突く作例が特徴的で、二・三・六像は作風から運慶仏師による十三世紀中葉の制作とみられる。  また、二像の山と七像の法螺貝は、日本の十二神将には稀な持物である。像名は頭上の十二支標識の多くが亡失しており、足柄と台座の銘も記入された時期が不明であることなどから、特定することは難しいが、ここには現状を記してある。

十二神将立像 八像(?神)

十二神将は薬師如来の眷属として守護にあたるもので、本群像も本尊薬師如来の脇立である。  桧材を用い、構造は前後矧ぎ又は前後割矧ぎで、玉眼を嵌入する。全体に彩色され、切金模様が施されている。手先や甲部材の亡失や後補、修理時の取り違え等はあるが、像容に大きな変更は無いと思われる。各像の作風の違いからかいくつかの工房により制作されたものとみられ、甲を身につける一般的な図像の他に夜叉を意識したと思われる。甲を付けない鬼形・半裸像や、甲製を意識的に崩した意表を突く作例が特徴的で、二・三・六像は作風から運慶仏師による十三世紀中葉の制作とみられる。  また、二像の山と七像の法螺貝は、日本の十二神将には稀な持物である。像名は頭上の十二支標識の多くが亡失しており、足柄と台座の銘も記入された時期が不明であることなどから、特定することは難しいが、ここには現状を記してある。

十二神将立像 九像(?神) 

十二神将は薬師如来の眷属として守護にあたるもので、本群像も本尊薬師如来の脇立である。  桧材を用い、構造は前後矧ぎ又は前後割矧ぎで、玉眼を嵌入する。全体に彩色され、切金模様が施されている。手先や甲部材の亡失や後補、修理時の取り違え等はあるが、像容に大きな変更は無いと思われる。各像の作風の違いからかいくつかの工房により制作されたものとみられ、甲を身につける一般的な図像の他に夜叉を意識したと思われる。甲を付けない鬼形・半裸像や、甲製を意識的に崩した意表を突く作例が特徴的で、二・三・六像は作風から運慶仏師による十三世紀中葉の制作とみられる。  また、二像の山と七像の法螺貝は、日本の十二神将には稀な持物である。像名は頭上の十二支標識の多くが亡失しており、足柄と台座の銘も記入された時期が不明であることなどから、特定することは難しいが、ここには現状を記してある。

十二神将立像 十像(卯神)

十二神将は薬師如来の眷属として守護にあたるもので、本群像も本尊薬師如来の脇立である。  桧材を用い、構造は前後矧ぎ又は前後割矧ぎで、玉眼を嵌入する。全体に彩色され、切金模様が施されている。手先や甲部材の亡失や後補、修理時の取り違え等はあるが、像容に大きな変更は無いと思われる。各像の作風の違いからかいくつかの工房により制作されたものとみられ、甲を身につける一般的な図像の他に夜叉を意識したと思われる。甲を付けない鬼形・半裸像や、甲製を意識的に崩した意表を突く作例が特徴的で、二・三・六像は作風から運慶仏師による十三世紀中葉の制作とみられる。  また、二像の山と七像の法螺貝は、日本の十二神将には稀な持物である。像名は頭上の十二支標識の多くが亡失しており、足柄と台座の銘も記入された時期が不明であることなどから、特定することは難しいが、ここには現状を記してある。

十二神将立像 十一像(丑神)

十二神将は薬師如来の眷属として守護にあたるもので、本群像も本尊薬師如来の脇立である。  桧材を用い、構造は前後矧ぎ又は前後割矧ぎで、玉眼を嵌入する。全体に彩色され、切金模様が施されている。手先や甲部材の亡失や後補、修理時の取り違え等はあるが、像容に大きな変更は無いと思われる。各像の作風の違いからかいくつかの工房により制作されたものとみられ、甲を身につける一般的な図像の他に夜叉を意識したと思われる。甲を付けない鬼形・半裸像や、甲製を意識的に崩した意表を突く作例が特徴的で、二・三・六像は作風から運慶仏師による十三世紀中葉の制作とみられる。  また、二像の山と七像の法螺貝は、日本の十二神将には稀な持物である。像名は頭上の十二支標識の多くが亡失しており、足柄と台座の銘も記入された時期が不明であることなどから、特定することは難しいが、ここには現状を記してある。

十二神将立像 十二像(酉神)

十二神将は薬師如来の眷属として守護にあたるもので、本群像も本尊薬師如来の脇立である。  桧材を用い、構造は前後矧ぎ又は前後割矧ぎで、玉眼を嵌入する。全体に彩色され、切金模様が施されている。手先や甲部材の亡失や後補、修理時の取り違え等はあるが、像容に大きな変更は無いと思われる。各像の作風の違いからかいくつかの工房により制作されたものとみられ、甲を身につける一般的な図像の他に夜叉を意識したと思われる。甲を付けない鬼形・半裸像や、甲製を意識的に崩した意表を突く作例が特徴的で、二・三・六像は作風から運慶仏師による十三世紀中葉の制作とみられる。  また、二像の山と七像の法螺貝は、日本の十二神将には稀な持物である。像名は頭上の十二支標識の多くが亡失しており、足柄と台座の銘も記入された時期が不明であることなどから、特定することは難しいが、ここには現状を記してある。

十二神将立像 十二像(酉神)

 十二神将は薬師如来の眷属として守護にあたるもので、本群像も本尊薬師如来の脇立である。  桧材を用い、構造は前後矧ぎ又は前後割矧ぎで、玉眼を嵌入する。全体に彩色され、切金模様が施されている。手先や甲部材の亡失や後補、修理時の取り違え等はあるが、像容に大きな変更は無いと思われる。各像の作風の違いからかいくつかの工房により制作されたものとみられ、甲を身につける一般的な図像の他に夜叉を意識したと思われる。甲を付けない鬼形・半裸像や、甲製を意識的に崩した意表を突く作例が特徴的で、二・三・六像は作風から運慶仏師による十三世紀中葉の制作とみられる。  また、二像の山と七像の法螺貝は、日本の十二神将には稀な持物である。像名は頭上の十二支標識の多くが亡失しており、足柄と台座の銘も記入された時期が不明であることなどから、特定することは難しいが、ここには現状を記してある。

不動明王坐像

大日如来が一切の悪魔・煩悩を降伏させるために化現した姿で、教化し難い衆生をも導くため忿怒相をとる。その信仰は特に日本で平安初期以来密教の隆盛とともに盛んになった。  本像は栴壇楝材(せんだんおうちざい)、一木造りの彫眼像。頭体の根幹部だけでなく、両腕の前膊半ばまでと弁慶遊離部も一材から彫出し、両脚部等は別材矧ぎとする。髪は後頭部まで全て巻髪、目は天地眼、口元は通常と逆の右上牙を下出、左下牙を上出することが特徴的である。 当ホームページ内に掲載しています写真やデザインなどは著作権法で保護されています。 

毘沙門天立像

四天王の一尊、北方世界を守護する多聞天(たもんてん)のこと。単独では副徳を授ける神として、七福神の一尊に数えられる。  本像は一木造りの彫眼像。白檀を模した素地色の彩色が施され、瞳や髭、衣・甲冑に墨描きがある。瞋目(しんもく)の忿怒の表情、猪首の重厚な体貌、正面両足間で契り楔形を呈する裳裾などから平安時代後期のものと考えられる。  足下の邪鬼は楠の一材から彫り出され、二頭を網状の褌で一括りにするなど、在地仏師の自由な創意が感じられる。

月光菩薩

日光菩薩

薬師如来(本尊)

不動明王立像

十一面観音菩薩立像(本堂)

宝物殿安置

天台大師坐像

天台大師(智者大師)智顗(ちじ 538〜597年)は中国南北朝期の高僧。慧文・慧思(えもん・えし)に次ぐ中国天台宗の第三祖だが、実質的な開祖として崇拝された。  本像は頭巾を被り、頭上に禅鎮を乗せ、禅定印を結び瞑想している姿である。一木造で内刳りが施され、禅鎮や裳先・両袖を含む地付周りは補材だが、頭部幹部・両足部には手が加えられていない。  ざっくりとした刀の痕を残す背面、要を得た線刻状の衣文、簡略で大らかな造形や胸元を開いた下衣の着付けなどから、平安時代後期の作と考えられており、全国的にも類例が稀である。

慈恵大師坐像

慈恵大師良源(じえたいしりょうげん 912〜985年)は第十八世天台座王主。荒廃した比叡山の諸堂復興に尽力し、天台宗中興の祖と崇められた。その像は悪疫を除き、外敵を調伏するとして衆生の厚い信仰を受け、後世多くの彫像・画像が造られた。  本像は寄木造り、玉眼嵌入の彩色像。鋭い目、強い皺を刻む顔に独鈷と数珠(現在は欠)を持つなど、慈恵大師像の特色をよく示している。

瀧山寺縁記

瀧山寺の沿革や来歴を諸堂・諸社の修造と法会勤修を中心に記録等に基づいて客観的に記したもの。  成立時期は十四世紀初頭とみられ、奧書によると文和四年(1355年)に権小僧都顕甚が「古本」を書写、慶長十三年(1608年)に暁海法印が顕甚本を書写、寛永二十年(1642年)に円海、正徳三年(1713年)に亮慶が暁海本を書写したとされ、現在瀧山寺には円海本と亮慶本が伝来している。本書は円海本で、紙数三十七枚、全一冊。  内容は三つの部分に分かれ、冒頭に瀧山寺草創に関する部分があり、役小角と山岳信仰の霊地としての瀧山寺との関連が述べられ、霊地たる所以を示す伝承を記している。  次は仏泉永救の中興に始まる諸堂の創建等の来歴を記す部分で、寺の記録・文章・銘文・口伝などをもとに、年紀、事件、人物、場所等が詳細に記されている。  最後は寺の興隆に尽力した人々の命日ごとに温室(湯殿)にて功徳湯を行ったことを記す部分で、熱田大宮司家・足利家・足利氏被官などに関する多くの記述がある。平安末期から鎌倉末期に至る西三河地域の歴史を物語る貴重な資料である。

追儺面

鬼祭りに使用される鬼の面。源頼朝の命により運慶仏師が制作したものと伝えられ、もとは父面・母面もあったといわれている。  鬼祭りの起源は鎌倉時代にさかのぼるとされ、旧暦正月元旦から始まる修正会(しゅしょうえ)の最終日である七日の晩に行われる。三河路に春を告げる祭りとされ、天下太平・五穀豊穣を祈る。鬼の面は祭りのクライマックス、火祭りの際に使用され、爺面・婆面・孫面を着けた三鬼が本堂の欄干を駆けめぐり、周囲には松明を手にした数十人の人々が集う。

 三鬼が本堂の欄干を駆けめぐる


三尊立像

熱田官司藤原範忠の子、寛伝が従兄弟にあたる源頼朝の菩提を弔うために正治三年(1201年)建立した惣持禅院に安置したもの。仏師は運慶とその長男湛慶で、中央の聖観音は頼朝の等身大で顎髭(又は鬢の落毛)と歯を胎内に納めたという。X線透視撮影の結果、頭部内に小さな納入品が針金で吊るされているのが判明している。寛伝は頼朝の推挙を得て下野国日光山満願寺十九世座主となり、後に瀧山寺住職を勤めた。  聖観音は寄せ木造りの彫眼像で蓮華を持つ左手に右手を添え、蓮華座の上に立つ。  右側の梵天(ぼんてん)は四面四臂、各面三目彫眼で、左手の一手に蓮華を持ち、右の一手は軽く拳をつくり、蓮華座の上に立つ。  左側の帝釈天(たいしゃくてん)は一面三眼で、条帛の下に胸甲を着け、右手にとっこしょを執り、右足をやや踏み出して荷葉座の上に立つ。 各像は桧材で、江戸時代末から明治頃の極彩色の補彩が厚く施されている。  卓越した形態把握、適度な緊張感と充実感を持つ体躰、目尻のやや切れ上がった張りのある力強い顔立ちから、運慶または慶派正統の仏師によるものとみられる。また、梵天(ブラフマー)・帝釈天(インドラ)は一般に一対の守護神として表されるが、聖観音の脇侍に配す例は珍しい。

聖観音菩薩立像

熱田官司藤原範忠の子、寛伝が従兄弟にあたる源頼朝の菩提を弔うために正治三年(1201年)建立した惣持禅院に安置したもの。仏師は運慶とその長男湛慶で、右川側の聖観音は頼朝の等身大で顎髭(又は鬢の落毛)と歯を胎内に納めたという。X線透視撮影の結果、頭部内に小さな納入品が針金で吊るされているのが判明している。寛伝は頼朝の推挙を得て下野国日光山満願寺十九世座主となり、後に瀧山寺住職を勤めた。  聖観音は寄せ木造りの彫眼像で蓮華を持つ左手に右手を添え、蓮華座の上に立つ。  中央の梵天(ぼんてん)は四面四臂、各面三目彫眼で、左手の一手に蓮華を持ち、右の一手は軽く拳をつくり、蓮華座の上に立つ。  左側の帝釈天(たいしゃくてん)は一面三眼で、条帛の下に胸甲を着け、右手にとっこしょを執り、右足をやや踏み出して荷葉座の上に立つ。各像は桧材で、江戸時代末から明治頃の極彩色の補彩が厚く施されている。  卓越した形態把握、適度な緊張感と充実感を持つ体躰、目尻のやや切れ上がった張りのある力強い顔立ちから、運慶または慶派正統の仏師によるものとみられる。また、梵天(ブラフマー)・帝釈天(インドラ)は一般に一対の守護神として表されるが、聖観音の脇侍に配す例は珍しい。

聖観音菩薩立像 X線写真

梵天立像

熱田官司藤原範忠の子、寛伝が従兄弟にあたる源頼朝の菩提を弔うために正治三年(1201年)建立した惣持禅院に安置したもの。仏師は運慶とその長男湛慶で、右川側の聖観音は頼朝の等身大で顎髭(又は鬢の落毛)と歯を胎内に納めたという。X線透視撮影の結果、頭部内に小さな納入品が針金で吊るされているのが判明している。寛伝は頼朝の推挙を得て下野国日光山満願寺十九世座主となり、後に瀧山寺住職を勤めた。  聖観音は寄せ木造りの彫眼像で蓮華を持つ左手に右手を添え、蓮華座の上に立つ。  中央の梵天(ぼんてん)は四面四臂、各面三目彫眼で、左手の一手に蓮華を持ち、右の一手は軽く拳をつくり、蓮華座の上に立つ。  左側の帝釈天(たいしゃくてん)は一面三眼で、条帛の下に胸甲を着け、右手にとっこしょを執り、右足をやや踏み出して荷葉座の上に立つ。各像は桧材で、江戸時代末から明治頃の極彩色の補彩が厚く施されている。  卓越した形態把握、適度な緊張感と充実感を持つ体躰、目尻のやや切れ上がった張りのある力強い顔立ちから、運慶または慶派正統の仏師によるものとみられる。また、梵天(ブラフマー)・帝釈天(インドラ)は一般に一対の守護神として表されるが、聖観音の脇侍に配す例は珍しい。

帝釈天立像

熱田官司藤原範忠の子、寛伝が従兄弟にあたる源頼朝の菩提を弔うために正治三年(1201年)建立した惣持禅院に安置したもの。仏師は運慶とその長男湛慶で、右川側の聖観音は頼朝の等身大で顎髭(又は鬢の落毛)と歯を胎内に納めたという。X線透視撮影の結果、頭部内に小さな納入品が針金で吊るされているのが判明している。寛伝は頼朝の推挙を得て下野国日光山満願寺十九世座主となり、後に瀧山寺住職を勤めた。  聖観音は寄せ木造りの彫眼像で蓮華を持つ左手に右手を添え、蓮華座の上に立つ。  中央の梵天(ぼんてん)は四面四臂、各面三目彫眼で、左手の一手に蓮華を持ち、右の一手は軽く拳をつくり、蓮華座の上に立つ。  左側の帝釈天(たいしゃくてん)は一面三眼で、条帛の下に胸甲を着け、右手にとっこしょを執り、右足をやや踏み出して荷葉座の上に立つ。各像は桧材で、江戸時代末から明治頃の極彩色の補彩が厚く施されている。  卓越した形態把握、適度な緊張感と充実感を持つ体躰、目尻のやや切れ上がった張りのある力強い顔立ちから、運慶または慶派正統の仏師によるものとみられる。また、梵天(ブラフマー)・帝釈天(インドラ)は一般に一対の守護神として表されるが、聖観音の脇侍に配す例は珍しい。

十一面観音菩薩立像(小)

十一面観音菩薩立像(大)

 木造十二菩薩面

 阿弥陀如来の来迎を演ずる法会、迎講で阿弥陀如来に従う菩薩達が被る面。  「瀧山寺縁起」によると天福元年(1233年)足利善氏は150貴文を瀧山寺に寄進して迎講菩薩装束十二具等を調製させているが、本面はこの際に制作されたとみられており、現在は六面と断片四点が伝わる。  面部と頭頂部が一体に作られ、奥行きが深くかつての伎楽面に見られるような古風の形式である。面相は平安時代の柔らかな感じはなく、引き締まった写実性が特色である。

孔雀文磬

 磬(けい)は修法や勤行の際に用いる仏具。古代中国の楽器に由来し、仏前の礼盤の右側に置く磬架(けいか)にかけ、導師が打ち鳴らす。  本作は鋳銅製で、山形高く弧の入り深く、縁は厚い。表裏ともに中央に蓮華形の付き撞座(ついざ)を構え、左右に孔雀を鋳出する。片面に撞座をはさんで「祐承」「寄進」、外縁に「祈願禅門善因」「明應四年六月十六日」「神宮寺地蔵堂」と刻銘があり、記年銘磬の基準作例として貴重である。



鬼まつり

三河路に春を呼ぶ天下の奇祭

節分の夜には「鬼は外!」と豆を投げつけ、邪鬼を祓うのが慣わしです。つまり、私たちは「鬼は追い払うもの」という概念を持っています。 
 しかし、瀧山寺に登場する鬼たちは、逆に邪鬼を祓う役目を負っています。瀧山寺の鬼たちを見ると、鉞・撞木・鏡餅といった依代や太陽を意味する道具類を手にしており、邪鬼を祓う鬼神であることが理解できます。


鬼面と火の乱舞

鬼まつりは、旧暦元旦から七日間、本堂で天下太平・五穀豊穣を祈る修正会(しゅしょうえ)が行われ、その最終日の結願の日夕刻に催されます。 
 運慶作と伝えられる祖父面・祖母面・孫面をつけた鬼が、燃え盛る炎の中から鏡餅を持って登場し、天下泰平・五穀豊穣を約束するといわれている。 
鬼面を被る者は七日間、斎戒沐浴して別室で起居します。女との接触は禁止され、四足動物の肉を口にしないなどの戒律があり、炊事なども男の手によってなされます。

松明行列


鎌倉時代から続く800年の歴史

 国重要文化財である瀧山寺本堂に巨大な松明を30数本を持ち込み、半鐘・双盤・太鼓を乱打し、ほら貝が吹き鳴らされる中で鬼が乱舞する様は圧巻で、観ている観客が延焼の心配をしてしまうほど勇壮な祭りとなっています。その後、観衆は堂内に上がり、消された松明を縁起物として持ち帰ります。 
 この祭りの起源は、源頼朝の祈願により始められたと伝えられるが、室町末期に廃絶、その後徳川三代目将軍家光が東照宮を境内に建立し、以後幕府の行事として復活。明治初期に一時中断されたが明治二十一年に再度復活し現在に至ります。

鬼面にまつわる伝説

また、鬼面はもとは父面・母面もあったが、二人の旅僧が斎戒沐浴せずに父面・母面をつけて祭りを行い、面がついて離れず息絶えてしまった。この二人を薬師堂の前に葬り鬼塚として供養したため父面・母面は残っていないといわれています。 
毎年の鬼祭りには五穀を炒ったものを塚の上に撒き「春秋の芽の生うる時出で来たれ」という。この撒き散らした五穀を子供のオコリの妙薬として持ち帰る風習があります。


行事案内

節 分

1 日 時 2月3日以前の日曜日 午前10時から午後3時 2 場 所 瀧山寺本堂 3 金 額 1人 1300円(前売り) 1500円(当日売り) 4 内 容 受付でお札と護摩木を受け取り、本堂内で御祈祷を受け、その後豆まきを行い、お供物を受け取ります。 福引き・関東煮・甘酒などの接待もあります。 5 申 込 瀧山寺にお金を添えて申し込みます。 6 駐車場 瀧山寺駐車場・常磐中学校運動場

鬼まつり


1 概 要 三河路に春をつげる祭りと言われ、天下の奇祭として、愛知県の無形民俗文化財第1号(昭和29年3月12日)に指定されている。国重要文化財の本堂を舞台にして、祖父・祖母・孫の3鬼が手引きに伴われ登場し、その後を2.5メートルの松明を持った若者がその鬼を追い、建物全体が火に包まれる勇壮な祭りである。 2 期 日 旧正月7日に近い土曜日 3 主 催 滝山寺・鬼まつり保存会 4 主な行事 (1)寺宝展 午後1時より  宝物殿 (2)大松明・12人衆行列 午後3時より (3)仏前法要 午後5時より (4)長刀御礼振り 午後6時20分より (5)鬼塚供養(豆まき) 午後6時30分より (6)庭まつり(田遊祭) 午後7時より (7)火まつり 午後7時45分頃 (8)終了 午後8時  ※ 本坊にて、鎌倉時代から伝わる精進料理(1人前4000円)の準備があります。 ただし予約が必要です。(連絡先 0564-46-2296)
5 駐車場 一般参詣者は県営グランドを駐車場とし、瀧山寺まで名鉄バスが運行する。

 施餓鬼会

1 日 時 7月第2日曜日 午前10時から午前12時 2 場 所 瀧山寺観音堂 3 金 額 1人 1000円 4 内 容 受付でお塔婆を受け取り、観音堂内で御祈祷を受けます。 本坊にてお非事(昼食)などの接待もあります。 5 駐車場 瀧山寺駐車場 6 申 込 事前に瀧山寺にお金を添えて申し込みますが、当日でも受け付けます。

奥の院御祥当法要

1 日 時 11月第1日曜日 午前10時から午前12時 2 場 所 奥の院(瀧山寺本堂裏) 3 金 額 1人 1000円 4 内 容 受付で祈願旗を受け取り、堂前で御祈祷を受けます。 本坊にてお非事(昼食)などの接待もあります。 祈願幟旗(布製 1500円)もあります。 5 駐車場 瀧山寺駐車場

天台会

1 日 時 12月第4日曜日 午前10時から午前12時 2 場 所 瀧山寺本坊 3 内 容 開祖天台大師様の御命日に追弔会を修し奉るものです。 4 申 込 前日までに瀧山寺にお金を添えて申し込みます。 5 駐車場 瀧山寺駐車場 


交通アクセス

名鉄「東岡崎駅」より名鉄バス上米河内行他「滝山寺下」下車、徒歩約10分



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使



協力(敬称略)

瀧山寺 〒444-3173 愛知県岡崎市滝町山籠107 電話: 0564-46-2296