新選組と歩く幕末京都 新選組の子孫
京都の治安維持の為に結成された新撰組
新撰組の子孫の方々
JR板橋駅前であった新選組局長近藤勇の法要の時の新組幹部の子孫の集合写真です。200
7年4月22日の写真です、上段左が新撰組局長、近藤勇の子孫の方で宮川清蔵さん、天然理
心流9代宗家、勇武館館長です。処刑された後、首は行方がわからなくなり、胴体は掘り起こされ
てここに改葬されたと言われてます。左から2番目の女性が近藤勇が処刑された後も函館五稜郭で
最後まで戦い銃弾に倒れた副長土方歳三子孫の土方陽子さんです、その右は近藤勇子孫、宮川
家10代当主、宮川豊治さん。土方歳三の義兄で新撰組の後援者、その右の女性が佐藤彦五郎
の子孫。その次のタレ目の男性は2番隊隊長で大正まで生きた永倉新八の子孫で長倉達郎さん夫
妻、その上のメガネの男性も永倉新八の子孫で杉村悦郎さん。
そして背の高い人は6番隊隊長の井上源三郎の子孫で井上雅雄さん、井上家12代当主で勇武
館副館長。子孫の方々は目つきもするどく、どことなくご先祖様に似ていて、新撰組もこんな雰囲気
であったのかと不思議な空気が流れていました。
新選組隊長・近藤勇は、慶応4年4月25日に板橋平尾宿にあった一里塚で斬首の刑を受け、首
は京都三条河原にさらされ、胴は滝野川三軒家の無縁塚に埋葬されました。
墓碑は近藤勇、土方歳三のほか殉死した隊士の供養のために、新選組隊士・永倉新八が発起人と
なり、旧幕府典医松本順の協力を得て明治9年に建てられたものです。
私は以前東京の転勤になり住んでいた場所が、滝野川にある近藤勇の菩提寺の寿徳寺の裏手の
アパートで、その飛地にあるJR板橋駅前の新撰組隊長近藤勇墓所へは通りすがり毎日のようにお
参りしていました。たまたま会社に行く前に駅前で墓石の改修記念の法要があってたのを写真に撮
らせていただきました。写真に飾られているのは改修が終わる前に亡くなられた先代の住職さんで
す。
新撰組の初期の屯所として使用された八木邸
八木邸内部
刀傷
芹沢鴨が寝込みを襲撃され逃げ惑いこの文机に躓いた
八木家を宿所としていた芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、新見錦、原田佐之
助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎、平間重助、永倉新八の13名は浪士隊から
分かれて京に残り、文久3年3月16日八木家右門柱に、松平肥後守御領新選組宿という新しい表
札を掲げ、新選組が誕生しました。
新選組は隊士も増え八木家では賄いきれず、古高俊太郎の拷問で有名な前川家や南部家にも宿
所を当てました。八木家奥座敷は芹澤鴨暗殺の場で、文久3年9月18日どしゃ降りの深夜芹澤鴨、
平山五郎ら4人が斬殺されました。
近藤が実権をにぎってから隊規も厳しくなり、池田屋事件など新選組の最盛期を築きましたが、
慶應元年(1865年)夏、壬生が手狭になってきたのを理由に西本願寺の太鼓番屋に屯所を移しま
した。その後、鳥羽伏見の戦いで敗れるまで壬生を洋式調練の場所にするなどして江戸に下る最
後まで深い繋がりがありました。
幕末京都の治安を守った新選組。あしかけ3年の新選組壬生屯所時代。これが真の新選組のすが
たではないでしょうか。
前川邸、ここが土方歳三による凄惨な拷問が行なわれた場所です。
壬生寺
壬生寺本堂、この本堂の前で調練が行われた。
近藤勇の銅像
居酒屋の前にある池田屋騒動之碑
芹沢鴨の墓・・
乱暴狼藉を繰り返した芹沢鴨局長とその一派、会津藩公用方より沙汰があり土方は血の粛清を
断行した。角屋で宴席を設けて酔って八木邸に帰り、更には八木邸でも妾のお梅を呼び寄せて
平山・平間と大いに盛り上がった。各自宴が終わり寝入ったところを、土方・沖田・藤堂・御倉の
四人で押し入り平山の首を斬り、芹沢を屏風を被せて動けなくして惨殺した。